第4話 事実

 病院の出入り口から見える待合室は、電気が消えていた。

 休診日か? しかし、入院患者もいる病院で、受付が機能していないなんて。日曜日だから見舞いに来る人もいるだろうに―――

 車内から呆然とそれを見ていた千恵子に、優歌が話しかける。

「地下の駐車場に車を入れてください」

「地下?」

「はい。そちらの駐車場から、建物内に入る通路があるので」

 優歌は読み上げるような無表情で指示を口にした。その青白い顔に、何か胸の奥にひっかかるものを感じながらも、千恵子は首肯しハンドルを切る。

 言われたとおりに地下へ行く。そこには数台の車が止まっていたが、関係者のものか見舞い客のものかは定かではない。

「こちらです」

 促されるがままに、千恵子は優歌に続いて歩を進める。物品搬入用の出入り口だろうか、味気のない白い廊下が、施錠されていない扉の向こうに無機質に佇んでいる。白色の蛍光灯が、ぶん、と鳴いていた。

 千恵子のヒールの音が高く反響する。優歌の足取りは迷いがない。

「お父さんと津鹿元さんは、どこに?」

「こちらです」

 優歌はごく簡潔に応じた。言葉は本当にそれだけで、蛍光灯の音とヒールの足音だけの静けさに戻る。

 突き当たったドアも難なく開け、また新たな廊下が眼前に現れた。今度は進行方向から横に伸びている。その壁にはぽつりぽつりと扉が置いてあって、何か表札があるが、暗すぎて読み取れない。

 映画なんかで見る病院の地下には、霊安室とか、ホルマリンプールがあるものだ。この暗さと不気味さが雰囲気を醸し出しており、千恵子は鳥肌立つ二の腕をさする。が、優歌は案の定すたすたと先へ進んでいった。表情は窺えないが、怖くはないらしい。

「こちらです」

 非常階段のような階段を二階分のぼり、また現れた扉を開く。そこは人のいないナースステーション、ソファ、観葉植物、エレベータがある区画で、電気がついていないことから使われていない入院病棟の一画なのだと千恵子は理解した。

「ここにいるの?」

「こちらです」

 優歌は先ほどからその一言しか口にしない。

 だが、歩は進む。千恵子は周りを見渡しながら、彼女に続いた。

 薄暗い中で、窓際のソファに誰かがいるのが見えた。人影は一人。俯いている。こちらに差し出すように項垂れた、刈り上げられた頭に、千恵子はそれが津鹿元遼だと気付く。

「津鹿元さん?」

 驚いて近付き、声をかける。返事はない。彼のほかに人はいない。東堂医師は?

「東堂さん、お父さんは……」

 傍らに立つ優歌を窺って、千恵子はぎょっとした。

 優歌は全くの無表情だった。感情がない、という意味での。ただ目を見開いて、遼を凝視している。

「妹は……妹はどこに行ったんだ……」

 うわ言のような呟きは、遼の口から漏れているものだ。

「津鹿元さん」

 様子がおかしい。名前を呼びながらその身体を揺すぶると、遼はぐらりと体勢を崩した。ソファの上に、横になるように転がる。その弾みで、首がぐにゃりと曲がる。

「え……」

 曲がったのではない。落ちたのだ。

 床に落下した、重く丸いそれは―――

「きゃあああああ!」

 悲鳴を上げて、千恵子は飛びずさった。優歌は相変わらず無反応、津鹿元の身体はぴくりとも動かない。心臓の音が騒がしい。それに覆いかぶさるようにして、外界の音が千恵子の頭に侵入する。

「エリ……」

 腫れあがった津鹿元の落ちた顔が、千恵子を向いて呟いた。

 それが相好を崩す―――いや、違う。胴体もろとも津鹿元の全身が溶解していき、緑色のスライムのようなものに変化していく。緑の海に沈む一際輝くビー玉のようなものが、ソファに残った。

 優歌がそれを拾い上げる。

「とうどう、さん」

 彼女はそれを口に入れた。

 その後恍惚の表情で何か呟いていたが、千恵子は聴き取らなかった。駆け出していたからだ。普通ではない。ここにいてはいけない、そのことをようやっと悟り、千恵子は逃げ出す。

