第2話 捕食

 千恵子は不機嫌だった。起因するものは様々ある。事件に巻き込まれたドサクサで、広瀬天真と名乗った謎の少年に逃げられたのもそうだったし、警察の事情聴取から、男の身元確認に付き合うことになったお陰で、今こうして後輩の尻拭いのようなことをやらされていることもだ。

「いいじゃないですか、お陰で手間が省けたんですから」

 宥めるようにいすずが言うが、千恵子はその黒縁眼鏡の奥の目を睨めつけた。いすずは気落とされたように身を引く。

「でも、偶然ってあるんですねえ」

 彼女は千恵子の興味を逸らすように、眼前の白く巨大な建物を見上げる。

 今は灯りの消えたネオンランプの看板には“赤司大学病院”とあった。

「―――車投げ男さん、まさか、この病院から脱走した患者さんだったなんて」

「おまけに例の薬の患者と来たわ」

 千恵子は今までに得た情報を思い起こした。

 ある病気の点滴投薬を受けた患者が、次々に幻覚・幻聴、痙攣、異常行動他の副作用に襲われた。だが病院側は副作用を認めず、投薬を続行し、ついに最初の患者が死亡したことで大きな問題となった。

 それはよくある医療ミスのようであったが、千恵子たちが独自に入手した患者との間に取り交わされた契約書などの内容からは、新薬の人体実験を兼ねていたのではないかという疑惑が浮上している。

 その渦中において、今回の事件。脱走患者の異常行動と件の投薬の副作用との繋がりが見つけられれば、大きな収穫と言えよう。

 病院側が投薬時の症例を公表したわけではない。そもそもこの問題は、最初の患者の遺族―――当時はまだ、患者は生きていたが―――が病院に不審を覚え、メディア関係者に事情を打ち明けたことで発覚したのである。根気強く取材を続けてはいるものの、病院の態度は軟化しているとは言い難い。

「でも、なんで私が……」

「仕方ないですよう。脱走患者さんの顔が分かるのは、事件の時側にいたセンパイだけですし。元々の担当だった木場さんは出入り禁止を食らっちゃいましたから」

 いすずの言葉に、千恵子はふんと鼻を鳴らす。車投げ事件自体の目撃者は他にもいたが、加害者の遺体は死亡後数分でどろどろに溶けてしまったのだ。

 全く何をとっても、異常なことだらけだ。いくら妙な薬だとしても、素手で車を投げ飛ばせるくらいに人間の体が強化されたり、原型がなくなるほど溶けたりするはずがない。

 病院の中は、件の騒動のせいか、ひっそりとしていた。夕暮れどきの込み合う時間にも関わらず、待合室には数えるほどしか人がいない。

「ここに、警察の方が来られるはずなんですけど……」

 遺体の残骸はここに搬送された。病院からの捜索願で彼がここの患者だということはすぐに知れたが、最終的な確認が欲しいと、千恵子が呼び出されたのである。

「ちょっと、奥を見てきますね」

 受付の角を曲がっていくいすずを見送り、千恵子は長椅子に腰をかけた。

 あの時は逃げられてしまったが、何か事情を知ってる風な、高校生。どうせ追い返されるに決まっている病院に来るぐらいなら、彼を追いかけて締め上げた方がいくらか収穫があったに違いない。千恵子はそう思っていた。

「大体、もうこれだけで十分記事が書けちゃうじゃないの」

 異常な力を持った、人体実験の被験者。謎を握るのは一人の少年と、病院。もはやSFの域だ。

 待ち時間の合間、千恵子は持ち前の想像力を発揮する。実は、あの少年はこの病院の人体実験の被験者の一人なのだ。だから今回の脱走患者のことも詳しく知っていた。彼は自身もあのように異常な力を発揮するようになるのかと、恐れている。ホラ、だからああやって外来受付に来て、もう一度身体を検査してもらおうとしているのだ―――

