あけぬ夜ノ底

C

第1話 目撃

 麻倉千恵子は奇妙な感覚に襲われていた。アスファルトを叩くヒールの踵は不安定で、いつもの大股での歩きでは転びそうになるために、歩調は大人しい。纏わりつくスーツスカートと黒色のストッキングが、更に彼女の早足を妨げる。かといって違和感の正体はこれらではない。それを感じるには少し、時間が経ちすぎている。

 昨日よりは暖かい夜風を肌に感じながら、千恵子はいよいよ振り返ろうかと心に決めた。足元には千恵子一人分の影、だが、確かに何かがすぐ後ろで呼吸している。薄暗いというにはやや明るすぎる通りには、車は一台も無い。千恵子のために青く変わる信号を見届けた後、彼女は横断歩道を渡り始め、その中腹で―――振り返った。

 建築途上のビル。ゆっくりと視線を下げると、それはそこにいた―――だらりと両腕を下げて、具合悪そうに肩で息をしている、スーツ姿の男。それだけならば、酒に当てられて帰宅途中のサラリーマンかとも思われただろう。しかし、男が上げた面を見て、千恵子は目を剥いた。

 かっと見開かれた眼球が、赤く爛々と輝いていた。喘ぐように開閉する口にはずらりと牙が並び、呼気を吐くたびに獣の唸りが低く響く。背は今や醜く膨れ上がり、男の体はめきめきと音を立てて破壊されていった。

 千恵子は悲鳴を上げて、走り出した。逃げるには少し遅かったかもしれない。男が一際高い声を上げると、その背中から飛び出した何かが―――それに応じるように、吼えた。人間の皮を破り捨てたその化け物は、千恵子の目には蛾のようにも見えた。というのも、化け物は信じられない速度で空を飛ぶと、千恵子の眼前に降り立ったからである。

 空気を求めるように喘ぎながら、千恵子は後ずさった。

 化け物は、本来蛾には無いはずの牙を剥くと、舌なめずりした。千恵子は喉から声が迸るのを止められなかった。逃げようとしてもつれた足に、転ぶ。這ってでも逃げようとして、その全身に黒い影が落ちる。

 そこで、化け物が悲鳴を上げた。覆う影が激しく揺らめくのを見て、千恵子は顔を上げる。蛾に食いつくようにして、小さな影が一つ。それは見かけによらず強い力で―――それこそ、めりめりと音を立てるくらいに―――蛾の頭を引くと、交差点に向けて放り投げた。アスファルトに叩きつけられるより早く、蛾は飛び上がる。その威嚇の声に怯えることも無く、小さな影は千恵子を庇うように立った。

 蛾が襲い掛かってくる。小さな影は、蛾の頭に組み付いていった。二つは絡まりあいながら、夜の街を上昇していく。蛾は苦しげに声を上げながら、小さな影を振り払おうと必死だ。千恵子が固唾を呑んでそれを見守っていると、やがて細い叫びが響き、蛾の体が目の前に落下していく。路上駐車された車に叩きつけられた蛾から、小さな影が飛び上がって離れる。蛾は車の屋根に埋もれるような形で数度痙攣すると、動かなくなった。

 千恵子は我に返ると、鞄からデジタルカメラを取り出して、遠目からシャッターを切り始めた。着地した小さな影に動きが無いのを訝しげに思うと、恐る恐る、背後から忍び寄る。影はしばらく蛾を眺めていたが、千恵子がその肩に触れそうな距離まで近づくと、不意に動き出した。

 影は千恵子には目もくれず蛾に歩み寄ると、なんと―――その脚をもぎ取った。

 ばりばりという音が響く。千恵子は驚愕に目を丸くすると、その影が何をしているのかを直感して後退さり始めた―――食っているのだ。

 小さな影が振り返る。緑に染まった大きな目と目が合い、千恵子は息を呑む。緑の目が細まると、長い舌の様なものが、呼気と共にちろちろと揺れた。炎のようだ。突如たかれたフラッシュに、影が顔を覆う。千恵子は驚いて手にしていたカメラを見た。知らず、彼女の指はシャッターの上にあった。

 小さな影はぱっと飛び上がると、ビルの間を伝いながらどこかに消えてしまった。



 その雑誌のその一ページの見出しにはこうあった。

“街を襲う怪物、出現! そして怪物を食らう謎の人物の正体とは!?”