 だが上ってきた階段に繋がる扉はかたく閉ざされている。

「足りない」

 生きるもののないような静寂に、落ちた言葉がはっきり、千恵子の耳朶を打つ。




 今までになく鮮明な、臭いだ。本能を剥き出しに、獲物に喰らいかかろうとしている、まさにそんな臭いがする。

 だが狩りの臭いは新たな狩人を引き寄せる。

 それが分かっているのか、いないのか。

 いや、臭いに引き寄せられる者たちをも、喰おうとしているのだろうか。

―――上等だ。

 喰えるものなら、喰ってみろ。

 舌なめずりしながら、彼は灯りの消えた病院を見上げている。



「ったく、何なんだこいつは?」

 背中から蛾の羽根を生やした人間の頭を掴み、廊下を行きながら彼は独りごちる。どうやら女らしい―――複眼付きの顔は中途半端に人の原型を留めていないので、推測でしかないが―――そいつは、さっきからずっと甲高い悲鳴を上げ続けている。だが暴れても彼の握力は撓みも緩みもしないので、そいつの全身はずりずりと、羽根を下敷きにして床を擦っているばかりだ。

『こいつもハズレだ。捨てていこうぜ!』

「こんなところに放置していたら、大騒ぎになるよ」

 呆れた口調で相棒に言い返し、彼は人気のない周囲をきょろきょろと見渡しながらも迷いない足取りで進み続ける。

 薄暗いその病棟は、医師不足のために今は閉鎖されている区域だった。ニュースで聞いた情報なので、全く人の立ち入りがないのかまでは把握していない。

 だが、彼の用はここにある、間違いなく。

「大まかな場所は分かるから、そこまで連れて―――ん?」

 ふとそれに気付き、彼は立ち止まる。視線の先には半分ほどブラインドの下りた窓。窓の外には駐車場、まだ機能していて人がいる一般病棟。

 そう、“いる”。

『なァ相棒』

 姿無き声に耳を傾ける。意識もまた自然と、自分の今いる建物内に戻ってきた―――向かう先に広がる闇、そこに息づくもの。

 すぐ先にも“いる”。

『―――冬虫夏草って知ってるかァ?』

 肯定と言うより納得の意味で、天真は小さく首を動かした。




「冬虫夏草ってご存知ですか?」

 足音が響いている。目の前の少女が立てている音だ。だが少女らしくはない。少女はPタイルの床で“みしりみしり”という足音は、立てない。

 東堂優歌は愛らしい、少し困ったような笑みを向けてくる。

「―――蛾の幼虫に寄生する茸の一種なんです。漢方なんかでも使われるから、けっこう有名ですよね。あっ……今はあんまり関係ないんですけど」

 漢方が云々のことだろう。千恵子はうんざりと、唯一動く首で頷いてみせた。手足や胴体は手術台に固定され、よくある手品の人間の的みたいに壁に立てかけられている。

 そして千恵子の真横には、青白い顔をした白衣の男性―――優歌の父である東堂医師が直立している。

「一つ訊いてもいいかしら?」

「はい?」

「私は、これから、どうなる予定?」

 視界の限りを行ったり来たりしていた優歌は立ち止まると、真ん丸な瞳に不思議そうな色を浮かべてこちらに向けた。

「それは勿論、わたしのお食事です」

「……あんたが怪物の元締めってわけ?」

 優歌は無邪気に笑顔を見せると、大きく頷いた。儚い少女の面影は無い。これなら、そこいらの女子高生となんら変わりはないだろう。

 目が、真っ黒に染まっていなければ、だ。

「正確に言うと、わたしは本体です。餌になる人に分身をとりつかせ、そこから養分を吸ってます。分身は成長するんですけど、それに比例して養分は減っちゃってかすかすになるんで、餌は結局いっぱい要るんです」

「つまりあんたが“冬虫夏草”、餌にされた患者さんが“蛾”なわけだ」

 最初に千恵子を襲ったのも、江戸伸也も、ネズミが守っていた繭も、蛾の“なり損ない”。

「そのとおり」

 二人が喋くっている間、東堂医師は瞬き一つしない。彼も“蛾”なのだろうか? ―――千恵子はあまり考えないようにした。優歌が父親を手にかけ、その立場を利用して彼の患者を犠牲にしていったのだという想像は今は嫌なものでしかない。