「って、広瀬くん!?」

 目の前の外来受付カウンターに肘をついた少年に、思わず千恵子は叫んだ。小柄な少年―――広瀬天真はその声に驚いたように振り返ると、千恵子を見つけてさらに瞠目する。

「麻倉さん、どうしてここに?」

「それはこっちのセリフよ……まさかあなた、本当に実験の被験者なの?」

「は?」

 天真は眉間に皺を寄せている。千恵子は腕を組んで、彼を上から下にじろじろ眺めた。

「健康そうに見えるのに。あの薬、当たり外れがあるのかしら」

「何を意味の分からないことをぶつくさと……あ、分かりましたか?」

 天真を呼んだ外来受付の女性が、仏頂面で続きを紡ぐ。

「江戸伸也さんのことなら、もうじき警察の方がいらっしゃると思いますので、そちらに事情をお聞き下さい」

「江戸伸也?」

 聞き返したのは千恵子だ。が、受付は迷惑そうな顔をしただけで、用事は済んだと言わんばかりに奥へ引っ込んでしまう。

 仕方なく天真を引っ張って待合室の椅子に座ると、千恵子は口を開いた。

「ね、なんであれが江戸伸也だって分かったのよ」

「え?」

「とぼけないで。さっきの車投げ男のこと。江戸がここの患者だって分かったから来たんでしょ?」

 天真はきょとんとしていたが、やがて合点がいったようにぽんと手を打った。

「順番が逆です。彼がここの患者だと思ったので、受付に問い合わせたらそれは江戸伸也さんだと言われたんです。でも、警察って……」

「江戸はね、この病院の投薬実験の被験者なのよ」

 すんと鼻を鳴らし、千恵子は言った。いすずはまだ戻ってこない。かといって、暇に飽かせてとことんまで説明してやる、というつもりは毛頭なかった。だがちらりと横目で窺うと、天真は続きを期待しているどころか、神妙な顔で顎を掴んでいる。

「投薬実験……まさか。何のために増産を?」

「ちょっと。あんたも大概、意味不明よね」

 横顔を覗き込みながら言ってやると、天真は困ったような目を向けてきた。

「麻倉さんは何のためにここにいるんですか」

「仕事よ。取材。その投薬の副作用、つまり医療ミスで、この病院が話題になってるの知らないの?」

「……テレビも新聞もあまり見ないので」

「勉強不足ね」

「けど、どうして警察が絡んでくるんですか? おまけに僕まで」

「江戸の死体は数分で溶けたの。車投げ男が江戸だったって確認取れるのは私や、あれがここの患者だと確信を持って病院を訪ねたあんたぐらいだってことよ」

 それを言い切ったところで、ちょうどいすずが戻ってきた。物々しい雰囲気を背負った背広と白衣を連れている。

 有無を言わさず天真と共に病院の一室に通された千恵子は、江戸伸也の写真を見て飛び上がった。

「別人じゃない!」

 その一言に、警察の者らしき背広の顔色が変わる。

「僕が見たのも、この人じゃありません」

 天真が助長するように言う。警官はますます困惑の色を深めたが、白衣―――医者の方は小さく肩を竦めた。

「だから言ったじゃないですか。うちの患者さんではないと」

「しかし……脱走時期も、背格好も一致するんです」

 警官が食い下がったが、医者は首を横に振った。

「何度言われても同じです。この方は江戸伸也さんとは別人、したがってうちの病院とは無関係です。どうぞ、お引取りください」

 にべもない一言に、千恵子は天真と顔を見合わせた。



「巳、どう思う?」

『あ?』

 病院からの帰り道、地下鉄の電車が来るのを待ちながら、天真は姿なき声に呼びかけた。

 もう日も落ちきっている。千恵子が車で送ると言ってくれたが、丁寧に遠慮した。乗ってしまえば、車内で何を訊かれることか。その代わり、今度の日曜日に会う約束を取り付けられてしまったのだが。

『どうって、ありゃ黒だな』

「僕もそう思う」

 目の前に停まった銀色の扉が開く。万年赤字の地下鉄はがらがらだ。

 おかげで、小声で独り言を言っていても気にする客はいない。

「あの“なり損ない”は江戸伸也さんだ。警察の顔写真なんて当てにならないよ」

『その気になれば、顔なんて自由自在だからなケケケ』

「ああいう奔放なところ、“なり損ない”は便利だよね。巳にはそういう能力ないの?」

『あるわきゃねえだろ!』

 馬鹿にしたような笑い声が響く。トンネルの中の気分の悪さに加えて、頭痛がするようだ。

「とにかく、あの病院は増産工場で間違いないわけだ。しばらく張るか」

 千恵子は“あれ”が投薬実験の被験者だと言っていた。薬で“あれ”が作れるのは知らなかったが、他の患者にもその薬が処方されていたなら、今後第二、第三の江戸伸也が出てくる可能性は高い。

『久々のゴチソウが山盛りだな、相棒よオ』

 唇に湿った感触。自分が舌なめずりしたのだと、天真は気付いた。

 電車が停まる。渋面で舌を引っ込め、天真は下車する。

「養殖モノだけどね」



 今日の仕事をまとめ終えたところで、気付けば夜半を回っていた。

 珍しいことでも何でもない。千恵子は大きく伸びをすると、最後の役目としてオフィスの灯りを落とし、ビルの外に出た。生ぬるい空気が肺を満たす。梅雨も終わり、世間で言う夏休みが近付いていた。もっとも千恵子にとっては一番休みとは縁遠い時期だ。なんせ、こちとらホラーが得意分野である。

