第3話 欺瞞

 さすがに三人で車内インタビューは難しいので、千恵子たちは近くのファミリーレストラン―――車道を避けて、駅ビルの中の店を選んだ―――に移動した。

 年が近いだけあって、東堂優歌と天真はすぐに打ち解けた。二人が会話する間の千恵子の視点、つまり第三者の目から見ると、優歌は内気なようでいて頑固なお嬢さま、といったところだ。重い持病があるだけにあまり世間慣れはしていない。だが、自分の意見ははっきりと言うし、それを貫く意志も持ち合わせている。

 ついでなので、千恵子は広瀬天真の観察もしておく。高校生だと言われなければ中学生か小学生くらいにも見える体格だが、立ち居振る舞いがおどおどしていたり、大人しいわけではない。時折虚空を見上げたり、確認するように左右を見たりと挙動不審の気がある。だがそれ以外はいたって普通の少年で、千恵子の興味を惹くようなところはない。

 優歌のインタビューは滞りなく終わった。予想通りの内容、つまり千恵子が持っている情報以上のものはひとつを除いて何もなかった。その例外であるひとつはすなわち、優歌が投薬治療を受けて回復したということなのだが。

「わたしという実証がいたからこそ、他の方にも処方したんです。父は悪くありません」

「けれど、現に副作用があったでしょう?」

 病院側の正規の発表ではないが、被験者遺族からの情報では投薬で劇的に回復した患者はいなかったはずだ。頬杖をついてアイスコーヒーを啜っていた千恵子を、優歌は真正面から見据えてきた。

「みんな上手くいくはずだったんです」

「理想じゃあね。結果は結果よ。あんな……超人的な副作用、ほかの患者さんにもあったの?」

 さすがに化け物とは言えなかった。優歌は目を逸らしてしまう。

「わたしは……病院の患者さんのことはあまり知らないんです。自宅療養だったから」

「あなた自身、薬でなんか身体が変だな、と思ったことは?」

「ありません」

「ふうん……」

 そこで、千恵子は優歌の隣に座る天真を見た。

「あなたはどう思う? 広瀬くん」

「えっ……ええ?」

 壁を眺めていた天真は、急に話を振られたことに驚いたように目をぱちくりとした。千恵子は嘆息する。

「江戸伸也みたいな患者がほかにいたかどうか、ってことよ。ああ、言っとくけど、私はあの車投げ男が間違いなく江戸で、病院側がそれを隠そうとしていると思っているからね。……えーと、あるいは東堂さんみたいに回復した患者と、副作用を起こした患者の違いは何か」

「なんで僕に訊くんですか?」

「無理矢理ついてきたからにはワケがあるんでしょ。それに、“なり損ない”だとかなんとか、化け物のことを言ってたじゃない」

「化け物?」

「こっちの話よ」

 優歌の反応を受け流し、千恵子は苦笑を浮かべている天真に微笑みかけた。

「そう言えば私、昨日も変なのに襲われたのよ」

「へ、へえ」

「写真は撮れなかったから記事にはできないんだけどね……ネズミをいっぱい連れた繭みたいなやつだったわ。心当たりある?」

「ないです」

 天真は即答する。千恵子はそれを特に不審に思わず、頷いた。

「あと、私の名前を知ってたみたいなのよ」

 容姿を思い出したついでに千恵子は述べる。

 すると、天真はテーブルに手をついて身を乗り出してきた。

「名前を知ってたんですか!?」

「え、ええ」

 勢いに押され、千恵子は仰け反る。

「ということは……喋ったんですよね」

「カタコトだったけどね」

「どういうことだ? “なり損ない”だったんじゃないのか」

 自分の肩に視線をやりながら、天真はソファへと戻っていった。ぶつぶつと独り言のように呟くさまは、やはり不審だ。

「ねえ、その“なり損ない”ってのは結局、何なのよ」

 千恵子が尋ねると、天真は思考の邪魔をされたせいか、上目でこちらを見たものの、ごく手短に応じてきた。

「意志を持たない化け物です」

「じゃあ意志がある化け物もいるのね」

 天真は考え事をするのを諦めたように、溜息混じりに応じた。

「前に言ったように、意志を持って人を襲う化け物の方は、変態する―――何らかの生き物の姿をとる場合が多いんですよ。だから雑誌に載せた蛾や……今回麻倉さんを“麻倉さんだと認識して”襲ったという繭ネズミもその種類になると思うんですが……ちょっと引っかかって」