 治療薬というのも、彼女がでっちあげたシロモノ―――化け物生成薬だったということだ。

 優歌が近付いてくる。間近で見れば見るほど、瞳孔も白目もない目は不気味だ。覗き込まぬよう、目を背ける。

「麻倉さんは、とてもいい餌になると思います」

「そりゃどうも」

「お世辞じゃないですよ? 甦るには意志が重要なんです。“生きたい”って意志が」

 思わず千恵子は優歌を見た。

「“甦る”?」

「はい。言いませんでした? わたしは一度死んでいるんです。例の病気で」

 優歌は楽しげに両手を広げた。

「―――こんなふうに甦っちゃいましたけど!」

 千恵子はぽかんと、馬鹿みたいに口を開けて呆けていた。

 一度死んで、甦った? この娘は、それを神が与えた奇跡かなんかだと思っているのだろうか。父を含めた何人も人を手にかけ、生きながらえる今の状況を?

 “普通の人間”の神経ではない。

「“甦り”をするには、死にたくない、という心構えが大事なんですって。逆にそれがないと―――もう死んでもいいやって思っちゃうと、あっさり死んじゃうんですよ。さっきの津鹿元さんみたいに」

 千恵子ははっと気付いた。妹の死の真相に近付いた彼もこの娘の毒牙にかかったのだ。津鹿元遼は上の空のまま、化け物にもならずにどろどろに溶けてしまった。

 そこで、千恵子は声を上げた。

「冗談じゃないわよ!」

「今更ですかあ?」

 優歌が手に取ったのは、注射器だ。中に赤い液体のようなものが入っている。その中身が何で、これから誰に打たれるのかは、推して知るべきだ。

 千恵子は必死で暴れるか、手術台はびくともしない。

「冗談……っじゃない、私はまだっ……死にたくない!」

「その調子です、麻倉さん。実はわたしを邪魔するやつがいて、分身の数が大分減っちゃったんです。麻倉さんみたいに浅ましく生きもがく人は能力の高い“甦り”になるんで、大歓迎ですよ!」

「馬鹿言うな! そういう意味じゃないっ!」

 死にたくない、死にたくない、ちゃんと生きていたい、死んでたまるものか―――

 そう思ったとき、真横の扉が凄まじい音を立てて吹き飛んだ。

 向かいの棚に扉が激突し、ガラスが割れて降り注ぐ。扉の下敷きになって痙攣しているのは東堂医師。そう、彼は扉の前に立っていたのだった―――唖然とする千恵子をよそに、口を開けた出入り口から踏み込んでくる、影。

 それは小柄な、高校生の姿をしていた。

「ひっ、広瀬くん!」

 思わずその名を呼び、千恵子はとんでもなく後悔して、呻いた。

 千恵子を向いた天真の目は、気味の悪い緑色をしていた。

 まるで発光しているような澄んだ色を伏せて、天真は千恵子から興味を失ったかのように、しかし、歩だけは進める。虫の鳴くような音に首を伸ばすと、天真が何かを引きずっているのが見えた。……詳しくはあんまり見たくない、例の奴みたいだし。

「お父さん!」

 驚きに我を失っていた優歌は、叫びと共に父に駆け寄ろうとする。が、天真がそれの邪魔をした。彼は持っていた“例の奴”―――蛾人間を、優歌に向かって放り投げたのである。

 優歌はそれ諸共もんどりうって引っくり返る。その隙に、天真は扉の下から東堂医師を引きずり出した。

「こいつが隠していた“核”か?」

「やめてっ!」

 優歌がすがるように叫ぶ。こんな姿に成り果ててもなお、親への愛はあったのか―――と思いきや、様子は少し違うようだった。天真は優歌を無視し、東堂医師の口の中に手を突っ込む。

 取り出したのは、ピン球大の白い玉―――いや、卵のようなもの、だ。

 何の卵かはこれも想像したくない。

「やめて!! お願い、やめてえ!」

「同じ懇願をお前は何度聞き流してきた?」

 天真は冷え切った声で尋ねた。返る言葉も待たず、独白は続く。

「抵抗できない生者を殺して寄生して、てめーは腹いっぱいで満足か? ええ?」

 抜け殻のようになった東堂医師を足元に横たえ、天真は優歌を睨みつけている。

―――怒っている。

 こいつら、同じ。化け物、でしょ?

