4

「今日はピアノ弾かないの?」


 鍵盤の前に着いたまま、由利はなにもせずに宙を見ていた。

 今日適度に涼しい一日だったが、音楽準備室に吹き込む風はどこか肌寒く感じる。


「うん……いいの」


 ならば、なぜそこに座っているのだろう。他に用がある様子もないし、わざわざ教室から離れたここに来るのは不自然だ。


「……俺は部活に行くよ」

「怪我はいいの?」

「サッカーで腕はほとんど使わないしね。でも、ヘディングは避けないといけないか」


 今も、出血した部分にはガーゼを当てて、テープで固定している。

 医者には禁止されなかったので、気を付けていれば問題ないと思う。


「じゃあ、また明日」

「あっ……」


 声がかすかに聞こえた。

 振り返れば口を押さえた由利。その仕草がかえって聞き間違えではない証拠になった。


 しばらく黙っていたけれど、


「今日だけじゃなくて、しばらくピアノはいいかな」


 無理につくった笑顔で、ぽつりとこぼした。


「そう……残念だな」


 偽らざる本音だった。


「どうして弾かないんだ?」


 本音ゆえに、するりと口から出た言葉だった。

 ――俺はなにを言ってるんだ。

 彼女は思いつめた顔でピアノと距離を置こうとしているのに、ずかずかと理由を尋ねてしまった。配慮して、詮索せずに受け止めるべきだったのに。


 後悔とばつの悪さで、上手く呼吸ができない。

 はやくここを離れよう――返事をされる前に。


「どうしてもお母さんのことを考えてしまうんだ」


 一気に吐き出してしまったような話し方だった。

 動き出してしまえば、あとは自然と流れていく。由利が話して俺が聞くという流れ。


「ピアノはお母さんに言われて習い始めたんだよね。

 もちろん弾くこと自体も好きだったけどさ、同じくらいお母さんにほめられるのが嬉しくて続けてたんだ。小さな発表会でも、家に帰ったら大げさなくらいにほめてくれるの。

 ほんと、単純な理由」


 いい思い出なのに、痛々しい微笑みだった。


「……わたしね、お母さんに暴力を振るったの」


 由利は右手を震えるくらい強く握りしめた。


「お母さんにも耐えられないくらいつらいことがあったんだと思う。

 ささいなことで喧嘩になって、ぶたれて、床に倒れたわたしにおおいかぶさってきて……怖くなって、やり返したの。ぶたれたのなんて初めてだったから動揺して、何度も、何度もやり返して。……正気に戻った時にはお母さんの顔から血が出てて、わたしの手も赤くて」


 ああ、俺が怪我したときの青ざめた顔はそれを想起させたからか。

 頭から流れる血。手にべったりと付いた赤色。


「一度は気持ちの整理ができて、楽しく弾けてたんだよ。

 でも、今は無理。お母さんの顔が浮かぶとね、弾けなくなる。あんなひどいことをした手で楽しくピアノを弾いてちゃいけない気がして。

 心の中がぐちゃぐちゃ。……もう嫌んなっちゃった」


 彼女なりに悩んで悩んで、どうにか罪悪感と折り合いをつけていたのだろう。

 それを俺が崩してしまった。


 ――どうして俺は怪我なんてしたんだ。

 ――どうして怪我したのがよりにもよって頭だったんだ。

 ――もっと冴えたやり方があったはずだろう。


「……そうだったのか」

「そうだったんだよ」

「……無理するなよ」


 なんて薄っぺらい言葉だろう。

 でも、今の俺に引っ張り出せる限られた言葉だったのだ。


「外村くんこそ、無理しちゃダメだよ」

「ああ」


 自分が情けなくて、俺は逃げるように部屋を後にした。






「今日の外村はダメな感じだな」

「身体ボロボロだからな」

「痛みを受けるのが好きとか、そういう嗜好の持ち主だったのか?」

「まさか。和久井じゃあるまいし」

「俺は筋肉痛なら大歓迎だが、それ以外はお断りだ」


 音楽準備室から逃げ出して、遅れて部活に参加した。

 新しい傷をつくってきた姿を見て、顧問は大層呆れた顔をしていたが、無理はするなと念押しされただけで練習に参加させてくれた。


「話を戻すが、今日の外村は全然ダメだ。覇気がない。むしろ弱気しかない」


 ぐうの音も出なかった。

 自分でもよくわかっていた。調子が良いときはまったく自覚できないのに、悪いときはなぜか手に取るようにわかるのだ。

 休憩になるやいなや、和久井が俺のところへ来るほどの重症だ。


「昨日なにかあったのか?」

「見てわからないか?」

「事故以外でなにかあっただろ? ……女か」

「……わかるのか?」

「いや、勘だ」


 だと思ったよ。


「ところで外村よ?」

「まだなにかあるのか?」

「あの女性、こちらを見ていないか?」


 和久井の指差す先を見ると、伊藤先生が手招きしていた。


「女をとっかえひっかえ。しかも、今度は大人の女性ときたか。許せぬ」

「先生だよ。音楽担当の伊藤先生」

「俺は面識がないからな。呼ばれてるのは間違いなく外村だ。行って来い。いっそのこと帰れ。顧問には頭の具合が悪いから帰ったと伝えておこう。うん、完璧な理由だ」

「頭の具合が悪いって表現だけはやめてくれ。別の意味に聞こえる」






 グラウンドの隅で伊藤先生と並んで座る。


「思ったより元気そうで安心したわ」

「ええ、不幸中の幸いでした」


 風に長い髪がたなびく。優しい横顔をしているな、と思った。


「由利さんのご家庭について聞いたそうね」

「……はい、聞きました」

「……彼女、本当に頑張ってると思うわ」


 先生はもう少し詳しい事情について教えてくれた。由利の家が母子家庭だったこと。今は親戚の家に住んでいて、母親とは別れて暮らしていること、など。


「そんなことまで話していいんですか? プライバシーとか」

「由利さんに頼まれたのよ。私から説明してほしいって」


 本人の口から聞けなかったことに、悲しい気持ちが半分。でも、もう半分でほっとしている自分がいる。


「準備室のピアノはね、自由に使っていいよって由利さんには言ってあるの。部活もなにもやってないから、せめてなにかひとつ、学校の中で彼女が好きなことをできる環境をつくってあげたかったのよ」

「でも、俺が奪ってしまいました」

「あなたのせいじゃないわ。あまり自分を責めないであげて」


 そっと頭をなでられた。

 驚いて先生のほうを見ると、しまったという顔で、頬を染めながら手をひっこめた。


「生徒で彼女の事情を知っているのは外村君だけだから。できれば気にしてあげてほしいの。それと、距離を置いたりもしないでほしいわ」

「……善処します」

「ええ、よろしくね」


 立ちあがって、スカートについた砂をぱっぱっと払う。


「私、あなたと由利さんの相性はいいと思ってるのよ」






 いろいろと考えたが、ひとつだけ確かな思いがあった。

 それがどうやったら伝わるか考えて、俺は一つの方法をとることにした。


「さて、行くか」

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