「す、すみません」

 優歌がおそるおそる挙手した。

「―――さっきから、わたし、ちょっとついていけてないんですけど……」

「ああ、ごめんなさい」

 それはそうだ。優歌は化け物の件には関係ない。天真に訊きたいことはあれど、彼女のためにまずこの場はお開きにすべきだろう―――そう思って立ち上がろうとした千恵子を、優歌は手を上げて制止してきた。

 そして何とこんなことを言うのである。

「わたし、ネズミをいっぱい連れている変な人、見たことあります」

「それは……大した変人ね」

 からかわれたと思ったのか、優歌は大きくかぶりを振った。

「違います、病院でです! お父さんの―――赤司大学病院に検査入院をしたとき、たまたま通った個別病室の中に、た、たくさんネズミが……」

 そのときの不気味さを思い出したのだろう、優歌の顔がみるみる真っ青になっていく。

 千恵子は天真と顔を見合わせた。天真が先に口を開く。

「どこの病室だったか、思い出せますか?」

「い、行ってみないと……」

「検査入院で通ったってことは一般病棟かしらね」

 会話に参加しながら、千恵子は携帯電話を取り出した。ちょっと失礼、と言い置いて、木場の番号を呼び出す。

「木場? あのね、こないだの議員のおじさま、まだ入院してたわよね? ……あ、うんうん、入院してるなら、いいの。ダシにするだけだから。詳しい話はまたあとで。はーい、じゃあね」

 相手の話をほとんど聞かず、千恵子は通話を終えた。案の定、天真も優歌も訝しげな目を向けてくる。

「入院患者がいる病棟に入るなら、誰かのお見舞いのふりをして行くのが一番でしょ」

「今から行くんですか?」

「わずかな手がかりがスクープに結びつくのよ」

 千恵子は“ネタ”のにおいに敏感だ。貪欲と言ってもいいだろう。

「あー、僕は遠慮しておきます」

 天真が席を立った。千恵子は目を丸くする。

「あら、どうして?」

「さすがにそろそろ、学校に行きたくなったんで。僕、一応テスト前なんです」

 天真の視線に倣って壁の時計をちらりと見ると、十一時を回っていた。なるほど、今から急げば午後の授業には間に合うのだろう。

「……じゃ、東堂さん、案内お願いね」

「分かりました」

「何かあったら、後日教えてください」

 天真とは、日曜日に元々会う約束をしている。彼はこのご時勢に珍しく携帯電話を持っていない高校生なので、連絡を取るのが少々不便だ。

「その代わり、今度こそみっちり、根掘り葉掘り、聞かせてもらうからね」

 脅しのようにそう予告すると、天真は実に学生らしく正直な苦笑で応じた。



『行かなくてよかったのか?』

 人気のない地下鉄の電車の揺れに呼応するように、巳が天真に囁く。珍しいこともあるもんだ、巳から質問するなんて。英単語帳に目を滑らせていた天真は、そのままの姿勢で答えた。

「行ったところで何になる? 敵の総本山に準備もなしに飛び込むようなもんだ」

『餌場だぜ?』

「“不味い”って形容詞がつくけどね」

 敵からの刺客が“なり損ない”なら、待ち受けているのもきっと“なり損ない”が大半だろう。問題はそのなり損ない連中が、魂のない肉体、いわば抜け殻状態で活動していることだ。

 なり損ないは意志を持たない。つまり、繭ネズミは意志を持って麻倉千恵子を襲ったのではなく、指示されて動いていたというわけだ。

「あのなり損ないどもを操っている奴が、どこかにいるはずだ。まともに僕らが捕食できるのはそいつくらいだよ」

『言っとくが、あの小娘は違うぜ』

 巳の一言に、天真は眉を上げた。小娘とは東堂医師の娘、優歌のことだろうが、彼女の何が“違う”というのだろう。その疑念を感じてか、巳は哄笑を上げた。

『ケケケケ、小娘からしたのは人間のにおいだけだ。“お仲間”のにおいはしなかった』

「ああ、そういうこと」

 天真と同じ状態なら、巳のような同居人が肉体にいるはずだ。巳は“核”ともいえるその気配を感じ取れなかったと言っている。つまり、優歌が“なり損ない”を操っているわけではないらしい。