 仲間割れ、かしら。

 訝しんでいた千恵子の首を、優歌が掴んだ。注射器を持った腕が振りあがる。少女とは思えぬ力に、千恵子は抵抗できず、か細い悲鳴を上げるしかできない。

 が―――いつまで経っても、注射器が首に突き刺さることはなかった。

 優歌は歯を食いしばった形相のまま、石になったように固まっていた。

「“ヘビににらまれたネズミのようだ”ってね」

 天真が肩を竦める。

 優歌の動きこそ止まっているが、首を絞める手はそのままだ。空気を求めて千恵子が喘いでいると、それに気付いた優歌が言った。

「このままだと、わたしは麻倉さんを絞め殺すわ」

「それで?」

 天真は素っ気ない。

「あなたが持っているわたしの卵を置いて、わたしを解放しなさい。そうしたらあなたも麻倉さんもこの場は見逃してあげるから……」

 哄笑が響いた。乾いた笑い声だ。腹を抱えているのは天真だが、彼が出しているとは思えない声だった。

「解放しろ? 見逃す? ……なーに言ってんだてめえは! ンな女どうなろうと、最初から知ったこっちゃねえよ! 俺たちの目的はな―――」

 天真は手に持ったままだった、白い玉を口に放り込んだ。

 噛む動作も無く、喉がそれを嚥下する。悲鳴を上げたのは優歌だった。千恵子から手を放した彼女は全身をくねらせて絶叫すると、床にくずおれた―――いや、違う。彼女はみるみる溶けていき、緑の染料をぶちまけたような痕が、彼女の立っていたところに残るだけとなった。

 目を瞬かせていた千恵子は、突然すべての束縛から解放され、床に膝をつく。へたりこんだ脚に鋭い痛みが走る。ガラスの破片を踏んでしまったのかもしれない。

 尖った爪が光に反射する。加減を確かめるようにその指先を動かす、天真が正面に立っている。

「ったく……さんざん苦労させて、この味かよ。これなら先にあっちを―――」

「ひろせくん、なの?」

 あまりの変貌ぶりに、思わず千恵子はそう呟いてしまった。盛大に顔をしかめていた天真は緑の目でぎょろりと千恵子を見下ろすと、吐き捨てるように言った。

「だったら何だってんだ」

「あなた、一体何者なの」

 いつかした質問を、千恵子は口にした。

 天真は少し考えるように間をもたせたあと、こう、答えた。

「死人」



「こんなところでインタビューか? まあいいぜ、俺は相棒と違ってあけっぴろげだからな」

 部屋の隅にあった丸椅子を引っ張ってきて、天真は倒れたドアの上にそれを置き、腰掛けた。椅子にもガラスのかけらが刺さっていたように見えたのだが、彼の平然たる様子からして目の錯覚だったのかもしれない。

 千恵子は溜息をつきながら、周りを見渡した。東堂医師も天真が連れてきた“なり損ない”も、緑のどろどろした物体に変貌している。

 優歌がボスだったというのは間違いなかったらしい。

「あなたは……東堂さんの仲間じゃないの?」

 組んだ脚に肘をついた状態で、天真は答える。

「分類上は“お仲間”だろうさ。俺もさっきのも“甦り”だ」

「一度死んで、生き返った?」

「その表現は正しくねえ。俺たちは厳密には“死んでいる”」

 何故だか、五年前のバス事故を思い出した―――彼はいつから“死んでいる”のだろう?

