八. 星河一天
植物にはそれぞれ適した環境が存在する。中でも水分。これを必要としていない植物はいないと言っていいだろう。あのエアープランツでさえ空気中のわずかな水分を取り込んで生きているのだ。水が要らないなんていうのはあくまでも人間目線にすぎない。
なんて言っておきながら、私はあえて限りなく人間目線な疑問を抱く。共に育む、という点で愛も植物に例えることが出来るだろうかと。
ならば何を目指そうかと視界を巡らせた。そしてやがて目に止まった窓際の小さなひと
遠く遠く離れても。砂漠の真ん中、灼熱の
心細さに負けずすくすくと育つ。私たちの愛も、そして私自身も……
ツンと、棘の無いところを指先でつついて微笑む。容赦の無い七月の陽射しを受けるカナタは目を細めて願う。
こんな自分で居たいな、と。枯れずに緑を輝かせ続けるサボテンのようで在りたいと願うのだ。
窓際の小さな植物と戯れていたところへ、ワサッと騒ぐ音を立てて笹の葉の束が視界に入り込む。ぼんやり見上げるとちょうどナナコさんが一枚の短冊を差し出したところだった。
「はい、カナタさんも願い事書いてね! 仕事でもプライベートでもなんでもオッケーだよん」
そう、今日は七月七日。笹の葉に短冊といったら日本にも昔から伝わる定番アイテムだ。
和気あいあいとした生物課でも夕方からちょっとした会食をメインとした七夕会が予定されている。ふと室内を見渡せばいつの間にか昼休憩に入っていたようで、女性たちがキャッキャと囀(さえず)りながら短冊に願いをしたためていた。
「カナタさんは何にするのかなぁ~?」
小刻みに身体をゆすりながら覗き込むナナコさんは、どうやらこちらの願い事を見る気満々のようだ。う~ん、としばし考えてカナタはまず口にしてみる。
「生物学者になりたい」
「デカッ!! それ一年で叶える気?」
まぁいいけど~、なんて笑ってるけどナナコさん、それはつまり、アンタも大人なんだからある程度は現実的に考えて一年で実現可能な願いにしろということですか?
「エンジェルパティスリーのデラックスパンケーキが食べたいっ!」
「あはは! もぉ~カナタさん極端! 確かにここからだと距離のあるお店だけど行けないことはないでしょ」
じゃあなんだったらいいんですか。むうっと拗ねてみてもナナコさんはお構いなしだ。つまりはからかいたかっただけなんだろうけど、まぁいいや、なんかこの人憎めないからと、カナタも穏やかな笑顔に至った。
本当のことを言うと願い事ならもう決まってる。ナナコさんは仕事でもプライベートでもいいなんて言っていたけれど、さすがにこれは……とためらって然るべき内容だ。
とりあえずで書いた願い事を笹の葉に吊るしたカナタが身を翻した。さてそろそろお昼ごはんを買いに行こうか。扉に手をかける寸前のこと。
「うぃーーっす! ユキさん、サンプルの花ここに置いといてええですかぁ?」
「やぁお疲れ様、
うんしょ、と呟きながら足で扉を押し退ける。金に近い色をした男らしい短髪とタンクトップから覗く隆々とした上腕二頭筋がトレードマークであるこの人のことはもう覚えた。
「いんやぁ〜暑くてたまらんのう!」
「ちょっと、足でドア開けないでくれます?」
「ナツコか。別にえーがの、壊した訳じゃあるめぇし」
「じきに壊れるって言ってるんです!」
振る舞いは少々ガサツだがこれでも花屋のお兄さん。いつもはおしとやかなナツコさんが唯一小言を口にする相手、聞いたところによると幼馴染らしい。
植物の研究の為、こうして定期的に花のサンプルを運んできてくれる。どういう訳か私の心の住人A(仮)と口調が酷似していて妙な親近感さえ感じてしまう、そんな彼は……
「ユキさ~ん、異動する前に飲み! 付き合って下さいよ」
「やれやれ、毎度酔い潰れた君の介抱をする僕の身にもなってほしいね」
ユキさんの学生時代の後輩でもあるのだ。なるほど、いつもはユキさんがあの人の介抱を……なんて、私の知らない彼の一面が垣間見える貴重なこの瞬間が結構好きでもある。
しかしこの日はそんな傍観だけでは済まない事態へと発展した。
「そういえばアレどうなったんスか?」
「アレって?」
「あの件っスよ! ユキさんずっと悩んでたけど、告ったんスよね?」
“勿忘草の君”
ぎく、と一瞬にして全身が凍り付いた。横目だけで伺ってみると、ユキさんも同じようにして表情を強張らせている。
「えぇ! なんですか、ユキさん!」
「告白したんですか!?」
「もうお付き合いしてるんですかぁぁ!? もしや……ここに?」
やがて
先程、陽凪さんも言っていたように今日は暑い。だからこそ私も白衣の袖を二の腕まで捲っていたのだ。しかし今、この場で、この花が咲いているのは非常に、まず……
「あ、居た」
『いっ!?』
素っ頓狂な声を上げたのはユキさんと同時だった。彼も同じことを思っていたことを理解するのと同時に、真っ直ぐこちらを指差す陽凪さんのニヤニヤ笑いが目に飛び込む。