 蛾に良く似た化物が、不幸な車の上に横たわっている写真が、その文章の上にはあった。写真の右下を拡大した図の中には、人影のようなものが赤で縁取られている。

『ほーら、言ったろ。厄介なことになったぞ。だからおれはイヤだったんだ。イヤって言ったろ? 聞いてなかったろ!』

「うるさいな」

 広瀬天真はうざったそうに自身の肩辺りを払うと、雑誌を乱暴に詰めた学生鞄を背負って立ち上がった。

 忘れ物は無いか、自分の部屋を軽く見渡して廊下に出る。足早に階段を下りる天真の耳元で、蚊の鳴くような声が囁いた。

『おまえのせいだぞ、あーあ。もっと早くあの女がカメラ持ってることにきづいときゃあ……』

「しつこい」

 何もない自分の肩を睨みつけ、ぴしゃりと言うと、天真は扉をくぐった。

 家から直接繋がるその喫茶店はまだ開店準備中で薄暗い。木とコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。カウンターの向こうにいる眼鏡の中年男性が、天真に気付いた様子で朗らかな笑顔を浮かべた。

「やあ、天真くん。今日の寝坊の言い訳は?」

「おはようございます、勤おじさん。いやあ、その……」

 天真は頭を掻きながら、視線を彷徨わせる。

『ちっ、いっつもいっつも……そーだな、久家に借りたDVD』

「あ! そう、DVD! 友達に借りたDVDを、見忘れていて……」

『もう一つパンチがいるな。お前、来週テストだろ』

「明日から期末試験一週間前ですし、早く返そうと思って」

 天真の苦笑いに、勤は眉を上げて応じた。

「あえて追究はしないよ?」

『ケケケ、誤解されてンぞ』

 天真は赤くなってから青ざめると、首をぶんぶんと横に振った。所謂男の嗜好品と間違われているようだ。

「ち、違いますよ! そういうのとは、違いますから……行ってきます!」

「ネクタイ曲がってるよー! それに、朝食は!?」

 乱暴に戸を開け、天真は外に飛び出した。ネクタイを直しながら逃げるように駆け出すが、姿の無い声は相変わらず耳元で、哄笑を上げる。

『ショージキに言えばいいだろ? 寝坊どころか―――』

 目指すバス停は近い。大袈裟に間を持たせる声には構わず、天真は息も切らせずに角を曲がる。

 曲がったところで、排気ガスが眼前に舞った。

『一睡もシテマセン! えー毎度の事デスガあ~』

 乗るはずだったバスが、見る見るうちに離れていく。

「巳、バスが行った」

『クケケケケ食糧を探しに行っていたもんでえ~』

「バスが」

 呆然とバスの尻を見送る。

『オジサンのマズイ飯は食えねえからな~あ』

「巳」

『だあ、もう、うるせえ! 何だよ!?』

「バスが行っちゃったよ。予鈴に間に合う最後の便だったのに」

 天真は頬を掻くと、バスの時刻表と腕時計を見比べて、肩を落とした。

 巳は呆れたような気配を見せると、ふんと鼻を鳴らした。

『だったらもう、サボっちまえよ』

「そういうわけにはいかないよ。通わせてもらっている限りは、高校にもきちんと行かないと」

『律儀だねえ』

「当たり前のことさ」

 バス停にあるベンチに腰掛けると、天真は周りに誰もいないことを確認してから、鞄から雑誌を取り出した。

 家を出る直前に見ていたページをひらくと、また耳元で楽しそうな笑い声が上がる。

『どうせなら、もっと男前に撮れっての!』

