九. 温故知新


 青白く満たされていく海沿いの部屋。染めていく明るさでおおよその時刻を感じ取る。午前五時くらい、だろうか。微睡みの中でも大体わかるよ。


 出逢ったあの日からずっとずっと望んでいたことだけど、天の恋人になりきって、この身を預けてみて、初めて知ったよ。貴方の腕に包まれながら迎える朝がこんなにも尊く心安らぐものだったこと。


 うっすらと瞼を開けば視覚に続いて嗅覚が確かとなった。ほのかに貴方の匂いがして。


 次に触覚が蘇る。やや低温な貴方のぬくもりを何故だか懐かしく感じて。


 胸元に視線を落とすと、勿忘草の間を縫って梅の花弁が散っているように見える。


 額に手の甲を当てると涙が滲んでくる。これは悲しみなんかじゃないとすぐにわかった。



 光と海と花と、そして貴方と。包み込む全てが優しくて、ああずっとこうしていたいと願ってしまうありのままの自分が居た。甘く響いた痛みを手放したくないくらい。



――起きちゃったの?



 はらりと舞う降り始めの雪のような音色が隣から届いて顔を傾けた。うつ伏せで頬杖をついて見下ろしている。まるで特等席を陣取っているみたいに何処か得意げな笑みを浮かべた彼の姿に、カナタの表情はくすぐったげに綻んでいく。


「大丈夫? 疲れてないかな」


「ユキさんのせいでクタクタだよ」


「う……! ごっ、ごめ……」


「ふふ、冗談。それに今日は休みでしょ? ゆっくり出来るじゃん」


 クスクス笑う私の様子に少し安心したのだろうか。束の間の焦燥から静かな微笑みへ戻ったユキさんがそっと私の髪を撫でて言う。


「だけどもう少し眠っておいて。せっかくの休みだし良かったら後で出かけない? エンジェルパティスリー、だっけ」


「!」


「食べたいんでしょ、デラックスパンケーキ」


「ホント!? 連れてってくれるの、ユキさんっ!」



 とりあえずとはいえ短冊にしたためておいた願い事が早くも叶いそうな気配。思いがけない提案に目を輝かせたカナタががばっと起き上がると、わっ! と素っ頓狂な声が上がった。ベッドに寝そべったままの彼の方からだ。


「ちょっ、カナタ、そんな格好で急に起き上がらないで……!」


「ユキさんだって同じじゃん」


「じゃなくて、その」


「?」



「……また抱きたくなるじゃない」



 ふいと横向きに顔をそむけた彼の耳は、また熟れた果実のように鮮やかな色を帯びている。首を横に捻ったカナタはしっくりこないまま両手を広げて。



「いいよ? ホラ」


「それ絶対意味わかってないよね!?」



 素直に抱き締めてくれればいいものを……と、ちょっぴりふくれたりなんかした。ユキさん曰く、私は“無防備な織姫様”らしい。




 それからほんの少し眠りについた。再び目覚めたのは午前九時。朝寝坊も休日の醍醐味だ。


 スパークリングウォーターで喉を潤した後、先にシャワーを借りた。長い髪をドライヤーで乾かしていたところへマグカップを二つ持ってきたユキさん。どちらからも珈琲の香りが漂っているのだけど、私の方によこしてくれたそれはやけに白っぽい色をしていることに気付いた。


(ミルク多めって、知ってたんだ)


 ありがとう。そう言おうとした頃にはすでに、彼はシャワールームの奥へ消えていた。マグカップを両手で持ったカナタは、ほんのり湯気の立つところへそっと口をつける。それは決して熱すぎることもなくすんなりと喉の奥に流れた。


 きっと前もって用意してくれていたんだ。私の好みも程良い温度も本当はずっと前から知っていて。


 だけど決しておおっぴらにはしない。この人はいつもそうだと、カナタは一人小さく頷いていた。小さなことが……いいや、小さければ小さい程、自分の細部まで知ってもらえてるように思えて嬉しかったのだ。