 何となく、薄気味悪い夜だ。ビル街の真ん中で“あれ”と遭遇した日のことが思い起こされる。あのときはタクシーも捕まらず、仕方なく出先から徒歩で会社に戻ったのだ。今日は会社から家への帰り、しかも自分の車がある。状況は全く違う―――

 そう思いながら駐車場に足を踏み入れたところで、千恵子は足を竦ませた。

 ネズミ―――だ。

 千恵子の車一台しか止まっていない、その広いアスファルトの上に身を伏せていたのは、灰色の塊だった。せいぜいが人と同じ大きさだが、加えて異様なのはその周りだ。

 無数のネズミが、アスファルトを覆わんばかりに蠢いていた。

「ひ、いい」

 上手く声が出ない。退がろうとしたら、何もない足元に躓いて、尻餅をついてしまった。

 何よ、これ。

「アサ、エこ」

 塊が口をきいた。

 それもネズミに見えていたが、違う。長い胴体に、足がない。まるで繭だ。

 表面に生えた赤い目が四つ、こちらを見ていた。

「アサ倉、チ、恵コ」

 あんたに名前を呼ばれる筋合いはないわよ。

「そこの女!」

 どこからともなく響いた声が千恵子の耳朶を打った。

 岩のように降ってきた何かが、眼前の駐車場を陥没させた。岩が着地したそこにいたはずの灰色の繭は、素早く狙いを外して後方に移動していた―――足も腕もない繭を運んでいるのは、このネズミたちらしい。

 また、声。

「逃げろ! 喰われたいか!」

 岩が叫んでいる。

 否、岩ではない―――

 闖入者が放った鞭のようなものが、千恵子の足元、正面の排水溝を打った。大きな音を立てながら蓋が飛んでいく。

「逃げろ、聞こえないのか!?」

 千恵子ははっと、目の前の排水溝に吸い込まれるように進んでいるネズミの群れに気付いた。

 喰われる―――この、繭とネズミの化け物に。

 そう理解した瞬間、千恵子は弾かれたように逃げ出した。




 裏から表に戻っただけなのに、やっとのことで辿り着いた気がする。

 千恵子はオフィスの入り口に立ち、深々と息をついた。オフィスのあるビルのセキュリティのついたドアは千恵子が内側からロックしたので、文字通りネズミ一匹入れやしない。だから、今このビルは千恵子を除いて無人のはずだ。