「これ、どうしよう」

 対して、天真は溜息を吐いた。白黒だが、蛾は写真の中で形をくっきり顕にしている。

「幸いにも、僕らの姿がはっきり写ったものはないみたいだけど」

『もったいぶってやがるだけかもしれねえぜ』

「どうだろう。もしそうだとしたら、狩りがかなりやり辛くなる」

 目を細めると、冷たい血が下りる感覚がする。勿論気のせいだが。

『丁度いい、相棒。学校に行くバスも出ちまったことだし、どうせ遅刻するなら、もっと盛大に寄り道してからにしようぜ』

「どういう意味?」

 何もいない虚空を見上げて尋ねると、何かがにやりと笑った気配がした。



 この世には、不思議なものが確かに存在する。

 それは人間の手に負えないものであったり、負えるけれども重い責任が圧し掛かるものであったり―――様々だが、そうと分かっていても、そういったものを敬遠する人間は分野に拘らなければ実に稀だ。人には好奇心という心が備わっており、それは未知なる世界に触れてみようとする勇気の原動力となる。だからこそ、千恵子たちのようなゴシップ誌の編集者という職業が成り立っている。

「けど、この怪物、一体何なんでしょうねえ」

 ずり落ちた黒縁眼鏡を、手にした書類の束で押し戻し、三上いすずが呟いた。彼女の視線の先には、パソコンの液晶にしがみついて唸る千恵子がいる。

 否、正しくは、そのパソコンに映る一枚の写真であるが。

「蛾にしては、大きすぎますもんねえ」

「そういう問題か?」

 千恵子のデスクの隣から、すかさずツッコミが入る。茶色い頭の優男の顔がデスクの境目から覗いた。いすずはその顔と向きを合わせるように首を傾ける。

「木場さん。怪物の情報、何か集まりました?」

「いーや。現場が夜中のオフィス街だったのも手伝ってか、目撃者はゼロだ。千恵子さんの写真だけが唯一の手がかりだね」

「へっこんだ車は?」

「おおっと、君の言うとおり、それも有力な証拠。だけど、肝心の蛾本体が朝日に溶けて消えちゃったんじゃねえ」

「いすず、木場、邪魔するつもりがないなら私を間に挟まないで」

 千恵子の低い声が会話を裂く。ここ数日の寝不足で窪んだように見える目はディスプレイに向いたままだ。

「千恵子センパイ、少し根詰めすぎじゃないですか?」

「三日しか経ってないんだし。怪物が活動し始めるのもどうせ夜のうちって相場が決まってますから、今は少し気を緩めといた方が」

「そんなこと言っていられる状況じゃないの」

 千恵子は木場をじろりと睨めつけた。

「―――大体、木場、あんたこの間頼んだ病院の資料もまだでしょ?」

「びょーいん?」

「あ、いっけね」

 木場は慌てた様子で自分のデスクの引き出しを探り始めた。

 いすずが首を傾げていると、千恵子はちらりと彼女に目をやった。

「赤司大学病院のことよ」

「あかし……?」

 千恵子は深々と溜息をついた。

「あんた達はちょっと気を抜きすぎなんじゃない? ホラ、ちょっと前に医療ミスで話題になったでしょ?」

「あ、投薬実験のやつですか」

「ありましたよー、千恵子さん!」

 木場が歓喜の声を上げながら、ファイルを引っ張り出した。が、その勢いで中身のものが床に流れ落ちる。慌てる彼を尻目に、うんざりしたように千恵子は首をもたげた。デスクから椅子ごと少し離れると、伸びをしながら眉間を揉む。