「ほぉ~、こんな近くにおったんかぁ。たまげたのう」
――このアホ
呆然と立ち尽くす私の中で、住人Aの叫びがこだました。
かくして本日予定されていた『七夕会』は、『春日室長恋愛成就おめでとう会』へと変更された。
「えーっと、その……まさかあんなところで暴露されると思わなかったもんだから……本当ごめんね」
「いえ、ユキさんのせいじゃないので……」
詫びる彼を車の助手席からなだめていた。涼やかな夜風を浴びているうちに羞恥心は次第に薄れ、カナタは穏やかな笑みを浮かべる。好きな人のちょっと抜けた部分が見られた。これはこれで良かったかも知れないと思ったら、自然とこんな表情になっていた。
やがてカナタは隣の彼の様子に気付いて首を傾げた。何やらさっきから落ち着かないような。そして夜空の
真っ白なその頰が、ほんのり色味を帯びているような……
「あのさ、カナタ。ちょっとお酒入ってるでしょう」
「はい、でも大丈夫ですよ?」
…………
…………
「いや、大丈夫じゃないから。その……」
「?」
「そ、その……僕んちもうすぐだから、休んでいった方がいい、かもよ?」
宙で停車した車。宙の交差点にて走り抜けていく幾多もの光が星々の雨のように降り注いで……照らされて。
(ああ、やっぱり)
そこではっきりと彼の顔色がわかったもんだから、カナタは思わず肩を震わせて笑い出す。
「それ却って危険でしょ」
「…………!」
「お持ち帰りってやつですよね、ユキさん」
「ご、ごごご、ごめんなさい! やましいこと考えてました! もう何回かデートも行ってるし……とか思っちゃったんだけど、やっぱり気が早かったかな。本当にごめんっ!!」
覗き込む私から必死に逃れようとしている彼。煌々とライトアップされた中、朱に染まった耳を隠しようもないというのに。
「今月、僕は本部に行かなきゃいけない。時間が迫ってるって思ったらさすがに寂しく感じてしまってね。はは、ゆっくりなんて言っておきながら情けないなぁ」
「ユキさん……」
「ごめん、忘れて」
そうしてばつが悪そうに俯く姿に見入った。ああ、まだ進路を変えられる段階だ。何処までも正直で、何故か私を壊れ物のように考えているこの人は、きっと後ろめたさに飲み込まれて本来の道のりを選ぼうとしてしまうだろう。
だからこそ私は
「連れていって。いいよ……ユキさんなら」
こうして身を預けるフリなんかして、本当は私が連れていってあげるつもりだよ。
「たまには我儘くらい言ってよ、ユキさん。“勿忘草の君”に忘れて、なんて、出来っこないじゃないですか」
青い花が揺れて揺れて、燃えていく。高熱の青い炎へと変化を遂げる。私の中で……今。
ユキさんの家は海岸近くのマンションに在った。まるで測ったように割れて流れていく雲。奥に隠れていた天の川が私たちを微睡みへ誘おうとばかりに煌めいて。
降り注いで、この瞬間を彩ってくれる。バルコニーから流れ込むさざ波の音色と共に。
「ねぇ、カナタ。これを君にあげるから……」
差し出された栞を受け取るとユキさんの視線が緩やかに移動した。私の手の中に納まっている青色から、私自身に咲く青色へ。追うように指先でなぞる。想いを伝え合ったあの日よりも私の感度は更に増しているようだった。
そしてやがてはこの青色の瞳を見つめ、求めてくれる。
「君の勿忘草を僕に頂戴?」
優しい微笑みの中にちょっぴり野生じみた色を感じて、私の背筋がぞくりと逆立った。物欲しそうなその目に見つめられると嬉しさと恐れが入り混じって、自分でも恥ずかしくなるくらいの甘ったるい呻きが零れそうだ。
「うん……幾らでも」
――君がそう望んでくれることが嬉しい。幾らだってあげるよ――
――これは君のものだ。君の為に存在する私なのだから――
心の住人は満足気に呟いたっきり影を潜めた。カナタは自分のすべきことをおのずと理解する。
今の自分のまま、ただ真っ直ぐに目の前の彼を見つめて。ただ真っ直ぐこの手を伸ばして今の彼に囁きかける。幸せだって一目でわかるように微笑んで。
「来て、ユキさん」
全部受け入れられるよ。だって私は、何度何者に生まれようともこの人を選ぶって確信があるんだ。
何処まで紐解かれたってもう恐れないと心に決めた天の川の夜、私は秘めてきた願い事を彼だけに打ち明けた。
“忘れられない夜を魅せて”
今宵はどうか私だけの彦星様で居てください。そしたらきっと寂しくなんてないから。この先迎える幾つのも夜に貴方の想いが寄り添ってくれる。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
降り注ぐ星々と、波の音と貴方の声と
優しい眼差しとぬくもりに包まれたなら
恐れも次第に消えていったよ。
怖くなんかない。
だけど涙が出るくらい……
貴方はやっぱり優しかったね。
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