『それにしても相棒、あの女が虎穴に入ってったってのは分かってんのか?』

 麻倉千恵子のことだ。天真は首肯する。

「止めても無駄……というか怪しまれただろうしね、仕方ないよ」

『あの女、多分喰われるぞ』

 東堂優歌が黒幕でなくとも、今回の敵の共通点である“投薬”を受けていたということは、兵隊の方―――“なり損ない”である可能性は高い。狙っている千恵子をアジトの病院に誘ったということは。

「そうだろうね」

 だが、天真は巳の懸念もあっさり肯定した。

 巳が珍しく困惑している気配がする。天真は眉を上げた。

「今言っただろ、“敵の総本山に準備もなしに飛び込むようなもんだ”って。敵の巣に侵入するってことは、僕ら自身がぱっくり喰われるリスクも高いんだ。そんな危険を冒してまで、狩りに行こうと思わないよ。まだ飢餓状態なわけでもないのに」

『あの女は見捨てるってか?』

「思ったんだけど、僕らの写真を記事にさせない一番良い方法は、麻倉さんにいなくなってもらうことじゃないかな」

 風の鳴るような音がする。巳が口笛を吹いたのだ。

『あったまいいな、相棒!』

「むしろもっと早く思いつくべきだったよね」

 電車内の電光掲示板が表示を変え、次着が目的の駅であることを伝える。英単語帳を鞄にしまった天真は、不意打ちの巳の笑い声に顔をしかめた。

『クケケケケつかよ、もっと良いのは、あの女を俺たちが喰っちまうことだよな!』

「それはダメ」

『ケケケ……相棒は頭がかてえなあ』

 天真は薄い笑みを浮かべた。

「ルールは守らないとね」




 検査入院は数ヶ月前のことだからと、優歌は病院、目的地に近付くたび自信を喪失していく。一般の患者が入院している病棟に着いた今も、彼女は頼りなげに周囲をきょろきょろと見渡していた。

「えっと……この階だったかしら」

 しっかりしてくれと、千恵子は額を押さえた。

 今までの流れから言って、繭ネズミの怪物が件の病気の患者の成れの果てなのは間違いない。だが不祥事が発覚して、被験者の患者たちには他の病院に移るなりしてしまった者もいる。居残った患者も、千恵子たちのようなマスコミ対策か、ほとんどが病室を移動している。いずれも面会謝絶の状態なので、直接訪問するのは困難だ。

 そのため千恵子たちは、全く無関係の患者の面会に来た風を装い、入院病棟に入り込んだのだ。とはいえあまり長い間うろうろしていれば当然怪しまれる。だから早く目的の場所を見つけたいのだが。

「それとも、こっちだったかな……」

「ちょっと、しっかりしてちょうだいよ」

 気付けば、だんだん人気がない方向に千恵子たちは足を踏み入れていた。ナースステーションから一番遠い一角だ。一般病棟のわりに出歩いている患者が見当たらない。通りかかった部屋のネームプレートは個人情報保護のためか、名前が載っていなかった。

 優歌はふらふらと先に進んでいく。紐に引っ張られているような、そんな意志のない足取りだ。彼女が向かう薄暗い方角に不安を感じ、千恵子はその背に呼びかける。

「ねえ、違う階を回ってみましょうか?」

 優歌は応じない。そのうちに、あ、と掠れた声を上げた。細い指が、ある一室を示す。

「ここです、ここ」

 読み上げるように優歌はそう呟くと、個室であろうそこに何の遠慮もすることなく入っていった。千恵子は慌ててその後を追う。

「せめてノックぐらい! ……失礼しまーす」

 声を荒げかけて、千恵子は何とかその衝動をこらえた。入ったその部屋は個室ではなく、複数人部屋だったのだ。入り口からすぐ正確にベッドがいくつあるか分からなかったのは、ベッドを仕切るカーテンが完全に閉じられていたからだ。どうやら六人部屋らしい―――数を目算していた千恵子をよそに、優歌はさらに奥へと入っていく。

「と、東堂さん、あんまりそっちに行かない方が―――」

 追いすがる千恵子が入り口から二つ目のカーテンを横切った刹那、その隙間からにゅっと手が伸びた。

「うえっ!?」

 手が、千恵子のむき出しの腕を掴む。有無もなくそのままカーテンの中に引きずり込まれ、千恵子はもう声も出なかった。

「静かに!」

 耳元で小声で怒鳴られ、千恵子はとっさに振り返る。

 腕を掴んでいたのは、ワイシャツを着た若い男だった。どこにでもいそうな平坦な顔だが、見覚えはない。目を白黒させていると、男はもう一度、人差し指に息を吹きつける動作をしてきた。