「わぁ! 綺麗だねぇ、ユキさん」



 屋上の車庫から発進した車の中で思わず歓声を上げた。七月七日がまだ続いているような錯覚まで覚えた。


 それはまるで朝の天の川。晴天から降り注ぐ光を飲み込み、浮かべて、幻想的に煌めく海がカナタの胸を躍らせる。キラキラ、キラキラと。ひたすらに魅入る青い瞳までもが澄んだ輝きで満たされていく。


 更にこれから目指すは念願のエンジェルパティスリーなのだから、子ども返りしたみたいにはしゃいでしまったのも無理はない。




 やがて念願の場所にて運ばれてきたパンケーキは、ふわりととろけそうな柔らかさだとフォークを入れる前からわかった。ブルーベリーやラズベリーを主としたフルーツは透明のコーティングでつやつやしていて、ちょこんと乗ったミントグリーンが視覚的にもいいアクセントになっている。粉砂糖と※アラザンで一層眩く見える。それはまるでお伽話に出てくる宝石箱の中身のようだ。


 美味しい? って目を細めて訊いてくる彼に、カナタはリスのようなまぁるい頰をもぐもぐさせながら頷いた。最高に美味しくて手が止まらなかった。甘味の中に生きる酸味、そして何よりも……


「食欲旺盛だね。いい子だ」


 繰り返し頭を撫でてくれるこの心地良いリズムが……彼の肌が持つ心地良い冷たさが、私に極上のひとときを味わわせてくれたのだろう。




 今は週末。せっかくだからもう一泊していく? なんて、ついつい話が盛り上がって、エンジェルパティスリーから近いところに在る路面店の酒屋にて晩酌用の一本を選ぼうとしていた。


 ここはやっぱりワインだろうか。それとも日本酒とかの方が好きかなぁ。ユキさんは大人だもん。あんなお洒落な海辺のマンションに住んでる訳だし、ムードとか大切にしてそう。きっとクオリティ重視だよね……と、ちょっぴり背伸びする覚悟さえしていたときだ。



――ねぇ、カナタ。



 やけに冴え渡る声色が届いて顔を上げた。カナタの視線の先には、ビルの遥か上の広告用スクリーンに見入る彼の後ろ姿がある。


「買い物終わったらさ、あれ……観て行かない?」


 よほど釘付けになっているのだろうか、一つの提案は振り向かない背中から続いた。




 春日家の子孫だけど、実は観たことが無いのだとユキさんは言った。どんな話か大体知っているだけだと。


 秋瀬家の子孫だけど、実は私も観たことが無いのだとカナタも言った。話の内容はもちろん、例の事実が公表されたことも知っている。それでもなのだと。



「だって主人公の名前とおんなじって、ちょっと照れるんだもん」


「はは、やっぱり? 僕もだよ。この名前だと大体あだ名が“ユキ”になるから、連呼されるとちょっと……ね」



 くすぐったい笑みを交わしつつ共にこんなことを語った。私たちは今日、ついに見届けることとなった。


『真夏の雪に逢いに行こう』


 私たち二人の先祖が残した軌跡。夏にだけ幕を開くという一つの舞台を。



――ユキ。のう、ユキ――


――秋瀬。待ってよ、秋瀬――



 色褪せない愛を確かめる時間を、共に。




 車内鑑賞でもいい? という彼の問いにカナタは同意した。劇場の入り口のわきにて当日チケットを入手すると、そのままエレベーターコースへと車は進んでいく。


 会場で観るならば予約が必要だが、このように急遽鑑賞したくなった場合、自家用車に乗車したまま外側から観ることが出来る劇場が随分と増えた。実に便利だ。




 かつて秋瀬家の家政婦メイドであった秋瀬夏呼が書き残した手記を元に、夏南汰の娘である秋瀬夏南呼が形にした。美しい純愛の物語なんて言われているけれど、実際に触れてみるとそれは実に不器用で、時にいびつで、決して綺麗なばかりではないものに思えた。