「いい? スクープをモノにするためには、いつだって動いていなきゃ。頭も体もね。ネタっていうのはそうそう転がってきてくれるもんじゃないのよ」

「そりゃ、そうですけど……」

 木場が拾い集めた資料を受け取って、千恵子は眉をひそめる。

「五年前の事故だって、初動が遅かったおかげで酷い目に遭ったんだから。今回の怪物も、他に取られるよりも早く情報を集めないと」

「五年前?」

「バス事故のアレだろ。……つかおまえら、まだそんな怪物なんてファンタジー追っかけてるのか」

 馬鹿にしたような言葉に、三人は顔を上げた。千恵子のデスクの向こう側で、タバコをふかせた同僚が肩を竦めている。

「俺達の仕事はネタのなる木かその実を見つけることで、砂漠で蜃気楼を追っかけることじゃない」

「私が嘘を言ってるって言うの?」

 千恵子は立ち上がって腕を組んだ。同僚は目を伏せて首を横に振る。

「怪獣退治は仮面ライダーかウルトラマンに任せた方がいいぜって言いたかっただけさ。―――あんたに客だ」

 そう言った彼がしゃくった曇りガラスの仕切り板の向こうで、影が頭を下げた。



 千恵子は目を丸くした。そこにいたのは、子供だったからだ。学生服に身を包み、所在なさそうに立っている様はどこか滑稽にも見える。

 その黒い目が千恵子を見上げた。

「あのー、この写真を撮ったの、あなたですよね?」

 小柄な少年が掲げたのは、昨日発売の雑誌の一ページだった。そこには件の怪物についての特集記事が載っており、飾られた蛾の写真は確かに千恵子が撮影したものである。

「ええ、そうだけど」

 少年は何故か物憂げに息を吐いた。

「すいません、少し話を伺ってもかまいませんか?」

 千恵子は眉をひそめる。

「あなた、学校は? 行かなくていいの?」

「用が済んだら行きますよ」

 不遜な言い回しに、千恵子はますます顔を歪めた。と、少年は自分の発言内容に気付いたのか、慌てた様子で自分の口を塞いだ。

「話って、あの写真の化け物について? 言っておくけど私、あの記事に書いたこと以上のことは知らないの。本当よ」

「僕が知りたいのは、よみ……ええと、化け物の方じゃなくて、それを喰っていた奴の方なんですが」

「ああ」

 納得した千恵子が頷くと、少年は愛想笑いのようなものを浮かべた。

「他に、写真とかありますか?」

 千恵子は周囲を見渡すと、少し考えた後、こう言った。

「場所を変えましょ。ちょっと付き合ってね」

 背が低い少年の額を軽く小突くと、足早に部屋を出た。




 痛い痛い痛い痛い痛い。

 頭が背中が腹が足が腕が割れる裂けるもげる抜けるように痛い熱い苦しい冷たい痛い。

 ああ、ああ、痛い。

 いつからこうなのかは忘れてしまった。病院を抜け出して、何時間も何日も何週間も経ったような気がする。引きずるようにした足は既に感覚がなく、冷たい氷の上を素足で歩いているような気分だ。

 顔を抑えた両手の指の間から覗く目は、ぎょろぎょろと動いていた。何食わぬ顔をして行き交う人々、気に入らない。頭の上の高架を煩くして行く電車、気に入らない。信号が赤から青に変わり、彼が渡ろうとしていた道を、クラクションとともに走り抜ける車―――気に、食わない。

 気付けば彼はその車の後部を鷲掴みし、投げ飛ばしていた。




 どこにでもあるようなファミリーレストラン。開店したばかりの時間帯なので客もまばらだ。コーヒー二人分の注文を受けたウエイトレスが離れていって、二人はいよいよ二人きりになる。

「写真といっても、あとはこれくらいしかないわ」

 名刺を出して名乗った後、女は数枚の写真を取り出して、テーブルの上に置いた。

 天真はそれを受け取ると、しげしげと眺めた。そのうちの一枚に、あ、と思わず声が出る。

 女―――千恵子が首を傾げるが、見なかったことにする。

「これ、いいですね」

 天真が注目したのは、顔をカメラから隠すように覆った、“化け物を食らう謎の人物”の写真である。耳元でまた馬鹿にするような笑いが起こるが、無視する。どうせ、自分にしか聞こえない声だ。

「それが、唯一まともに写っているものよ」

「記事にしないんですか?」

「ん……本当はそうするつもりだったんだけど」

 千恵子は言いづらそうに眉をひそめた。

「―――まだそいつが、何者なのか分からないから。もう少し、情報を集めてからにしようかと思ってね」

「賢明だねェ」

 飛び出した言葉に、天真は口を抑えた。左手側の窓ガラスに映る自分の顔を睨みつける。千恵子には聞こえなかったようだが、この姿の無い声はたまに天真の口を借りていらない事を言う。哄笑が湧いた。こちらは、天真にしか聞こえない声だ。