「あ、あ、あなた、誰?」

「それはこっちのセリフだ。なんで、この部屋に人が来る?」

「麻倉さん?」

 カーテンの向こうから、優歌の声が呼んだ。少女のシルエットが、白いスクリーンの上で揺らめいている。

「え、えーと……多分、大丈夫よ」

 声をかけ返し、千恵子は再び男を振り返った。

「とりあえず、あなたが誰なのかは教えていただけるかしら」

「ああ。あんたらの素性もな」

 男は斜視気味の目を、睨みつけるように向けてきた。



 男は津鹿元遼と名乗った。件の病気で亡くなった患者の兄―――つまり遺族であるという。そしてこの病室―――六○二号室は遼の妹や江戸伸也を含めた件の病の患者病室であったが、現在は空き室であるのだそうだ。

「雑誌記者……ねえ。三文ゴシップの記者さんが、病院に一体何の用だ?」

 千恵子の渡した名刺を無造作にシーツの上に放り出し、遼は千恵子を睨んだ。あくまで挑戦的なその態度に、千恵子の眉も寄る。

「妹さんと同じ病気の患者さんに、共通して不可解な点が多いので、その取材に」

「不可解な点?」

「あなたはどうしてここに隠れていたんですか?」

 優歌が尋ねた。その直後、遼の質問を遮ってしまったことに慌てていたが、遼は彼女を一瞥しただけで素直に答えてきた。

「俺は、妹を探しに来たんだ」

 千恵子は優歌と顔を見合わせた。

「妹を探しにって……あなた今、妹さんは例の病気で亡くなった患者さんの一人だって言いませんでした?」

「言った。けど、俺は死んだはずの妹を見たんだ。追いかけていたら……いつの間にかここに。隠れていたのは人が……あんたたちが、近付いてくる気配がしたからだよ」

 死んだはずの妹が?