 そもそも夏南汰っていう男。いや、私の先祖なのだけど、なんという破天荒っぷりだ。修道院から若い女の子を連れて帰って来るなんて、昭和版光源氏もいいところだ。


 家政婦になった夏呼さんに勢いで手を出しちゃってさ、その上絶望的に鈍感だから彼女の気持ちだって何処までわかっていたのか怪しいものだよ。お腹大きくなってるの気付かなかったの? 全く……いや、私の先祖なのだけど。


 そんなこんなを散々やらかしておいて、後から雪之丞への気持ちに気付いて、一方的にキスして旅に出て……しかも死んで帰って来て……本当に何やってるのさ、私の先祖。




 舞台鑑賞を終えるとそのまま車はエレベーターを降り、帰りの道のりを辿っていく。



 隣に居るのは春日雪之丞の家系の子孫……自分は秋瀬夏南汰の子孫であるがゆえに申し訳ない気持ちさえ込み上げて、先程感じた率直な感想をカナタは詫びのようにして零していた。


 自由と身勝手はまた違うっていう話で、自由になったと言われている現代の私でさえ、突っ込みどころだらけだと思いため息までついたこと。そして彼の先祖に悲しい思いをさせてしまったことなどを。


「確かに破天荒な人だったみたいだね。だけど立ち向かう勇気があるよ、彼には」


 彼の優しいフォローに対しても私は小さくかぶりを振った。大切な人を自殺にまで追い込むなどあってはならないという頑なな思いがそうさせるのだ。


「それにこうして先人たちが頑張ってくれたおかげで今の僕たちの自由が……」



 それなのに、何故だろう。




「……カナタ?」


「…………」



「泣いてるの?」




 実際のところまだ泣いてはいない。まだ、なんとか持ちこたえている。ただとにかく身体が震えて止まらないのだ。一つのシーンが脳裏に焼き付いて離れない。




――カナタの君よ。この世の誰よりも愛した君と一つである為に、僕は――




――君と共に、真夏の雪になる――




「…………っ」




 我が先祖にとって最愛であった雪之丞が断崖絶壁から身を投げた。溶けない真夏の雪に包まれながら自らも海中に散ることを選んだ。それは激しく深くカナタの胸を抉った。



 一つ、幼い頃の怖い経験を思い出す。


 古い遊びの“かくれんぼ”とやらを近所の幼馴染としていた。幼いカナタが目をつけたのは実家裏庭の古びた物置。家族でさえ存在を忘れていたその箱はどうやら歪んでいたようで、なかなかやって来ない幼馴染に痺れを切らして出ようとする頃には既に扉はびくともしなかった。


 更にタイミングの悪いことに夕方から雷雨が訪れた。カナタはただ一人、暗闇の中で、唸る猛獣のような雷の音に耐え続けて涙したのだ。すっかり日が暮れて、母の腕に救われるまで。



 以来、狭くて尚且つ暗い個室に入るとあの頃の恐怖心が蘇る。一人でなんてもってのほかだ。



 そう、それだとカナタは確信した。トラウマのフラッシュバック、あの感覚に似ていると。経験したはずもないシーンに対してこんな現象が起きるというのがなんとも不思議であるが。




 夕暮れが迫っていた。空で交差して流れていく車の群れに、一つまた一つと灯りが宿っていく。


 せっかくの休日、せっかくのデートだ。愛しい彼との……そう思っているのに潤んだ視界がなかなか晴れなくて参ってしまうよ。



 くれないに染まり行く中でどうしようもなく目を赤くしていくそんな私へ、彼は次の提案をしてくれた。



「ちょっと散歩していこうか? 気分転換に、ね」



 顔を上げなくても優しい微笑みだって感じ取れる。


 涙を拭って眼下を見下ろすとそこはもう横浜市内。古き時代の昭和から存在し続けている有名な公園が見えた。



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 ※アラザン・・・砂糖とデンプンを混ぜて粒状にし、食用銀粉をコーティングしたもの。主に洋菓子の装飾に用いられる。


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