我が赴くは野菜の群
小早敷 彰良
脳よ!脳よ!
手に取る前から艶々としてその芳醇な味がわかるような黄色のオレンジ。
香りはその輝かんばかりの色とは裏腹に青く若く、豊かな酸味だけでなくアクセントとなる苦味をも訴えかけてきそうなほどだ。
私はテーブルに置いたそれに、フルーツナイフを入れてみる。
朝食であるそれは果汁の小爆発を起こし、飛散物が周囲に撒き散らされる。
被害は甚大であり、回復には数十分もかかる模様。
右目側にずっと映されているニュース映像風に今の食卓の状況を描写すると、こんな感じだろうか。
やってしまった。
ただでさえ出勤前で忙しいというのに、やらなきゃならないことに片付けまで加わるとは。果汁というのは案外糖分が強いせいで、こういう時拭き取らずにいるとべたべたした付着物が落ちなくなる。ずぼらな私が一人暮らしを始めた頃に学んだことだ。
そう、他のことを考えることで面倒くさい気持ちを紛らわせて朝食と片付けを済ませる。先ほど切ったオレンジは少し固くなったパンにバターと挟んで焼き、私の舌を大いに喜ばせてから胃の中に収まっている。
サラダにしようとし、切られるのを待っていた胡瓜は片付けの時間と出勤時間の兼ね合いから、シンプルに味噌に浸して齧った。噛むほど旨味が舌の上に丸まっていくようで、その瑞々しさは何故か最近流行りのアイドルを思い出させた。左目側の朝の占いで出演していたからだろうか。
やはり新鮮な青果物というのはこの宇宙時代において何にも代えられない、贅沢な味がする。
実際、このように丸齧りに出来るくらい新鮮な野菜や果物というのは、一個につきかなりの重さの黄金と交換されている星もあるらしい。右目側のニュースで、星丸ごと炎上した場所もそういった星の一つだ。この星から比較的近い位置にある上、その炎上の光景がわかりやすく地獄めいていたため、出演するアナウンサーたちは軒並み暗い顔で寄付を求めている。
火事の原因は強引な農業にあるらしく、新鮮な野菜を食べられるこの星の豊かさを謳う方向へ話が逸れている。豊かでない時期、五十年前ならもしかしたらこの事故は我々の星で起きていたかもしれない。我々は運が良かっただけなのだから、今は手を差し伸べましょう、という話に持って行きたいようだ。
ほーん大変だねぇ、としか言いようがない。親戚も知り合いもいない遠い国の話やそんな昔の話を持ち出されても困るのが私の正直な感想だ。
胡瓜の最後のひとかけを噛み砕く。
ぼりんという音が人骨を齧るような音に聞こえてしまった。
壁面に映していたテレビの電源を落とす。そろそろ出勤時間だ。右目側のニュース番組と左目側のワイドショーの音声が同時に止み、一人身の静けさが訪れる。これから仕事だと否が応でも認識させられるようで、この瞬間は何時になっても嫌な気分になる。
※
職場に着いてまず初めにするのは、タスクリストを確認しながら事務処理を済ませることだ。二つの仕事を同時にするのはこの星では一般的なことだろう。
そうしないと終わらない仕事量だ。普段からこうなのに、経理課という所属のせいで毎年年末には死ぬ寸前まで働かされる。出来る人に仕事が集まってくるから仕方ないよ、と課長にはよく諭されるが本当だろうか。体良く使われている気がする。
案の定、笑みを貼り付けた課長が近づいてきた。
「ケプカくーん、ちょっと良いかなぁ。」
ダメです、と言えないのが私だ。
「はい、何でしょうか。」
「最近、ニュースを見てるかい?」
「えぇ、ある程度は。」
「じゃあ第一万十七星の事故は知っているよね?」
あそこはそんな名前だったのか。
「そこの星に僕の親戚がいてさぁ。焼け出されたっていうから、一旦バイトで来てもらったんだよ。人手不足だって前ケプカくん言ってたでしょ? 丁度良いし、教育してもらえるかな。」
ふざけんなこの野郎。長い目で見れば助かる可能性はあるけれど、仕事が増えるじゃないか。と言うと何だかその親戚の人に申し訳ないし、とにかくふざけんな。
「えぇ…。」
全ての批判的な言葉を飲み込んだ結果、困惑のうめき声が出た。
「けっこう優秀な男だしさ、心配しなくても大丈夫だと思うよ。」
「本当ですか。」
「ちょっとあの星の文化が特殊で、戸惑ってるところがあるみたいだけど、まぁ、きっと仲良くなれるよ。」
多分厄介な人なのだろう、課長には厄介ごとを手放した開放感が漂っている。この分だと今週は残業続きになりそうだ。繁忙期ではないというのに、やってられない。