『情報だってよ! ケケケケ』

「さて、今度は私が質問したいんだけど」

 千恵子が身を乗り出したので、天真は首を傾いだ。

「―――キミもこの化け物に興味があるみたいね。何か、知っていることでもあるんじゃない?」

「え?」

 どきりとした。それが顔に出てしまったのか、千恵子はにやりと笑い、タバコに火をつける。

「何か特別な事情でもなければ、わざわざ学校をサボって私に会いに来たりなんてしないでしょ」

「ぼ、僕、オカルトが好きなんです。それで」

「中途半端な嘘はつかない方が、お互いのためじゃない?」

 千恵子は余裕げに笑う。

『ははん、だからこの女、簡単に大事な商品を見せたりしたんだな』

「知ってることなんてないですよ」

「あら。だったらあなたの学校に、あなたがこんなところで道草売ってるって教えた方がいいのかしら」

 煙を吹かしてそう言う千恵子に、天真は目を瞠る。

『うざってーな、この女。喰ってやろうか!』

「駄目だよ。あ……あー、ええと、それは勘弁してください」

「どうしようかしら」

『高校生相手に強請んなよ!』

「僕が知っていることなんてホント少ないですよ」

 知らぬ振りを諦めてそう溜息混じりに言うと、千恵子は目を輝かせた。

「構わないわよ」

『おい、相棒』

「―――こっちとしても、八方塞りで参っていたところだから」

『相棒! 外、外!』

 巳の切羽詰まった声と同時に、首が勝手にぐいと窓の外を見る。

 走ってくる人々。その出発点に目を向けると、黒い車がよくあるモニュメントのように逆さ立ちしていた。

 車を持ち上げる男がぐるりとこちらを向いた。

「勿論、ただとは言わないわよ」

 ふと勢いがついて、その両手の上の塊が、離れる。

「内容によっては―――」

「危ない!」

 天真は乗り出して千恵子の両腕を掴むと、通路側に身を投げた。

 けたたたましい破裂音と同時に、ガラスの雨がテーブルの下に身を隠した二人の周りに降り注ぐ。千恵子が悲鳴を上げる。あるいは、他の誰かだったかもしれないが。車は天真たちのテーブルの上空を通過すると、清算カウンターをなぎ倒して、厨房の入り口付近で停止した。フロントガラスを突き破って、ボンネットに垂れた両手は誰のものだろうか。天真は舌打ちすると、テーブルから這い出た。

「な、なんなの」

 震える声。恐怖で目が泳いでいる千恵子を引きずり出すと、天真は道路に目をやった。

 交差点で混乱する車を物ともせずに、両手で自分の顔を掴んだ男が、青空に向かって慟哭している。

「そこはあんたの舞台じゃないぜ」

 忌々しく吐き捨てると、店の外に向かう。

「こ、こら」

 追いかけてきた千恵子は、車を投げてきた男に向かおうとする天真の腕を取ると、怒鳴った。

「ちょっと待ちなさい!」

「何ですか? 逃げないと危ないですよ」

「あなたもそうでしょうが!」

 更に逆側の肩も掴まれ、身動きが取れなくなる。

『相棒』

「えーと、広瀬くんだっけね? あなた、早く逃げなさい」

「麻倉さんも逃げた方がいいですよ?」

 そう言うと、千恵子は眉を吊り上げた。いつの間にか、手にはデジカメがある。

「私はジャーナリストなの。あれを目の前にして、逃げてなんかいられないわ」

 彼女の視線の先の男は、のた打ち回りながら苦悶の声を上げていた。その正面で急ブレーキをかけて止まった車が、男に蹴飛ばされ、宙を舞う。車はきりもみし、天真たちの対角線上で路上駐車していた車の上に落下した。炎が吹き上がる。

 途端にシャッターを切り始めた千恵子に、天真は閉口した。逃げ惑う人々。だが千恵子は下がろうとすらしない。

『また何か飛んできた』

 巳の声に、頭上を見上げる。今度は無人の自転車、直撃コースだ。

「麻倉さん、危ないです」

 返事すらない。千恵子は、撮影に夢中だ。天真はひっそりと彼女の背後に回ると、落ちてきた自転車を右手一本でタイミングよく払いのけた。千恵子は真横に落ちてきた自転車にはさすがに驚いた様子で、カメラから顔を離す。

