第1章 同人作家綾小路冬彦
1 古本市の戦利品
あの忌まわしい事件が起こったのは、昭和13年の4月下旬か5月上旬だったと、明智は記憶している。
同年4月の頭から諜報員になるための訓練が始まり、やっと新しい生活に慣れてきた時分だった。
夕食後、生田にある訓練士施設の寮で、一期生たちは就寝前の余暇を思い思いに過ごしていた。
明智と相部屋の同期は全部で10人いたが、外出している者もいたので、居室内にいたのは明智と松田、小泉、山本、そして櫻井の5人だった。
発端は、櫻井が読んでいる本に松田が興味を示したことだった。
「櫻井さん、その小汚い趣味の悪い表紙の本は何ですか?」
当時から、歯に衣着せぬ物言いを存分に発揮していた自称天使の問いかけに、明智は度肝を抜かれて顔を上げたが、櫻井本人は気分を害した様子もなく『小汚い趣味の悪い表紙の本』を静かに閉じ、ゆったりと質問主に向き直った。
その一連の動作は、ベッドの上に長い足を魅せつけるように伸ばし、ヘッド部分にある作り付けの棚に軽く背を預ける座り方と併せて、腹立たしい程絵になっていた。
「作家志望の連中が書いた自費出版の同人誌さ」
青年らしい澄んだ声が穏やかに応じた。無関心を装っているが、小泉と山本も明智同様に聞き耳を立てているように見えた。
「だめですよ、ゴミ拾ってきちゃ。ちゃんと元の場所に戻して来てください」
短気な者なら殴りかかりそうな暴言だったが、櫻井は快活に笑った。
笑うと切れ長の一重まぶたの瞳は糸のようになってしまうのに気にせず、思い切り感情を表に出す笑顔は、人から実直そうだと好感を抱かれるに違いない。
「はは、ゴミじゃないさ。先週末に神社でやっていた古本市で仕入れたんだ。荒削りだが、編集者の手が入っていない分、小綺麗に整えられた玄人の作品よりも生で面白いよ」
楽しげに返ってきた答えに、ええっ、とさる華族の一人息子だという触れ込みのお坊ちゃんは大袈裟に驚いた。
「わざわざお金を出して買ったのですか? その汚い本を? しかも中身は素人の下手くそな小説なんでしょう? 物好きだなあ」
「まあそう言うなよ。小説を読めば読むほど、人は心が強くなれるんだぜ」
櫻井は役者が見栄を切るような調子で、名言めいた言葉を口にした。
それを見て明智は、彼の持論には同じ本好きとして自分も大いに頷けるはずなのに、妙にざらついた気分になった。
端的に言えば、鼻につく。
無性にいらつく。
明智の胸のざわめきなんぞは歯牙にもかけず、松田はさらにきつい反駁をした。
「それは古今東西の名作でしょ。素人の駄作なんてお手洗いでお尻を拭くくらいにしか使い道がないよ」
世界中の同人作家が憤慨しそうな辛辣な発言だ。
対して、櫻井はあくまで穏やかに反論した。
「文学としては未熟だが、その分、作者の性格や願望が怒涛のように押し寄せてくるんだよ、この種の素人小説は。俺は同人誌を読んで、作者がどんな人物かと推理するのが楽しい。例えばこれ」
体を捻り、ベッド備え付けの棚から一冊の冊子を取り出した。
「これはある若い畳職人が書いた短編集なのだが、見てみろ」
渋々、差し出された本をつまんで受け取り、ざっと目を通し始めた松田が、みるみる不機嫌になっているのが傍目にも分かった。
「何これ。小説? 散文? 意味がわからないよ。作者、ここ大丈夫?」
訓練生一のわがまま自分勝手男は、つんつんと己のこめかみを指で指しながら小馬鹿にした口調で尋ねたが、相手はむしろ満足げに首肯した。
「ご明察。大丈夫じゃなかったから、この同人誌を作って数か月後に、ある刑事事件を起こして、今も神経科の檻の中にいるよ」
「うげえ。当たってもあまり嬉しくないな」
「そうか? 俺は楽しいけど」
理解を得られず、言動が不思議と明智の神経を逆なでしてくる同期は不服そうだった。だが、お坊ちゃん諜報員候補生も折れるつもりはないだろう。
議論して決着をつけるのも馬鹿馬鹿しい与太話であったし、ここで会話は終了だろうと外野ながら見当をつけた矢先だった。
20代前半から半ばの訓練生の中で、たった一人の30代の男が口を開いた。
「櫻井、面白そうだな、それ。俺もやってみたい」
一部の同期からは『兄貴』と慕われている山本が、腰掛けていた自分のベッドから立ち上がり、櫻井の側まで歩いて行った。
「さすが兄貴、分かってくれると思ったよ」
「悪趣味ではあるが、少ない情報から、個人を特定するという過程は、諜報員としての良い訓練にもなりそうだ。他に面白そうな作品はないのか? 腕試ししてみたい」
兄貴の奥二重の瞳は、好奇心で煌めいていた。お世辞ではなく、本心から楽しそうだと感じているようだった。
「お、いいね。だったら、これはどうだ?これも最近、ボロ市で手に入れたのだが、 実は俺も作者の精神状態や属性までは絞れたが、個人特定には至っていなくてな。結構な難問だぞ」
理解者を得、嬉々とした表情で、櫻井が枕の下から取り出した冊子を何気なく覗き込み、明智は一瞬、心臓が止まったかの如き衝撃を受け、続いて背中や脇の下から不快な脂汗が吹き出てくるのを感じた。
櫻井の色白で骨張った指の長い手が持っていた冊子の表紙には『本郷青年探偵団短編集その3』とおどろおどろしい活字で印字されていた。
「うわあ、酷そうだね、見るからに」
悪いことに、無関心を貫いていた小泉までが、食いついてきた。
そして、次に発せられた櫻井の台詞に、明智は足元がガラガラと崩れ去り、奈落の底にまで落ちていくが如き心地になった。
今度こそ、完全に心停止するのではないかと危ぶんだくらいの衝撃だった。
「複数の作者の共著なんだけど、俺が気になってるのは『吸血鬼探偵の事件簿』を書いた『
何であれをこいつが持っている。
金のない学生時代、大した部数は刷っていない上に、殆ど売れなかったのに。
しかも、参加したのは3巻目のたった一回だったというのに。
おまけに何故、数人の作家陣の中から、綾小路冬彦に興味を持った。
諜報員明智湖太郎にとって、同人小説家綾小路冬彦はスパイ候補生になる以前に得た偽名であり、痛々しい青春の想い出の象徴として、なかったことにしたい過去であった。
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