5

 音楽準備室で待つこと30分。由利がやってきた。


「やっと来た。伊藤先生の話だと来ない日もあるって言うから、気が気じゃなかったんだよ」

「……どうして外村くんは来たの?」

「もちろん、由利とコレに用があったから」


 ピアノをそっと撫でる。彼女が楽しそうに弾いていたピアノ。

 いつもなら由利が座る席に、今回は俺が着く。


「これでも小さいときはピアノを習ってたんだよ。10年前に1年と数カ月だけ」

「え、弾くの?」

「由利はそっちの席ね」


 事情がのみ込めていない由利を座らせ、彼女の気が変わらないうちに行動に移す。

 背筋をただし、一回深く深呼吸。


 さあ、試合開始だ。




 演奏中は無我夢中だった。

 余裕なんてあるわけない。なにせ10年のブランクだ。

 頭の中に刻み込んだ楽譜を必死で引っ張り出し、鍵盤と格闘し続ける。




 時間にしてみれば1分と少しの曲だ。

 それなのに終わってみれば額からは汗が流れ、軽く息が上がっていた。

「感想聞いてみてもいいか」

「え、うん。えっと、良かったと、思うよ」

「本当か?」


 来ていきなり演奏を聞かされて、感想を求められれば混乱するだろう。

 でも、彼女がピアノから悪い記憶を想像しないうちに終わらせたかったのだ。


「俺はそうは思わない。まず、少なくとも3回は音間違えたな」

「え、5回じゃなかった?」

「リズムもめちゃくちゃだったろ」

「うん。難しいところに入ると途端に遅くなってたよ」

「他には?」

「全体的に左手が苦手なのが分かるし……これなんの意味があるの?」


 ああ、俺の行動は無駄ではなかった。

 由利はピアノを嫌いになっていない。好きな気持ちは変わっていない。

 わずかだけれど、声のトーンが上がっていた。楽しいことを話すときの彼女の特徴だ。


「俺のピアノはとてもひどい。ここ数日必死で練習してけれど、しょせんこの程度」


 由利の秘密を知ったあの日、俺は昔通っていたピアノ教室へ行った。

 そこの先生とはご近所さんのため、時々顔を合わせることはあったが、教室まで訪ねて行ったのは辞めたとき以来だった。


 ピアノを教えてほしいと頼んだら、当然のことながら訳を聞かれ、渋々「気になる女の子のため」という嘘であり本当でもある理由を述べたのだ。


『あらあら、青春ねえ。いいわよ。先生に任せておきなさい!」


 想像以上にノリノリになってしまったのは誤算だったが、こうして最低限の形をなすところまで教えてもらったので感謝している。


「それと、やっぱり俺はピアノを弾くの、好きじゃない」


 10年経っても、俺の性質は変わっていなかった。


「でも、由利は違うだろ?」


 きっと由利の心の中は今も混沌としているのだろう。ピアノを好きな気持ちと母への罪悪感がごちゃ混ぜになって、道に迷っているのだ。


「ピアノを弾くのが好きだって言ってたじゃないか。手が小さくたって、そんなの気にならないって」

「わからなくなっちゃたの……なにも考えずに楽しく弾けてたことが、夢みたいで」

「由利は難しく考えすぎなんだよ」


 彼女の瞳が揺れる。苦しみが伝染してきて、胸を締め付ける。

 こんなのはダメだ。由利は笑っている姿でないとダメなんだ。


「ピアノを好きな気持ちと母に乱暴してしまった罪の意識は、両方とも本物だよ。

 ただ、それを混ぜて考えてしまってるから苦しいんだ。

 ピアノが弾きたいのなら、遠慮せずに弾けばいい。申し訳ないと思う気持ちがあるのなら、めいっぱい悩めばいい。どっちの気持ちも大切にすればいい」


 俺の本音はシンプルだ。

 由利にピアノを弾いてほしい。あの軽やかで胸が躍るような演奏を聞かせてほしい。


 自分なら彼女の痛みを取り除くことができる、なんて軽々しく口にはできない。

 でも、再びピアノの前に戻るきっかけくらいなら。


「苦しいことばかりに目がいって、幸福なことをなかったことにしてしまうなんてもったいない。由利はピアノを弾いてもいいんだ」

「…………」


 由利の手が、ピアノをそっと触る。


「……いいのかな?」

「いいよ。俺が許可する」


 第三者がいたら、なに様だよ、と怒鳴りたくなるだろう。

 ただ、彼女の心を支えることができるならば、俺は傲慢だと思われてもいい。


「ねえ、手を出して」


 いつだったかのように、由利が右の手のひらを前に出す。

 俺はそれに左の手のひらを合わせる。


 ――15センチの触れ合い。


 彼女は目をつむり、静かに息をする。


「……よし!」


 勢いよく声を出すと、俺から奪うようにピアノの前の席に腰掛ける。


「お手本を見せてあげましょう」


 それは文句のつけようがない笑顔だった。






 

「お待たせ!」


 日曜日、午後2時。天気は快晴。


「どうだった?」

「まだ少しぎこちないけど、お母さんとしっかり話せたと思う」

「よかったな」


 彼女はなにも言わずに手のひらを差し出す。

 俺はそれに合うように手のひらを差し出す。

 ふたりの手のひらが、そっと重なる。


 これは二人の間のおまじない。

 前を向くためのおまじない。

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鍵盤の上を小鳥が踊る 瓜生 了 @uryu_ryo

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