 千恵子は遼の服装に気付いた。上着を脱いではいるが、彼は喪服だ。

「あなた、どこから来たの?」

「火葬場」

 訊かずとも分かる、妹の、だ。

 遼は顔を覆うように、頭を抱えてしまった。そんな馬鹿な話があるものか。死人は死んだから、死人なのだ。自分で歩いて病室に戻ってくるはずがない。

 だがそれでも―――それでもと思ってしまう。

 愚かな目の錯覚を、馬鹿な話を、信じたくなる。近しい人を亡くしたときの人の心を、千恵子は察してしまった。

「……妹さんは、どこに行かれたんです?」

 傷口に触れるのを躊躇うようにそっと、優歌が尋ねた。遼は顔を上げぬまま、それでも応じる。

「分からない。途中で見失った。俺は気付いたらここにいたんだ」

「他の患者さんがどこの病室に引っ越したか、ご存知?」

 千恵子の言葉に、遼は首を横に振った。千恵子は重ねて尋ねる。

「妹さんはいつまでここに入院を?」

「三日前……容態が急変して息を引き取るまで、ずっと。妹はこの部屋最後の患者だった」

 他の患者は、その前に亡くなるか引っ越すかしたのだろう。

 千恵子は核心に触れる。

「例の投薬治療は受けていたの?」

 遼は弾かれたように顔を上げた。

「治療だって? あんな毒が!」

「毒じゃありません!」

 反射的に優歌が噛み付く。遼は不審を浮かべた目を彼女に向けたが、千恵子はその視線を遮るように二人の間に割って入った。

「薬が原因で亡くなったのね?」

「そうだよ。妹は……回復していたんだ。それがあと少しで退院というところで、あの医者が……」

「東堂医師のこと?」

「ああ。東堂は、妹の回復を自分の手柄にしたかったんだろうな。俺は反対したんだ。だが親はあの医者を信用してた」

「投薬が開始されたのはいつ?」

「数週間ほど前。それから間もなくあんたたちマスコミが、もっと早くから投薬されていた患者の異変を嗅ぎつけてきた。だが妹の投薬は続けられた……」

「効果があったからでしょう?」

 口を挟んだ優歌に、東堂は腰を下ろしていたベッドから立ち上がった。

「逆だ! なかったんだよ、全くな! なのに東堂は投薬をやめなかった、妹は……死ぬはずじゃなかったんだ、だが東堂が殺した」

「違います! お父さんはみなさんを救おうとしただけで―――」

「お父さん?」

 遼が聞き返す。千恵子はあちゃあと額を押さえると、二人にそれぞれこう言った。

「あんまり大声で口論すると、人が来ちゃうわよ。外でやりましょう」

「待て、最初の俺の質問に答えろ。あんたらは具体的に、何を求めてここに来た?」

 今更のような遼の質問をきっかけに、千恵子は目的を思い出した。

「そうそう……あなた、妹さんのお見舞いに来ているとき、ネズミを大量に連れた患者さんなり面会人なりを見なかった?」

「は? ネズミ?」

「見てるわけないわよね、そうよね」

 よくよく考えたら、病院にネズミなんて論外だ。

 ところが遼は、そういえば、と虚空を見上げてこう言った。

「やたら、ネズミの……ぬいぐるみとか、グッズを置いてた患者はいたな」

「本当?」

「ああ……この向かいのベッドだ。確かその患者は他所の病室に引っ越したはずだけど」

 カーテンの向こうを指して、遼が言う。

「ちょっとだけカーテンを開けて、覗いてみましょうか?」

 引っ越した後なら、もう何も残っていないだろうが。優歌がそう言い、三人がいたベッドのカーテンを開け、向かいのカーテンに手を触れたところで―――千恵子の携帯電話が鳴り出した。

 慌てて取り出す。人相の悪い遼がより顔をしかめた。

「病院ではケータイの電源を切れ。常識だろ」

「ああ、えっと、とりあえず外に出てもいいかしら―――優歌ちゃん」

 念のため姓を呼ぶのを避ける。優歌はカーテンに添えていた手を離し、無言で頷いた。




 外に出たところで、かかってきた電話の相手はいすずだった。

「病院に行くって、木場に聞いてなかった?」

「聞いてましたよう。だから、来たんじゃないですかあ」

 かけ直すより早く、病院の入り口のところで立っているいすずを発見して、千恵子は脱力した。何でもいすずは木場に車を出してもらい、千恵子を迎えに来たのだという。それも資料整理が上手くいかないので、手伝って欲しいという呆れた理由からだった。

「あんたみたいなのを後輩に持つと、苦労するわ。……ごめんなさい、東堂さん。そういうことだから、今回の件のつづきはまた今度でいいかしら」

 あまり長い時間徘徊するのも、病がちの身では辛かろう。千恵子たちの会話を傍で見守っていた優歌は、分かりました、と俯きがちに小さく呟いた。

 ちなみに津鹿元遼はさっさと帰ってしまった。妹のことは見間違いで済ませた―――いや、自分に言い聞かせたらしい。念のため、嫌がる彼から連絡先を聞き出したところは、千恵子の抜け目ないところだ。

 彼はネズミの患者を少々ながら知っているようだった。ともすれば名前も聞き出せるかもしれない。遼と出会えたのは大きな収穫だ。

「東堂さん、送っていくわね」

「あ……いえ、けっこうです。ちょっと、父と話したいことがあるので」

 東堂医師は出勤しているらしい。赤司大学病院の看板を見上げて、優歌は細い声で応じた。

 遼の言葉がこたえたのだろうか、元気がない。だが遺族である彼が東堂医師にいい感情を抱くはずがないのは当然だし、ここで千恵子が優歌を下手に慰めるのも変だ。そもそも千恵子は東堂医師が正しかったとは思っていない。

「分かりました。ではまた、ご連絡しますね」

 結局、事務的に別れを告げるだけに留めた。頭を下げた優歌が見送ってくれるのを尻目に、千恵子は乗り込んだ木場の車の中で、溜息を漏らす。

「どうしたんスか? 進展、なかったんですか」

「いえ、収穫はわりとあったわよ」

 ただ、記事にしたところで面白みはない。やはり実物―――写真が必要だ。

 信号が赤になる。運転していた木場が、不意に助手席のいすずを指差して言った。

「こいつ、めちゃくちゃ焦ってたんですよ。千恵子さんがいないとどうしようもない! ってね」

「ちょっと!」

 木場のジョーク―――ジョークでもないかもしれないが―――に、いすずが慌てて振り返る。千恵子ははあと溜息をつくと、もめだした二人を無視して、窓の外に目をやる。

 灰色のブラインドに切り取られた風景にあるものは、露天のようなドラッグストア、歩道を行く人、電柱、放置自転車、アスファルト。

 日常が広がるこの街に、化け物がひそんでいることを知る者はいったい何人いるのだろう?



