黒い板塀の傾いだドア

南枯添一

第1話

 初めての路地に入ってみた。臨済宗の寺と倉庫のような見てくれの、窓の無い大きな家に挟まれた、狭い通りだった。寺を囲む高い土壁の上から、庭木の梢が突き出していて頭上を覆っている。若葉はうとましいまでに密生していて、濃緑の闇を孕み、通りまでも薄暗い。その中に、時折ポカリと浮かんだ花の赤が、目を射るほどに鮮やかだった。

 路地は狭いと言うより、窮屈だった。不自然さを感じるほどに真っ直ぐで、黒々とした土の匂いが立ち込めている。突き当たりには、黒い板塀が見えていた。通りはそこで鉤の手に折れている。

 板塀には少し傾いだ、ちゃちなドアが取り付けられていて、どうしたわけか、それに見覚えがあった。既視感デジャ・ビュとも少し違う。忘れていたことを思い出すような、あるいは忘れてはいけないことを忘れてしまっているような不快感が、針のようにうなじを刺した。

 板塀の通りは更に狭く、不安になるほど長く伸び、最後に、また鉤の手に折れて終わった。道の両脇は板塀からカナメモチの生け垣に変わった。春紅葉の葉がてらてらと紅い。

 また狭くなった。それからは何度もぎくしゃくと道は曲がった。何度曲がったか、数えるのを諦めた頃、しもた屋の列なりが両脇に並ぶようになった。引き戸にはめ込まれた曇りガラスが、頭上の葉群を映している。

 気が付けば、路地はひどく暗くなっていた。もはや、足下もおぼつかない。何処からか、ちろちろと水の流れる音がした。水と土の匂いは息苦しいまでに濃く、空気は地縛霊のように肩に重い。

 その薄暮の中に、無数の小さな花が、まるで彼らだけは光を浴びているかのように、浮かび上がって見えていた。しもた屋の玄関先に、幾つも並べられた植木鉢から、夥しい数の花々が噴きこぼれている。

 白や赤の花びらは閃光のようで、記憶に爪を立てる。

 ――ここには来るのは初めてではない。

 あまりに見覚えがありすぎた。その思いは耐えがたいほどに強まり、もはや痛みと言ってよかった。

 頭を振って、改めて前を向いたとき、路地は唐突に終わっていた。

 光が顔を照らし、視界が不意に開けた。いつの間に路地を出たのか? 気が付いてみれば、そこは狭い通りの中ではなく、渺々びょうびょうにして茫々ぼうぼうたる、不毛の荒野の一角だった。目の前の小高い丘を除けば何もない。

 丘の上の空は薄曇りで、べた一面の青灰色に染まり、わずかな光を孕んで、一様に輝いていた。その一角が鋭角に切り裂かれていることに不意に気付いた。丘の上には光を反射しない黒の立方体が建っていた。

 立方体は、建築物としてはあり得ないほどに鋭く、鮮明な輪郭線を持ち、その稜線で背景の空を断ち割っている。そこだけがディスプレイで、仮想空間内の完全な図形が描かれているようだった。

 非現実感が募った。何かのトリックだと信じたくなる。けれど、そんなことはない。ある。それはある。

 断言できるのは、それのことを思い出したからだ。今まで忘れていたのだが、全て思い出した。代わりに、帰り道が、今は思い出せない。

 あの路地には入ってはいけなかった。そのことは最後になって思い出した。

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