 なのに、足音がする。

 やっとついた安堵の息が、凍りついたようだった。千恵子はオフィスの曇りガラスの扉を背に、固まる。もう、一歩も逃げられない。

 きつく瞼を閉じる。千恵子の正面で、足音は止まった。

「何してんスか、こんなトコで」

 かけられた軽い口調の言葉に、千恵子はぱちんと目を開けた。

 茶色い頭の優男が、驚いた顔をしてそこに突っ立っていた。

「木場……」

 その後輩の名を呼び、千恵子はずるずると腰を落とした。正確に言えば、足から力が抜けていったのだ。

「ちょ、千恵子さん? 大丈夫スか、おーい」

 その後しばらく呆けていた千恵子は、忘れ物を取りに来たという木場に事情―――化け物から逃げてきたことを説明し、二人でビルを出た。

「運転は俺がしますよ。鍵、貸してください」

 木場は赤ら顔で機嫌良いが、酒を飲んでいるわけではないらしい。彼が真っ直ぐ駐車場に向かおうとするので、千恵子は慌てて止める。

「ちょっと、そっちには化け物が……!」

「え、でも俺、ここまで単車で来ましたよ」

 つまり駐車場を通ったと言うのだ。目を丸くする千恵子を他所に、木場は大股で進んでいく。千恵子は慌ててそれに回り込んだ。

「待ちなさいよ! ひょっとしたら時間差で―――」

「何もいませんって。ホラ」

 木場が、既に見えている駐車場を指差す。

 階段の下に広がる黒いアスファルトには、一台、千恵子の白い車が止まっているだけだ。

「あ、あれ?」

「千恵子さん、働きすぎで疲れてるんじゃないですか?」

 がらになく、真剣に心配したような声音で木場が言ってくる。千恵子はもう一度目をぱちくりとした。

 岩に見えた何者かが砕いたはずのアスファルトも、元の通り平らに佇んでいる。

「……でも、たしかに……」

「とりあえず、今日は帰りましょ。ね」

 木場に促されるがままに、千恵子は車に乗り込んだ。

―――階段下、排水溝の蓋が開いたままなのにも気付かずに。



 今朝は前日に面倒があった日にしては珍しく、遅刻をせずに済んだ。その代わり、巳の機嫌は最低に悪い。

『腹ァ減ったー、腹が減ったぞー』

「いい加減、ぶつぶつ言うのやめろよ」

 小声で話しかけながら、天真は靴箱に下靴を突っ込む。遅刻は免れたとはいえ始業ベルぎりぎりの時間には変わりないので、校舎の入り口にある下足場に人は少ない。天真は床に置いていた鞄を背負いなおす。

『なんだよ、相棒。別にいいじゃねえか、誰も聞いちゃいねえんだ』

「僕が聞いてる。というか、うるさいんだ」

 ずっと耳元で囁かれているようなものだ。うざったくて仕方ない。

 すると巳はいつもの哄笑を上げた―――まったく、気遣いというものをする気はないらしい。

『ケケケケ相棒、良い事教えといてやるよ。おれはまだ餓死するほどには飢えちゃいねえ』

「あっそう、そりゃ良かった」

 心底どうでもいいという風に天真が返すと、巳の声音は低くなった。

『分かってんのか? おれが死んだらおまえも死ぬんだぜ? ―――結局のところ、おれの機嫌が悪いのは、あのクソまずいハズレばっかり喰わされてるからなんだがな!』

 昨晩の“食事”のことを言っているらしい。

 先日の車投げ男―――もとい江戸伸也も“ハズレの食事”だったが、昨日のはそれはまあ、不味かった。味を感じないはずの天真ですら気分が悪くなった―――恐らくこれは巳からの影響が大きいが―――ので、期待をしていた巳はよほどだったろう。レストランで蝋細工の見本料理を食わされたくらいの残念っぷりだ。