 人差し指をくるくる回し、天真は続ける。

「“甦り”は生者と同じものを食って生活することができない。俺たちの食糧はもっぱら人の魂……というのか、そういうもんだ」

「人の、魂?」

「具体的にそれがどういう形なのかは“甦り”による。“甦り”は人間態と変態を持っているが、経験上後者が主に影響するらしいな」

「東堂さんの場合、東堂さんと“冬虫夏草”?」

「そう。俺の場合、相棒と俺だ」

 ここで千恵子は、ようやく気付いた。

「あなたは広瀬くんじゃないわね?」

「クケケケケケ俺は“巳”。“核”を分けていたさっきの奴と違って、相棒とは二心同体で仲良くやってるぜえ」

 へび、という名を千恵子は反芻する。ということは、天真が変身するとヘビみたいな化け物になるのだろうか。

 そう言われてみると、何度かそんな化け物に遭遇していたような気がする。記憶のピースが繋がる。ビル街の夜、繭ネズミの駐車場……。

「ひょっとして、私の命を助けてくれたこと、ある?」

「ケケケ! 恩知らずな奴だな、今まで気付きもしなかったのかよ!」

 天真―――いや、巳は哄笑を上げる。

 呆然と千恵子はその笑い声を聞いていた。すると、新たに浮かんでくる疑問が一つ。

「どうして助けてくれたの?」

 ぴたりと哄笑がやんだ。

「そいつは相棒に訊きな!」

 言うと、彼は目を閉じ、開いた。そこにあったのは普通の人間の目。緑の光はどこにも浮かんでいない。

「……麻倉さん」

「えっ、と、広瀬くん?」

 はい、と掠れた声で低く少年は返事をする。これは天真だ。

 やはり“巳”とは別人なのだ。

「今、巳って名乗る人が……」

「ああ、いいです。あいつが勝手にいろいろするのは慣れてますから」

 肩の辺りを払いながら、天真は言った。深い息をつくと、椅子から立ち上がる。

「あまり長居は無用です。撤収しましょう」

「あ、あの」

 すたすたと歩き出した天真に、千恵子は思わず声をかけてしまった。

「何ですか? ……ああ、僕は地下鉄で帰ります。一緒じゃない方がいいでしょうし」

「そうじゃなくて。わ、私……色々聞いちゃったけど」

 “甦り”の話。天真自身にも関わるはずだ。

 天真はああ、と生返事を返すと、こう続けた。

「僕は、生きている人間は喰いませんから」

 記事にするならご自由にどうぞ、ただし。

「これだけ返してもらいます」

「あっ!」

 天真がズボンのポケットから取り出してひらひらと振ったのは、ビル街で撮った、蛾を喰う謎の影―――彼自身の写真。オフィスに行ったとき、千恵子が応接間にそのままにしていた写真資料から抜き取ったのだろう。

 そのまま歩き去っていく背を見送りながら、千恵子はぽつりと呟いた。

「写真ナシで記事にしたところで、誰も信じちゃくれないじゃない……」




「はあ、やれやれだわ」

 病院の地下駐車場をよたよたと歩く千恵子を、木場が苦笑した。

「お疲れさんです」

「あんたもわざわざごめんね。帰るトコだったのに」

 病院窓口と警察にさんざ事情を聞かれた帰り道だ。病院に到着後優歌と千恵子ははぐれ、千恵子は優歌を探して病院窓口へ行った―――千恵子はそういう筋書きにしておいた。患者遺族である津鹿元遼も東堂親子ともども行方不明になってしまったのだが、三人の関係には無縁な千恵子が絡んで事件沙汰になる可能性は低い。

 とはいえ警察の詳しい事情聴取は避けられない。憔悴しきった千恵子を見て、警察は一度社に戻ることを許してくれた。木場は千恵子が社に電話を入れたとき、迎えに来ると言ってくれたのだ。千恵子も今の精神状態で車を運転して帰るのはいやだったし、一刻も早く病院から離れたかったのもあって、喜んでその申し出を受け入れた。

「いえいえ。この機を逃したら、また先を越される気がして」

「先?」

 先行していた木場が、ふと立ち止まる。千恵子の車は縦列の、まだ何台か先だ。

「だって、こっちはずっと張ってたんスよ。なのに、ぺろっといかれちまって。最悪だ」

「なに、何の話」

「腹ァ減ってんすよ、千恵子さん。俺は」

 くるっと振り返った。

 木場の目は真っ赤だった。

「―――おあずけは十分。もう喰っちまっていいよな?」

 伸びたのは、腕か、舌か。

 首に絡みついた肉の感触に、千恵子は悲鳴を上げた―――上げたつもりだったが、上がらなかった。喉を圧迫され、代わりに息だけが漏れる。車のキーが手から滑り落ち、床を打つ音が場違いに響いた。

 木場の頭がぱっくりと割れ、そこから灰色の紐みたいなのが飛び出していた。

 この紐が千恵子の首に絡んでいるものの正体だった。千恵子は身をよじって抵抗するが、びくともしない。木場は―――いや木場だったものは、割れた頭で器用に話を続ける。

「なあ、仕方ないだろ、千恵子さん。こんなつもりじゃなかったのになあ。あんたが悪いんだぜ、あんたを喰う気はなかったのに、一回守ってさえやったのに。あんたはあいつに味方しちまったから」

 抑揚無い声で何か言いながら、割れた頭が近付いている。千恵子が引き寄せられているのだ。口の中にはぞろりと尖った歯が並んでおり、このままいけばあれでがりがりいかれるのは必定だった。