※
「初めまして、サトウと申します。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します。」
予想に反して生真面目そうな青年がやってきた。文化が違うと言うから腰布だけといった格好まで想像したが、きちんとしたスーツ姿だ。両目でしっかりと見つめてくる様子に、誠実な性格が浮かんでいる。
「初めまして、今日からしばらく業務を教えますケプカです。何でも聞いてくださいね。」
「はい。一日でも早く戦力になれるよう、頑張ります。」
好青年だ。笑顔がとても眩しい。あの上司の親戚というだけで色眼鏡で見てしまっていたかもしれない、反省しきりだ。
「とりあえず、君のパソコンの設定をしましょう。これが君の席ね。」
「はい、手順はいかがなさいましょうか。」
「手順はそこのモニターに表示されるのでそれに沿って。それが終わったらまずは書類の打ち込みをしてもらいます。」
「承知しました。」
「ではお願いします。」
もしかしたら本当に人手不足が解消されるかもしれない。もう明け方にシャワーを浴びるためだけに帰らなくて良いのか。
当たり前の幸せに浸りつつコーヒーを淹れに給湯室へ急ぐ。あの青年の分も淹れてあげよう、良い人だとわかった途端優しくしたくなった。我ながら何て現金なのだろう。
給湯室には先客がいた。高身長にピンヒール、パンツスーツの目立つ女性。営業課のシーマカさんだ。この時間、よくここでおにぎりを立ち食いをしている。
「おはよう、ケプカちゃん。なんか新人さんが来たね、どんな人?」
いつもながら耳の早い人だ。シーマカさんは話しながら、手早く二人分のコーヒーを淹れてくれる。
「とても良い人そうです。課長の親戚らしいのですが、例の惑星火事で焼け出されて頼ってきたと。」
「酷い火事だったものね。家族とかは大丈夫だったのかな? 」
「まだ聞いてません。」
多分これからも聞けない。
「聞いてきてよ。」
「嫌ですよ、そんな無神経な。」
「えー。」
「もしかしたら辛いことがあるかもしれないじゃないですか。」
「そういう地雷を今後踏まないよう知っておきたいんだよ。」
この先輩は気の良い人なのだけど、こういう狡猾なところがある。
「なら自分で聞いてください。」
話をきってコーヒー二人分のカップを持つ。片手で複数のカップを持てるのは私の小さな特技の一つだ。
「ちぇっちぇっちぇー。まぁいいや、このクッキーも持って行きなよ。封開いてるし、湿気る前に食べちゃいな。」
シーマカさんが差し出したのは何枚かの小袋に入ったクッキー、甘いだけでなく中にこりこりとしたアーモンドが練りこまれている、少し高価なものだった。きっと来客時に開けたものが残っていたのだろう。
きっとあの青年も喜んでくれるだろうな、このクッキーは私の大好物の一つだ。空いている右手でクッキーの袋を掴む。数枚は一人で食べる分としてポケットに入れて確保した。
「じゃあ、今日も一日頑張ろうね。」
「はい。」
優秀な新人が来るとこんなにも気持ちが華やぐのか。
※
机に戻ると地獄が待っていた。
サトウくんは床に蹲り、備え付けのごみ箱に吐き続けていた。モニターにも吐瀉物は散っており、椅子は倒れている。
何かあったのか、何かされたのか。慌てて駆け寄りつつ、近くの机に手のコーヒーとクッキーを置いて周りを右目で睨みつける。
目が合った何人かの同僚が新人の介抱をしていないことを誤魔化すかのように、何もない程で左目を反らす。
初めて会ったとはいえ、余りに薄情じゃないか?
「どうしたんだ、具合が悪いのか? 医務室に行こうか。薬を持ってこようか。」
「ぅえ、えっ、だっ、ごめ、なさ。」
「あぁもう、謝るな。水持って、いや、このコーヒーを飲め。落ち着くかも。」
「ありがと、ござっ、うげっ。なにこれ。」
飲んだ分、そのまま吐かれた。重症だ。職場に救急車を呼んでも良いのだろうか。
可哀想に、サトウはパニックに陥って、息も上手く出来ない様子だ。
緊急時だし仕方ない、これで怒られたら私にも考えがある。経理課の内勤の私は、職場の電話を久しぶりに外線につないだ。
※
「三半規管の一時的な混乱ですね。」
「つまり? 」
「平たく言うとコンピュータ酔いですね。」
あれだけ苦しそうだったのに、それだけ?