「危ないって言いましたよ」

 非難するような目を向けてきた千恵子に、天真は何故か言い訳めいた気分で応じる。

「今、何かした?」

「いいえ」

 そ知らぬ顔で答えたところで、苦しんでいた男が一際大きな悲鳴を上げて、地面に倒れ臥した。

 千恵子の隙を突いて、天真はそれに駆け寄る。男はぴくりとも動かない。その傍らに膝をついた。

「えっと、死んだ?」

『“なり損なった”だ』

 すると、男の背中が小さな破裂を起こす。皮膚を裂いて転がった赤く小さな球体を手に取り、天真は顔をしかめた。

「何してんの!?」

 悲鳴に近い声を上げて、千恵子が駆け寄ってくる。ぐいと肩を引かれた。

「―――あんた、自分で危ないって言ったわよ!」

「大丈夫、もう終わりました」

「え?」

 天真は赤玉をこっそりと制服のポケットにしまうと、アスファルトに這いつくばる男を指差した。

「嘘だと思うなら、確認してみてください」

「え、ええと、う、あ、ええ?」

 千恵子は目を白黒させながら、男―――死体と天真を見比べる。天真は自然な動きで男を仰向けにひっくり返してみせた。千恵子は喘ぐと同時に顔を背ける。天真は肩を竦めると、立ち上がった。

「あとは、警察に任せましょう」

「え、ええ……けれど、一体何だったの?」

 寄せる波の野次馬に対して男から早足で離れて行きながら、天真と千恵子はこそこそと言葉を交わす。

『だからこいつは“なり損ない”なんだって!』

「あれも、蛾の化け物と同じですよ」

「何ですって?」

 千恵子は天真を見据えると、驚愕したように目を見開く。天真は彼女から目を逸らし、“なり損ない”の方角を向いた。野次馬に埋もれていて、見えはしないが。

「あれにもう少し力があれば、蛾の化け物のようになっていました。そうなったら、今みたいにただ暴れるだけでなく、意志を持って人間を襲ったでしょうね」

 千恵子はさっと青ざめて、天真の視線を辿る。天真は口角を上げた。

「心配いりません。あれは力が足りなくて、ちゃんと死ねたみたいですから」

「あ、あなた、何者なの?」

 狼狽した千恵子の様子に、天真は自分の口を抑えた。今のは全て巳の言葉ではなく自分のものだったが、喋りすぎたことに変わりはない。

「言ったでしょ、オカルトが好きって」

「一体全体どの雑誌を読んだらそんな知識が手に入るの? それともインターネット?」

「なんてことはない、偶然と奇蹟の産物ですよ」

 両手を挙げると、天真は少しずつ後ずさる。パトカーのサイレンが聞こえる。野次馬の量も増えていた。行き交う人の波に、二人は飲み込まれていく。

 呆然としていた千恵子が、天真との距離と彼の意図に気付いた。声を上げる。

「待ちなさい! まだ聞きたいことがあるのよ!」

「分かってますよ、また来ます。写真、大事に取っておいてください」

 天真はひらひらと手を振ると、千恵子に背を向けて人ごみを抜け、素早くその場を後にした。



 教室に辿り着く頃には、まもなく昼休みが終わろうとしていた。

 天真の姿を見て、クラスメイトの何人かが含み笑いを交し合う。あまりいい心地はしないが、天真は意に介さないふりをして、自分の席に向かった。

 鞄を下ろして椅子にどかりと座り込む。

「よお、遅刻大魔王。重役出勤、ご苦労さま」

 正面に現れた意地の悪い笑顔に苦笑を返すと、天真は鞄から包みを取り出した。

「久家、これ、返すよ」

「お、どうだった?」

 中身はDVDのはずだが、無理矢理押し付けられただけのものなので、実は袋を開けてもいない。観るヒマもないのは事実だが、事を正直に話すのは何となしに悪い気もして、天真は腕を組む。