 こんなのってないわ。折角助かったと思ったのに―――

 苦しさに目を閉じかけた瞬間、呼吸が楽になった。

 投げ出され、千恵子は星が飛ぶ視界の中を落下し、床に叩きつけられた。激しく咳き込みながらも、自分の正面に制服姿の少年が立ったのを知る。

「待ってて正解だった」

 ぽつりと呟きを落として、天真は首を巡らせた。



 睨みあった相手は、人間の面影どころか生き物の形もしていなかった。

「おーい、巳。“なり損ない”でなくても、あれくらいの変形はできるみたいだよ」

 相手の頭から出た灰色の鞭の動きを警戒しながら、天真は間合いをじりじりと詰める。

『ケケケ、頭カチ割られたい願望でもあんのか』

「ないよ」

『俺だってねエよ―――来るぞ』

 鞭がしなり、天真の足元を打つ。とっさに飛び退きそうになりながら―――天真は退路を後ろから右に変えた。コンクリートを割った鞭がそれについてくる。鋼の針のような先端が、天真の腕を裂いた。血が飛ぶ。

『左にいけよ』

「麻倉さんに当たる」

 腕を押さえながら、また一定の距離を空け、天真は敵を睨みつけた。鞭の長さには限界があるらしい、うなってはいるがここまで飛んではこない。

 千恵子の様子を窺う。彼女は敵との対角上にある細い柱の一つを支えにするようにもたれかかり、天真を凝視していた―――やり辛いが、やるしかない。天真は巳に呼びかける。

「行こう」

『ケケ、了解』

 ぐにゃりと視界が歪む。より鮮明に、より広く。千恵子の顔が強張っていくのが見えた。

 硬い鱗が全身に生える。太い手足と長い身体、そして長い尾が伸びる。

 向こうは一部が鞭でも、こちらは全身が鞭だ。

 この外見―――天真の変態は、蛇というよりトカゲに似ていると、天真自身は思っている。巳が“ヘビ”を名乗るのが不思議で仕方ないくらいだ。

 敵が接近してくる。相手の鞭の一撃を身を屈めて避けると、天真は長い尾で灰色の鞭を捕らえた。尾と鞭が絡み合う。足を踏ん張って尾を引くと、釣り糸に引っかかった魚のように、敵の身体は浮き上がった。天井にそれを叩きつけ、床に落とす。コンクリートに叩きつけられる直前で、敵は解いた鞭を引っ込め、膝をつくように着地した。

 天真は千恵子を庇うように向きを変え、敵を睨みつける。ゆらりと身を起こした敵は、両手を力なくぶらりと垂れ下げて直立している。頭以外は人間のままなので、不気味だ。

「“なり損ない”か?」

「違ウ。一緒ニスルナ」

 頭から顔にかけての割れ目の侵食が進んでいるため、どこから出ているのか分からない声がカタコトに応じた。

「―――テメエ、俺ノ獲物ヲコトゴトク、横取リシヤガッテ」

「そいつは悪いことをした」

 天真は肩を竦めた。

「お詫びに……これでも喰ってな!」

 尾で駐車場の細い柱をへし折ると、敵に向かって投げつける。即席の投擲槍は、しかし床に突き刺さった―――天井すれすれに跳躍してそれを回避した敵は、天真の頭上を通り過ぎながら鞭で反撃してくる。身体の方向を変えながらその動きを目で追うが、鞭は天真が投げた柱を支点に、ぐんと引き返した。

『あー』

 とっさに尾でそれを打ち据えるが、勢いは衰えない。

 灰色の鞭は、天真の首を直撃した。




 千恵子は悲鳴を上げた。怪物の姿に変身した天真が、木場の一撃で倒れこむのが、木場の背中越しに見えたからだ。

 木場だったものは、上を向くときの要領で背後にいるこちらに目を向けてきた。ほかの顔のパーツの配置も何かおかしいが、千恵子は青白い顔をゆがめるだけに留めた。パニックにはなるまい、私はジャーナリストなのだ。何が起こっても冷静でいなければ。

「チョット待ッテテ下サイネ、先ニアイツヲ喰イマス」

「私は……メインデッシュ? デザート?」

 出来うる限りに気丈に応じたつもりだったが、震えは止まらない。天真は倒れたきりだ。動かない―――死んだのだろうか? 遠目からでも、化け物姿ながら首が変な方向に曲がっていて、骨が折れているのが分かる。

