2 吸血鬼探偵の事件簿
典型的なインテリ大学生らしく、青春の悩みの真っ只中にいる彼は、勉学に励みつつも、自分がどのように生きるかという命題に日夜頭を悩ませていた。
親の期待通り、同級生たちと横並びに、高等文官試験を受験し、高級官吏としての道を歩むべきだとは理性では分かっている。しかし、果たしてそれは己の人生を歩んでいると言えるのだろうか。
敷かれたレールの上をただ闇雲に進むだけの一生を、人生と呼ぶべきなのか。
自分にはもっと別の生き方が出来るのではないか。
青臭い自問自答を日夜繰り返し、享太郎はノイローゼになりかけていた。
そんなある夜、彼は夜道で、一人のお腹を空かせた清楚で可憐な、痩せ型だが尻は豊満な美少女に遭遇する。
彼女はいきなり「ずっとあなた様を影からお慕い申し上げておりました。どうか私を、あなた様の妻にしてください」と切り出す。
答えの見えぬ懊悩に疲弊していた享太郎は、美少女の申し出をよく考えずに受けてしまう。
すると、彼女はその場で彼に抱きつき、凍りつく童貞男の頚動脈にガブリと牙を立てたのであった。
少女は吸血鬼だったのだ。
次に目が覚めた時、彼は吸血鬼になってしまっていた。
日光に当たれぬ体になってしまった享太郎は、昼に外出できないため大学にも行けなくなったが、それを契機に、件の吸血鬼美少女真理亜と夫婦になり、夜間のみ捜査をする一風変わった探偵事務所を開業する。
そんな中、帝大の研究室で教授殺害事件が起こり、学長から依頼を受けた享太郎と真理亜は捜査に乗り出す。
なんだかんだで明らかになる、深い悲しみに満ちた真相。
憎しみに囚われた真犯人に、享太郎は吠える。
「復讐はさらなる悲劇しか生まない!」と。
泣き崩れる犯人、夫に熱っぽい視線を送る吸血鬼幼妻……。
そして物語は唐突に大円団へと着地する。
「……酷いな」
「文章は上手いけど、展開と登場人物が馬糞レヴェルだね」
「何だか気持ち悪いなあ。このヒロイン」
『吸血鬼探偵の事件簿』を読み終えた山本、小泉、松田の3名は、率直かつ忌憚のない感想をこぼした。
人間離れした洞察力を誇る彼らも、さすがに今読み終えたばかりの駄作の作者が、自分たちと横並びになって同人誌を読んでいる振りをしている明智だとは気づいていないようだった。
だが、相手が相手なだけに、油断はできない。
「櫻井、貴様はこのクソ小説の作者がどんな人物だと当たりをつけたんだ?」
誰に対しても愛想が良く、決して人の悪口を言わない山本にさえ、ごく自然に著作を『クソ小説』呼ばわりされた事実に、明智は静かに傷ついた。
いくら若気の至りでしかない、駄作の自覚のある小説でも、疑いの余地なくクソ認定をされるのは耐え難かった。
けれども、このクソ小説の作者が自分だとバレてしまう方が、余程絶望的なので、涼しい顔を保つ努力をした。
「まず、主人公の通っている大学や同人誌の題名からして、東京帝大の学生、学部は多分法学部だろうね。そして、作者自身も享太郎と似たような、学生にありがちな青春の悩みを抱えていた。ただし、享太郎ほど道を大幅に外れる度胸はない小心者だ。夜道で偶然、美少女吸血鬼に襲われ、そこから鬱屈した人生が180度変わるという突拍子もない展開は、刺激を求めながらも、安定にしがみつくことしかできぬ作者の心の底にある願望が、おかしな形で表面化したものだろう。ついでに言えば、女とはろくに付き合ったことがない。吸血鬼美少女の人となりが、とにかく薄っぺらい。主人公にとって、気持ちの良いことだけしか言わない、かわいいお人形だよ、彼女は」
「ヒロインの尻が大きいのも、作者の性癖か?」
「だろうね。尻が大きくて、美人で優しくて、従順で、手放しで自分のことを好いてくれる女が好きなのだろう、作者は」
滔々と語られる櫻井の私見は、悉く当たっていた。
『吸血鬼探偵の事件簿』を書いた当時、明智は、帝大法学部の学生で、青臭い悩みに昼夜足掻いていたし、同年代の女とは殆ど交流がなかった。
たまに佐々木の恋人のつてで、女子大の学生やカフェーの女給と食事をすることはあったが、二人きりで会えた女は一人しかおらず、その女には無言で喫茶店に置き去りにされた。
ただ、真理亜の尻が大きい件についてだけは微妙に違う。
子供の頃から祖父に長男として、安産体型の女を選べと口すっぱく言い聞かされていたから無意識にそういう設定を加えただけであり、自覚のある性癖ではない。
「明智はどう思う?」
不用意な発言をせぬようにしていたのに、櫻井が不意に尋ねてきた。
薄ら笑いを浮かべた歌舞伎役者のような作りの顔には意地の悪い笑みが張り付いていた。
「貴様の意見に賛同する。大方そんな奴だろうよ。だが、同人誌が世に出てから数年は経っているのだろう? 作者もきっと大学を出ているはずだ。今更、こんな駄作を突きつけられても、恥ずかしいだけで、嫌がらせだとは思わないだろうか」
実際に嫌がらせ以外の何物でもないと考えているが、それを言えないのが歯痒い。
第三者のふりをして、綾小路冬彦を慮る発言で、話の流れを変えるしかない。
常識人の山本が賛同してくれると期待もしていた。
しかし、現実は甘くない。
よりによって、あてになるはずの山本に反論されてしまった。
「ご本人には、フアンのふりをして近づけばいいだろう」
「あ、いや、でも迷惑……」
「フアンなんて言われたら、作家志望なんて舞い上がるだろう。あくまで先生のご機嫌を取り続ければ、迷惑ではなかろう」
「いや、そうとは限らないのでは……」
全部言い終わる前に、唐突に小泉が指を鳴らし、提案する。
「そうだ、最初に綾小路センセーにサインを貰って任務終了というのはどう? 燃えない?」
「それは面白そうですね。小説本編はつまらないけど。でも、僕らと同年代だと、海外の戦場にいる可能性もありますよ。その場合はどうします?」
「戦場まで馳せ参じるだけさ」
明智の意見なんて、誰一人聞いちゃいなかった。
皆、綾小路冬彦先生の正体を突き詰め、サインを貰うという目標に向け、前進し始めていた。
「決まりだな。明日、一応俺が所長に許可を貰いに行って来るよ」
「頼んだよ、サクラ」
「まず何から調べましょう」
「印刷所だな。櫻井、ちょっと奥付を見ていいか?」
「ほい、どうぞ」
まずい、まずすぎる。
こいつらが本気を出して調査をしたなら、遠くない将来、綾小路冬彦と明智湖太郎が同一人物だという証拠を提示され、サインを求められるだろう。
込み上げてくる笑いを我慢しているせいで、口元をもごもごさせている松田に同人誌とペンを渡される悪夢の如き光景が頭をよぎる。
逃げ切るには、残存する証拠を抹消していくべきだが、自分は思うようには動けない。
関係者の口止めをするにも、一人では限界がある。
協力者が必要だ。
同人作家綾小路冬彦の消息を探す作戦会議に参加しつつ、明智は無二の親友の人形のように端正な顔を思い浮かべていた。
その男は、仲間にしたら心強いことこの上ない逸材かつ、真っ先に口止めすべき相手でもあった。
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