第4章 終わりの始まり

1 明智の回想

 嫌なことを思い出してしまった。


 民家の生垣の側で、明智は眉間に皺を寄せた。

 いい気持ちで、春の訪れに心和ませていたのに、よりによって、脳内に蓄積されている膨大な記憶の中でもいの一番に消去してしまいたい想い出をまざまざと再生してしまった。


 あの忌まわしき事件から、もうじき3年が経つ。


 結局、櫻井は明智の過去を暴露することはなく、山本の前職について調査する素振りもせず、佐々木という人間に迫ることもなく、次の春には訓練施設を卒業し、任地の朝鮮へと旅立って行った。


 以降、顔を合わせてはいない。


 年末の所長失踪事件後、当麻旭を所長とする新体制に移行しても、彼が無番地の諜報員を続ける選択をしたことだけは、事務手続きの関係で知った。


 面識すらない後輩の女所長を、自尊心の高い彼が、どのような思考を経て認めたのかは分からない。



 しかし、挙動不審だったとはいえ、何故櫻井は綾小路冬彦の正体を自分だと見破ったのか。


 同人誌には明智湖太郎という名どころか、本名さえも記載していない。

 同人仲間は上級生が多かったため、出征していたり、海外に留学してしまっていたりとすぐに連絡が取れる者はおらず、また所在不明の者もいる。


 当時を知る者は、自分と佐々木と九十九くらいなものなのだ。



 九十九先輩か?


 否、あの人がそんなことをするはずがない……とは言い切れなかった。


 度重なる留年で、実家からの仕送りを年々減額されている長老は、明智たちの在学中から万年金欠だった。


 そして、『吸血鬼探偵の事件簿』を何故か高く評価していた先輩なら、生活費の足しにできる金額の金銭を積まれ、「是非書籍化したいので、作者について教えて欲しい」と出版社の営業を名乗る男に頼まれたら。


 ここまで考え、明智は苦笑いをこぼした。


 今更考えても詮無いことだ。

 長老も昨年の春に漸く大学を卒業し、現在はどこぞの駐屯師団にいると聞く。

 大学に引き続き、兵舎でも十中八九、長老だ。



 山本の知り合いだという帝大生溝口は、次の春に帝大を無事卒業し、その後の消息は知れない。

 あらかた、九十九先輩よろしく兵役中だろう。彼には、恐ろしい目に遭わされたので、二度と会いたくはないが、どこかで元気にしていて欲しいとは思う。


 後に山本から聞いた話では、溝口は気弱そうな外見に反し、一高時代に武闘派社会主義運動に加わり、特高に検挙された経歴があるそうだ。

 何でも担当刑事の説得に改悛し、また、検挙事実の暴動計画については、関わっていなかったため不起訴処分となり、復学したらしい。


 さぞや担当刑事の腕が良かったのだろうという明智の感想に、山本は苦虫を噛み潰したような渋面で吐き捨てた。



「人の信念を曲げてしまう腕なんて褒められたもんじゃないよ」




 道草はこれくらいにして、帰社するか。


 深呼吸をし、今一度梅の香りを満喫してから、明智は歩み出す。



 帰ったら、旭と四月からの各諜報員の異動計画を詰めなければならない。


 ヨーロッパやアフリカ、南北アメリカ等、遠隔地への配置が決まっている者たちへの、意向打診は済んでいるが、日本国内や朝鮮、満州等比較的近場の任地の配置は本決まりではない。


 引き継ぎ期間が足りないと文句を言われないように急がねば。


 気づけば早足で、古びたコンクリート造りのビルヂングを目指していた。

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