 その週末、優歌は不穏な知らせを千恵子に持ってきた。

 津鹿元遼が、優歌の父である東堂医師に会いに来ているというのだ。

「本当に? あのお兄さん、私が何回電話をしても取らなかったってのに……」

 千恵子は苦虫を噛み潰した気分で、車のキーを回す。応接間に写真をそのまま広げてきてしまったことを思い出した。まあ、いすずあたりにメールで回収を頼めばいいだろう。

 優歌が慌てて訪ねてきた勢いのまま、千恵子は彼女を連れて車に飛び乗っていた。遼はまさか医師を直接とっちめに行くつもりではないか。どっちにしても穏便な話し合いになるはずがない。そしてそれを東堂医師側も把握した上で、遼との面会に応じているのだとは考えにくい。

「津鹿元さんはどうやって東堂医師に会いに? 私たちだってまだコンタクトできてないのに」

「彼を連れて行ったのは、わたしなんです」

「は?」

 思わず変な声が出た。優歌はさっと、目を逸らすように下を向く。二人の間を、平和なニュースを伝えるラジオの声が流れている。

「薬について……お父さんがどういう治療をしようとしたのか、興味があるって仰ったから」

「そんなの方便でしょうが」

 呻くように呟いた千恵子に、優歌は潤んだ目を向けた。

「でも、直接お話しないと分かり合えないって、思ったんです!」

「“でもでもだって”で上手くいったら、世の中戦争は起きないのよ~……あら、電話だわ」

 道は渋滞している。千恵子は躊躇いなく携帯電話を取った。同僚からだ。

「何の用?」

『おまえな、客をほっぽって出かけるなよ』

 呆れたような声。何のことか分からず、千恵子は首を傾いでいた。

『―――広瀬くん、麻倉の客だろ』

「あっ」

 天真のことをすっかり忘れていた。日曜日会おうと、約束を取り付けたのはこちらからだったのに。

「ごっめーん……悪いけど、出直してって伝えてくれないかしらー……あと、例の病院に行ってるって言っといて」

『別にいいが、一応プライバシーには気を配れよ? 何度も呼び出したりして、ほかに勘付かれたらどうすんだ』

「はい? 何のこと?」

 同僚は電話口に息を吹きかけるように、わざとらしい溜息をついてきた。続く声がひそやかになる。

『広瀬くんは五年前のアレの、唯一の生存者だろうが。だから呼び出したりなんかしたんじゃ―――』

 千恵子はそこで電話を切り、車のラジオの音量を上げた。

『明後日は、あの凄惨な事故から五年目の節目になります。多くの犠牲を出した、バス転落事故の現場の山道は今―――』

 まさか。

 絶句した千恵子に、優歌が訝しげな目を向ける。

「どうかされたんですか?」

―――五年前の、高速バス転落事故。

 山道の崖から数十メートルを滑り落ちたバスは、激しい雨風と土砂崩れのせいで丸二日経ってから捜索された。見つかった生存者はたった一人。たしか、小中学生くらいの子どもだったはず。

 まさか、その子どもが、広瀬天真だったとは。

 当時とは姓名が一緒だったかどうか、定かではない。千恵子が現場入りに遅れたため、生存者がいるというスクープは他社の手に渡ってしまった。そのため千恵子は編集長の怒りを買い、事件の担当から外されてしまったのだ。

 責任を取って死ねとまで言われた。当時はもうそれで、千恵子は絶望に打ちのめされたものだ。

「もう五年も経つの……か」

 天真は、彼は、一家であのバスに乗っていたはずだ。

 たった一人で命拾いし、救助されるまでの二日間、彼は何を思って生きていたのだろう。

 そして、今も。

「麻倉さん?」

 優歌の呼びかけに重なり、クラクションが鳴る。前の車はすっかり小さくなっていた。千恵子は慌ててアクセルを踏む。

 今は感傷にひたっている場合ではない。今回の病院の件とあの事故はまた別の話だ。

「道が空いてきた、飛ばすわよっ」

 私たちは生きている。だから前に進まねばならない。

 今は暗くとも、明けない夜などけしてないのだから。

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