「しかし、昨日の繭ネズミは“なり損ない”じゃなかったよね?」

 教室の扉を開けながら、まだ恨み言を連ねている巳に声をかける。騒いでいる連中がいるお陰で、ここでも独り言が目立つことはない。

 巳が応えた。

『いいや、アレも“なり損ない”さ』

「変態していても?」

『味付けなしのおからってだけで、じゅうぶん“なり損ない”だ!』

 論点のずれた巳の叫びが響いたその直後、ちょうど視線の先の深紗が天真に気付いて手を振った。天真も手を振り返す。

「天真くん、今朝のニュース見た!?」

「見てないけど……何かあったの?」

 深紗の傍にいた久家が、携帯電話を押し付けてくる。インターネットで見られるニュースらしい、新聞提供のそれに天真はざっと目を通す。

「……殺人事件? 市内じゃないか」

「学校から何駅か先の、繁華街だって」

 久家は目を細めると、急に声をひそめた。

「―――なんでも、ぐっろい殺し方だったらしいぜ。現場の裏通り一体が封鎖されるくらい、血や臓物が飛び散ってたとか」

「やめてよ、そういうの!」 

 深紗が甲高い声を上げ、耳を塞ぐ。天真はニュースをもう一度よく読んだ。

「……被害者のことは載ってないね」

「あー、OLらしいぜ。会社の飲み帰りとかで。たまたま集団から、ちょっと離れて歩いていた数分を狙われたらしい」

 久家曰く、現場近くに住んでいる友人が隣のクラスにいて、彼に詳しい話を訊いたのだそうだ。そのことを自慢げに話す久家をよそに、天真は画面を凝視したまま考え込む。

『相棒、今考えていること、当ててやろうか』

 巳のガラガラ声が頭の中で響く。

『あの女が喰われたんじゃないか、って気にしてるんだろう』

「麻倉さんは違う。ちゃんと逃げたはずだ」

 突然の天真の独り言に、久家と深紗が目を丸くする。

 天真はそれに気付かないふりをして、窓の外に目をやった。そこにあるのは校門と、運動場。鳴り始めた予鈴に慌てて校舎を目指して走り出す、学生たち。

『けどよ。繭ネズミ以外に、気配のにおいはもう一つあったんだぜ。おまえも覚えてるだろ』

「あれは……少し違ってたじゃないか。麻倉さんを襲う風には見えなかった」

「お、おい、広瀬。おまえ、何か知ってるのか?」

 久家が声をかけてくる。着席する生徒が増えてきた。間もなく、先生が教室に現れるだろう。

 しかし、天真は机に置いた鞄を取り上げ、身を翻した。

「ちょっと、天真くん?」

「広瀬!」

 机の間を縫うように走る。目の前の引き戸が開いた。

「はーい、着席……」

 入ろうとしていた担任教師の脇をすり抜け、天真はそのまま、廊下を駆け出した。

「おまえのせいだからな、巳!」

 巳に言われて、急に麻倉千恵子が気になり始めた。まさかという気持ちと、もしかしてという疑念が互い違いに浮かんで消える。

『何事もなけりゃいいなァ?』

 あってもいいと思っている口調で、巳はのんびりと応じた。




 現れた顔に、彼女はきょとんとした。

「あんた、学校はいいの?」

 どこからここまで全力疾走してきたのか、少年は肩で息をしていた。尋常でなく上げ下げされる荒い呼吸の動きに、柄になく心配になる。

 自分の白い車によりかかりながら、千恵子は彼が落ち着くのを待っていた。初夏の風が青い木陰を揺らす。都心の駐車場にしては緑深いここは、会社の中でも気に入っている場所、ベストスリーに入る。

 もっとも、昨晩の出来事のおかげで、ランクは下がりそうなのだが。

「よか、った、麻倉さ、ん……お元気、そうで」

「元気も何も昨日会ったばかりじゃない……ま、元気なくなりそうなことがあったのは確かだけど?」

 千恵子の言葉の最中に、少年―――広瀬天真はこうべをもたげた。紅潮しているかと思いきや、顔は、苦笑が浮かんでいる以外は案外余裕そうだ。

「殺人事件が、この近くであったって、聞いて」

「ああ……そんなこと騒いでたわね、社の連中が」

 早朝から社の出入りが激しかったのを思い出す。まあ、担当が違う千恵子にとってはほとんど他人事だ。その無関心を感じ取ったのか、天真少年は渋面になる。

「ご心配ありがと。けど、学校は行った方がいいわよ。あ、わざわざ取材されてくれるなら歓迎だけどね? 今日はちょっと私も忙しいのよ」

「あのー……」

 するとタイミングよく、千恵子の車の助手席の扉が開いた。

 車から降りたのは、長い艶やかな黒髪を腰まで伸ばした少女だ。桃色のワンピースの裾が風にたなびいている。少女は千恵子と天真、二人分の視線に気付き、怖気づいたように身を縮めた。

「すみません、勝手に降りちゃいました……」

「構わないですよ。流れでエンジン切っちゃったし、暑かったでしょ」

「この方は?」

 天真は少女を食い入るように見つめていた。同い年くらいだし、たしかにこの子は可愛い顔をしている。千恵子は溜息をついた。

「昨日の病院の、あるお医者の娘さんよ」

「赤司大学病院の……」

 はっと、天真が千恵子を見上げた。彼の考えを見越して、千恵子は首肯する。

「そ。この子のお父さんが、例の薬の責任者なの」

「わたしも被験者の患者さんと、同じ病気なんです」

 少女は目を細めた。太陽の光の下で見ると、その肌の色は本当に透けそうに、白い。

「―――今はだいぶ、落ち着いているんですけど」

「お父さんが、薬を……」

 天真は困惑しているようだ。その意味を理解して、少女は大きくかぶりを振る。

「違います! わたしのために父が人体実験を行ったわけじゃありません! ……だって、最初の被験者はわたしだから」

 ぎゅっと自分の襟元を握り締める少女に、千恵子は眉を上げた。

「あら、それは初耳だわ」

 そして、天真に目をやる。

「というか、車内でインタビューするつもりだったんだけど。広瀬くんもそろそろ学校、行きなさいよ」

「え?」

「え、じゃないわよ。あんたは無関係でしょ?」

 少女の取材は千恵子の仕事の一環だ。投薬についてのうんぬんを、一介の高校生が聞いても楽しいはずがない。

「でも……どうせ雑誌の記事にするんでしょ?」

 しかし、天真は食い下がる。

「内容によるわよ。どっちみち、この子はあんたがいたら話しにくいでしょうが」

「いえ、わたしはかまいません。むしろたくさんの人に父の無実を知って欲しい」

 そのために取材を受ける決意をしたんです、と少女は千恵子を見た。その澱みなく真っ直ぐな瞳に、千恵子も思わず唸る。

「んまあ、東堂さんがそう言うならいいですけど」

「ありがとうございます」

 天真が頭を下げる。少女は、それに上品で柔らかい笑みを返した。

「東堂優歌と申します。よろしくお願いしますね」

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