4 櫻井の狙い
「まさか綾小路先生の正体が佐々木だったとはね。すかした顔してるけど、あいつも人間らしいところがあるんだな」
洗顔中、背後から聞こえたキザったらしく鼻にかかった声に、明智は顔を上げた。
起床時間前だというのに、洗面台の鏡越しに目が合った櫻井は既に背広を着ていた。
身だしなみに拘りがある彼は、タイピンやカフスなどの小物類を背広やシャツの色に合わせて統一感を演出したり、逆に敢えて鮮やかな色のものを選び、アクセントにしてみたりと全身の装いにおける、微妙な足し算引き算を的確に計算している。
今日の彼は、喪服のような漆黒の背広に、目が醒めるように鮮やかな青色のネクタイを選んでいた。
快晴の日の大海原を連想させられるブルーの上には、金色のタイピンを留めている。
一歩間違えると成金趣味に見える危険なコーディネートを嫌味なく着こなしていた。
けれども、何が洒落ているのか今ひとつ分からず、学生時代に引き続き、佐々木の手助けを受け、何とか浮かない程度に洒落た服を着ている明智は、「今日も何となく洒落ている」程度の感想しか持たなかった。
「当たり前だろう。佐々木は何でもできる天才肌だが、人間味のある暖かい心の持ち主だ」
傍に置いた手拭いで顔を拭き、眼鏡をかけてから振り返る。
一重まぶたのつり目と、薄い唇がにまにまと笑っていた。
小馬鹿にされていると感じ、不愉快になる。
「何がおかしい」
「いや、貴様は俺たちとは違うのだな、と思って」
「どういう意味だ」
「別に、そのままの意味さ。それより山本って凄いぞ。無口だし、地味なおっさんだと思っていたが、とんでもない。ありゃ経験者採用だな。途中から綾小路先生のことより、俺は山本の正体の方が気になってしまったよ」
喧嘩腰の対応は華麗に無視し、櫻井は新しいおもちゃを見つけた悪ガキの如く、好奇心で瞳を輝かせていた。
嬉々とした様子の彼を、明智は心底軽蔑した。
「他人の過去や秘密を詮索するのが趣味なのか? 随分と良い趣味を持っているな」
「そんな顔すんなよ。別に俺はタブロイド紙記者の真似事がしたいのではない。俺は人間の本質が見たいだけだ。外面が良く、涼しい顔で生きてる奴が、心の中はどす黒い感情がマグマみたいにドロドロ煮えたぎってるとか面白くないか? おまけにみんなそいつに騙されていて、気づいているのが自分だけだなんて分かったら、興奮するね」
野卑た笑みに台詞。
どちらも受けつけなかった。
「悪いが全く共感できない」
冷たく吐き捨て、立ち去ろうとしたが、進路を漆黒の背広を着た右腕に塞がれた。
瞬間、果実の香りが漂った。甘ったるい毒を含んだ悪魔の果物が放つ芳香だ。
「待てよ。もう少しだけ俺の話を聞いてくれ。山本は五感を研ぎ澄ませて獲物を探し、食らいついて離さない猟犬のようでいて、詰将棋みたいな地道で着実な捜査手法を取る。今回行動を共にして、あいつは、人探しなんて数え切れないくらい経験を積んでいると確信したよ。一体どんな仕事をしていたら、そんなことに精通できるんだ。憲兵でもやってたと俺は踏んでいる。面白くないか?」
「別に。例えそうでも、お互い過去を詮索しないのがここの掟だ」
真面目だねえ、と櫻井は鼻で笑った。
「まあさ、山本のことがあったから、正直綾小路先生なんて、途中からどうでもよくなっちまったのだけど、昨日の佐々木を見て、山本以上にこいつは俺を楽しませてくれるに違いないと感じたのよ」
「佐々木が?」
唐突に親友の名を出され、思わず聞き返してしまった。
相手にしてはいけないのに。
「ああ、そうさ。あいつは相当な闇を抱えている。お上品な華族の坊ちゃん然としているけど、腹の中は真っ黒だぜ。時折、お育ちにあるまじき野心を匂わせる男だとは思ってたけど」
不愉快極まりないが、あながち邪推とも言い切れぬ見立てだった。
本人が話したがらないので、明智もあまり詳しくは知らないが、佐々木は華族の跡取り息子ではあるものの、妾腹の子だ。
関東大震災で母親をなくすまでは、父親とは数えるくらいしか顔を合わせず、母子二人で下町の妾宅に住んでいたと聞く。
震災後、身寄りがなくなった彼を世間体を気にした父親は渋々引き取ったらしい。正妻との間にいた男の子が、不幸にも震災で亡くなったため、急遽跡取り息子が必要になったから、とも佐々木は自嘲気味に語った。
「だからこそ、大学までの学費や生活費は出して貰えたのだろうけどね。世間体を保つため、僕は一流の紳士になるよう投資だけはして貰えた」
引き取られた屋敷には、父親以外に正妻とその娘たち(姉になるそうだ)、多くの使用人が暮らしていたが、誰も彼を歓迎しなかった。
使用人たちも仕事としてとしか、主人の若気の至りで生まれた子の世話をしなかった。
誰にも愛されず、冷めきった家庭で佐々木少年は成長した。
震災後の生育環境が、彼の心に何らかの影を落としている可能性はある。
けれど、彼は不幸な生い立ちにも負けず、真っ直ぐに模範的な紳士に育った。
完璧すぎるくらいに。
佐々木は、真っ黒どころか、自分のことなんか顧みない程の潔白で優しい心を持っている。
そんな健気な親友に、下劣な野次馬根性丸出しの興味を向けられることが、明智は我慢ならなかった。
目の前に立ち塞がる男の胸倉を掴み、睨みつけた。
「この下衆が」
しかし、当の櫻井は怯むことなく、胸ぐらを掴まれたまま、へらりと笑った。
「そんな怒りなさんな。綾小路冬彦センセー」
「なっ?!」
驚愕で一瞬頭が真っ白になった隙に、手を払われた。
続けて、櫻井は乱れた襟元を直しつつ、耳元で囁いた。
「バレていないと思ったか? うすのろ。他の奴らはともかく、俺は早々に気づいていたさ。貴様、最初から挙動不審だったぜ。これからはもっと嘘を吐くときは表に出さないようにしないと、スパイなんて務まらない。まあ、良かったな、外面だけでも優しいお友達に庇って貰えて」
熟れすぎた果実のような毒々しい香りと生暖かい息がまとわりつき、明智は吐き気を催した。
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