 木場はにいと笑うように目を細めた。

「メインデッシュ、デスネ。ズット楽シミニ、シテマシタカラ」

「だーかーら」

 響いた声に、千恵子はびくりと首を竦めた。目を見開く。

 今度こそ、悲鳴が出た。

 首が折れた状態で、天真は立ち上がっていた。その長く伸びた尾が、柱の残骸を掴んで振りかぶっている。

「おまえのメインデッシュは、これだ!」

 残骸が、天真の尾から離れた。

 木場だったものは飛び退こうとするが、動けない。彼の頭から伸びた鞭の先は天真が踏んづけている。

 成す術なく、木場は頭を潰されて、ひっくり返った。

 天真は素早く木場に取り付くと、頭にあいた穴を掴む。灰色の鞭を根っこから引き千切る。脅威を取り除くと、痙攣していた木場の身体は大人しくなっていった。動きが完全に止まるのを待つ間、天真は折れた自分の首を元通り―――真っ直ぐに戻す。

「首が、折れたら、死になさいよ……人として」

 思わず千恵子が呟くと、天真は面を上げぬままに一蹴する。

「もう死んでるんだから、これくらいで死ぬわけないだろ」

 どうにも矛盾した一言だが、千恵子は何も言わなかった。

 木場の動きが停止したのを見計らって、天真は立ち上がる。

「―――あんたを泳がしておいて正解だったな」

「ということは、木場が……“甦り”だって知っていたのね」

 震える声音で、千恵子は尋ねた。

 蛇を思わせる、無機質な細い目が千恵子を見据える。何もかも見抜いているような、冷たい静けさがそこには浮かんでいる。

「分かっていたのは、俺たち以外の甦りがあんたのそばにいるってことだけさ。俺たちの獲物を狙っているヤツがな」

 天真―――言動から言って巳のほうの可能性が高いが―――は木場の血塗れ頭を掴んだまま、ずるずるとその身体を引きずっていた。どこかへ運ぶつもりなのだろうか。彼がこれからするだろう行いに、千恵子は思い至る。

「喰うの?」

「勿論」

 千恵子からは、木場がまだ“生きて”いるのかどうかすら判別がつかない。

「……そいつは私の同僚なの」

「だから? 言っておくが、繭ネズミの夜の殺人事件はコイツの仕業だ」

 繭ネズミの化け物が千恵子を襲ってきた夜のことを言っているのだろう。千恵子はそのとき木場に会っている。何食わぬ顔、いやいつもと同じだった彼を思い出し、千恵子は戦慄する。

 “甦り”にとって、人は、本当にただの食糧なのだ。

 生者であろうが甦りであろうが―――生きていようが死んでいようが、喰うべき唯一のものにすぎないのだ。

 天真は怪物姿のままだ。千恵子が何か言うのを待っている、そう思えるほど静かに佇んでいる。

「あんたは喰わないの? 私を」

 口をついて出たのはそんな言葉だった。

 天真はそれを鼻で笑う。

「“生きている”人間は喰わない。そう言ったはずだ」

「でも木場は喰うんでしょ」

「こいつは“甦り”だ。生者を喰う甦りは喰われるリスクも高い。それが、ルールだ」

「ルール?」

 緑の光が消える。天真が瞼を閉じたのだ。

「僕らは死んでいる。死人には死人の世界とルールがある。あなたたちの社会とは、違う理屈で存在するモノが」

 それが、生者は喰らわない―――殺さない、という誓いにも似たモノなのだろうか。

 それではまるで―――

「理屈は違っても、わたしたちと同じルールなのね」

 千恵子は立ちつくしていた。ずるずると木場をひきずって離れていく天真の背を、見送る。

 効率のいい食事のためであっても、彼が千恵子を助けてくれたのは事実だ。

 生者の社会にまぎれて“生きる”には、それは必要なことなのかもしれない。だが―――

「ねえ、心は人間でいたいんでしょ?」

 暗闇に消えていく、天真の答えはない。

 しかしそれも、違った理屈で存在する、確かな事実の一つなのだと、千恵子は感じていた。



『……はい、こちら……って、何。あんたか。

 大騒ぎ? 木場がいなくなったから? ……なってないわよ。どうも木場の奴、病院に行く前に辞表を出していたみたいね。それに私が会社に電話する前に、一度様子を窺いに来てたらしいわ。……え、知ってる? ならいいわ。えーと、とにかく私を喰うことはかなり前から計画してたみたいで、喰ったら元から行方をくらます算段だったようよ。ご丁寧に私に会うことも隠蔽してたみたいだから、事後私が疑われることもないし。

 えー、違うの? 東堂父子と、蛾になった患者さん一同、あと津鹿元さんは集団行方不明みたいになってるわ。ニュースでも毎日えらい騒ぎでしょ? まあこっちも私やあんたに嫌疑がかかってるわけもないから、安心して頂戴。業界の噂では、やっぱり東堂医師が原因ってことになってるけどね。病院の地下駐車場が破損したのも、何故だかこっちのせいになってるわ。

 ……これでもないの?