「……面白かったよ」

「どういう風に?」

「うーん……ああ、あの女の人、綺麗だね」

 当たり障りのなさそうな言葉を探して紡ぐ。と、久家は四角い顔の相好を崩した。

「だろ? いいね、お前もちゃんと男だったんだな!」

 彼の言葉に不穏な響きを覚えて、天真は眉をひそめる。一体これは何のDVDだったのだろう。久家が嬉々としてDVDの内容らしきものを語り始めるのを聞いていると、今朝家を出るときの叔父との会話が、何故か思い起こされた。

「天真くん、おはよう!」

 不意に肩を掴んで揺すぶられ、天真は慌てて振り返った。

「深紗」

 満面に屈託ない笑みを浮かべた少女がそこにはいた。深紗は細い指で天真の肩を揉み始める。

「お疲れさま、遅刻大明神。ちょっと寝すぎじゃない?」

『ケケケケ』

「それはどうも。そう言うなら、深紗が起こしてくれれば良かったんじゃないか」

 天真が非難するように言うと、深紗は頬を膨らませた。

「お父さんもそう言ってたわ。けど、わたし思ったの。お父さんは朝が強いけど、天真くんはそうじゃないでしょ」

「はあ」

「だから、無理矢理起こすのは可哀相かなって」

『どういう理屈だよ!』

 巳が悲鳴を上げるようにツッコミを入れる。勿論その声は深紗には届かないが、天真も頭を抱えた。

 と、黙って話を聞いていた久家が声を上げて笑った。

「いいねえ、お前ら。夫婦かよ!」

 深紗がきょとんと目を丸くする。天真は久家を睨んだ。

「イ、ト、コ、だよ。一つ屋根の下に住んでるんだから、こういう会話になっても不思議じゃないだろ」

「知ってるよ。いちいち照れるなって」

「照れてない」

『ケケケケケケ』

 卑しい笑い声に、天真は辟易する。

 と、深紗が助け舟を出すように、背後から身を乗り出してきた。

「そうだよ。わたしたち、きょうだいみたいに仲良しなだけなんだから!」

 否、フォローになっていない。

 久家は馬鹿みたいに笑い転げ、巳の声はうるさく耳元で響く。

 深紗はどうしてこうなったのか分からない、というようにおろおろと立ち尽くしている。

 天真は溜息をついた。

 と、天の助けか、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り始める。

「て、天真くん、また後でね」

 深紗と久家が天真の席から離れていく。二人に軽く手を振り返すと、授業の準備をすべく、天真は鞄に手を伸ばした。

『相棒』

 それを遮るように、ぴたりと手が止まる。

 勿論、天真が自分で動きを止めたわけではない。眉をひそめると、ケケケケと笑いが起こった。

『ポケットに入れた飴玉、覚えてるだろ?』

「これのこと?」

 天真は制服のポケットから、紅色の球を取り出した。ビー玉サイズのそれは、先に“なり損ない”から回収したものである。

 天真が何か言うより早く、天真の手はそれを口に放り込んだ。止める間もなく、喉が嚥下する。

「げえーえ、まじいっ! 何だこりゃ、まるで―――」

 天真は口を押さえた。訝しげに振り返った、前の座席の優等生に、何でもないと手を振る。

『ぺっ、ぺ! まるで泥団子だ!』

「何なの? これ」

 天真自身は味を感じない。小声で尋ねると、声はげっぷを返してきた。眉をひそめる。

『搾りかすだな。いや、おからだ、おから。ちーっとだけ、魂の味はした。まずかったけどな』

 天真は首を捻る。あれが残り滓ならば、本体はどこに行ったというのだろう。

 するとその疑念が伝わったのか、相棒はいつもの調子を取り戻して笑った。

『クケケケ、そりゃ、あいつが製造されたところだろうさ』

「今度は工場見学かい?」

『ケケケ勿論』

 巳がそういった瞬間に、数学の担任教師が教室のドアを開いた。

「分かったよ。ただし、今日の授業が終わってからだ」

『ケッ』

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