「外の星から来た人によく発症するんですよ。」
医者は事も無げに言う。成り行きで付き添いになってしまった私は、彼の病状を聞いて頭を抱えた。
深刻でないことはとても良いことなのだけれど、これでは大騒ぎした私が恥ずかしい。
「あそこまでの激しい症状は中々出ないですからね、慌てるのも仕方ないですよ。」
電子カルテを何枚も広げながら慰められる。そんなことを言われても、それこそ仕方ない。
案の定、救急車が来ていることに課長は良い顔はしていなかった。報告書の作成などが面倒だからだろう。
「彼、サトウさんの治療は完了しておりますし、意識も回復しております。」
「良かった! 」
私は心から言う。面倒なことは多々あれど、先ずは人間として真っ当に後輩の無事を喜ぼう。
「ただちょっと、混乱しているみたいですのでしばらくそっとしておいた方が。」
そういう訳にはいかない。先ほどから課長のメールが何通も来ており、彼、サトウの様子を連絡するよう指示を受けている。
こういうのは業務命令に入れて良いのだろうか。出張手当を付けてやろうか。
「そうですか、会うならカルチャーショックに備えてくださいね。では、次の人。」
どういうことだろうか。それ以上聞く間もなく、医者の前から追い出される。
ただのショックならまだしも、カルチャーショック?課長も文化の違いと口走っていたし、何なのだろう。
そういえばどのような治療をしたか聞きそびれた。
※
彼は既に起き上がって、ベッドに腰掛けていた。
「ケプカ先輩。」
そう言うと彼は右目でこちらを見る。左目は誰が飾ったのだろう、ヒヤシンスの生けられた花瓶を見たままだ。
ああ、これがこの星の住民の目の動きだ。
どうして彼に会った時、一生懸命な好青年だと思ったのか、ようやくわかった。
皆と違い、両目で真っ直ぐに見つめてきたからだ。
※
この星では生まれた時、ある手術を受ける。
臍の緒を切ると同時に右脳と左脳の繋がりを切って、独立して動かせるようにするのだ。
複数の情報を同時に受け取れる、だとか、感情を司るという右脳と論理的思考をするらしい左脳を切り離すことでどちらも深く考えられるようになった、だとか良いところは多々あれど、一番の利点はそう、野菜が美味しくなったことだ。
脳味噌を弄るのだ、そうでない人類と我々は味覚が違っている。
他の星で耐えられないとされている味も、我々にとっては故郷の味。
こうして我々のご先祖様は、野菜や果物不足、ビタミン不足を解消したのでした。
とある星の医学辞典抜粋
※
「俺、出稼ぎのつもりだったんですよ? 」
サトウの左目から涙が溢れ、遅れて右目からも伝っていく。
「この星のご飯は美味しくないとは聞いていたけど、こんな事情だっただなんて、知らなかったです。」
困惑した。
いきなり故郷の味を否定されたが、私としてはとても美味しい品々だ。特に新鮮な青果物がたまらない。他の星では味わえない逸品揃いだ。
「食いつなげるように、って故郷のクッキーまで用意してもらったのに。」
彼がおざなりに取り出したのは、クッキーだった。私が朝、ポケットに入れたものと見た目はほぼ同じ。
「あげますよ、ケプカ先輩。食べてみてください。」
それで彼が落ち着くなら、とそれを口に入れてみる。
瞬間、口いっぱいに苦味と塩辛さが強烈に混じった味が広がった。これは食べ物と呼んではいけない代物だろう、気つけ薬だとか、そう言う劇物と言われたら納得してしまうかもしれない。
後輩が見ている手前、吐き出すわけにもいかず、出来るだけ早く飲み込んで処理する。
「不味かったでしょう。」
「不味いとわかっているものを人に食べさせるなよ。」
慌てて文句を言う。
「美味しかったんですよ、それ。」
「なんだそれ、賞味期限で腐ってたのか。」
「いいえ、そんなことは。本当に、美味しかったのに。」
そう言ったっきり、彼は頭を抱えて、黙り込んでしまった。
支離滅裂だし、一旦帰ったほうが良さそうだ。
「よくわからんが、元気出せよ。」
そうだ。
「クッキーのお礼にこの星のクッキーをやる。不味いかもしれないが高級品だし、きっとあのクッキーよりはマシな味だろう。」
ぴくりとも反応しない彼の横のテーブルにクッキーの小袋を置くと、私は立ち去った。
課長にはどう報告したものか。疲れが溜まっていたようだとか言っておこう。
新人が入ったはずが、やっぱり明け方の帰宅は止められないらしい。
会社に戻る前に、喫茶店でケーキでも食べてやろうか。
※
もう、まだ食べるの?
あの星のご飯が美味しくないって言うのは有名だけど、食いだめなんて無茶しちゃ駄目だよ。ほら、口元べたべた。ふふ。
週末には帰ってくるんでしょう?
この星とあの星は遠いけど、一日もあれば移動できる時代だものね。
だから、また作ってあげるから。
そうだ、日持ちのするクッキー作ったの! これで週末まで頑張ってね。
いってらっしゃい。
やぁサトウくん! 久しぶりだな。この星に来て一時間だね。
昼食は済ませたかね、そうか、あのレストランに行ったのか。評判の良いレストランだ、さぞ美味しかったろう。
劣悪な味? 味が反転している?
…この味こそ、この星の味。慣れないと美味しくないだろうけど、余り批判しないでくれよ。
何だこのモニター! 右と左で違う情報が目に入ってくる!
うわっ左右に視界が揺れて気持ち悪っ。3D酔いか、これ? 吐きそうだ、あ。
「このクッキー、美味いな。」
我が赴くは野菜の群 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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