 え? 私?

 私がこれくらいでヘコむわけないでしょ。ジャーナリストなのよ! 神経図太くないと、やっていけないわよ、こんな仕事。

 違うって?

 じゃあ何なの。はっきり言いなさい。

 ……雑誌?

 ああ、今日発売のやつ?

 ふふん、よく撮れてるでしょ。

 ……あーあー、よく聞こえないわ。何ですって?

 あら、呼ばれてる! ごめんねー、私も忙しいのよ。ハイハイ、話があるなら直接来てちょうだい、ちゃんと色々根掘り葉掘り聞いてあげるから。じゃあねー!』




 目の前を排ガスが舞う。

 次のバスの停車時刻を確認すると、天真は大きく溜息をついて、誰もいないベンチに腰掛けた。

「ったく、朝からついてないよ……」

 顔は上を向いているが、手は勝手にごそごそと鞄を探っている。取り出したのは雑誌、発売したてのほやほやだ。

 付箋がついたページには、“必見! これが怪物の正体だ!”と書かれた大見出し、そしてその下には背景がぼかされた、蛇のようなトカゲのような化け物の、横から見た全身が堂々と映った写真がでかでかと載っている。

 言わずもがな、先日の病院の駐車場での立ち回りの写真だ。

「いつのまにこんなの撮ったんだよ……」

 だから嫌だったんだ、と天真は頭を抱える。

『ケケケ相棒、“記事にしていい”っつったのはオマエだぜ』

「くそ、あのときの僕を海に沈めてやりたい」

 問題は、これが社会的にどう評価されるかだ。ちなみに病院の一件との繋がりはさすがに伏せられており、これだけ読めば全く別の事件のようである。

 しかし、狩りがやりづらくなるのは間違いない。下手をすれば表向きの天真の生活も、危うくなる。

『どうせ作りモンだって話になるぜ、きっと』

 天真の嘆きもどこ吹く風、な態度の相棒に、天真は泣きたい気持ちだった。

「こんなことなら、助けなきゃ良かった」

『まあまあ。相棒は何でも悪ーい方に考えすぎんだよ』

 巳は鼻を鳴らすと、続けた。

『いいか。ほかの“甦り”がこの写真を見る可能性だってあるんだ。相棒、おまえがその立場ならどうする?』

「どうするって……放っとくけど」

『飢餓状態なら?』

「うーん……写真を撮った人に事情を聞いてみる、とか? 万が一甦りと知り合いなら……」

 そこまで考えて、天真は巳の思惑に気付いた。

 哄笑が頭の中で響く。

『そう、あの女に接触してくる奴が必ず出てくるはずだ。タチの悪い甦りなら、甦りという存在の内実隠しにあの女も喰っちまおうとするだろうな』

「つまり……巳は麻倉さんを餌に釣りをするつもりなの?」

『おうよ! ケケケケ』

 威勢のいい返事をありがとう。天真は痛む頭を抑えた。

『それぐらいのリスクはあの女も承知の上だろうぜ! 利害一致だ、遠慮するこたァねえ!』

「なんだよそれ……」

 それでもって、千恵子自身は危険が身に迫ったとしても、当然天真が助けに来ると思っているのだろう。

 とんでもない。それでもって―――天真は結局見捨てられやしないのだ。

 自分の性分が何より憎い。

「助けなきゃ良かった!」

 人通りのない住宅街に、天真の悲痛な叫びが響く。が、誰も聞いているものはいない。いつも他人事みたいな、この相棒だけだ。

『ケケケケ、相棒! 当分は空腹も飽きもこなさそうだな!』

「最悪だ」


 そして生も死もない彼らは今日も、永遠にあけない夜の底を走り続けるのだった。

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あけぬ夜ノ底 C @hoh_bob_pop

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