七. 破鏡重円


 えっ、どうして? どうして?


 なんでなんでなんで!?



 ゆっくり歩み寄ってくる足音と、カナタくんと私の名を呼ぶ彼の音色。両方を背中で確かめながらも頭の中は未だ大混乱だ。


 手洗いに行っている間に会議を終えたユキさんが戻ってきた。長らく頭を使った後だ、すぐに帰り支度をする気力も湧かないほど疲れていたのだろう。そうして片隅のソファーにてくつろいでいた。こういうことだろう。むしろこれ以外に無いだろう。シンプルに考えればわかることだ。わかるのだけど……


 運命を動かす神様なる存在が居るのなら、よりによってこのタイミングを選んだこと、そこに対して何故と問いたい。それはもう声を大にして。



 実に無意味な責任転嫁を続けている最中も、バクバク、バクバク、と、胸の皮を突き破りそうな高鳴りは治らなかった。こんなときに限って心の住人からの助言は一言たりとも聞こえてこない。あんな反論をしておきながら理不尽なのは重々承知の上だが、こんなときばかり大人しくならないでくれ! と更なる我儘を言いたくなった。



 もういたたまれなかった。限界だった。


 背を向けていてもなんとなく気配で。大きな手がゆっくりとこちらへ向かってくるのがわかった。触れられるその瞬間まで待っていることさえ出来なかった私は。



「……欲しい」



 降り始めの雨みたいに、一雫からそっと始めたのだ。この上なく不器用だったとは思うけれど。


「本当はずっと、欲しくて欲しくて仕方がなかったんです。貴方の心を、全てを、ここへ引き寄せたいと、いつしか願っていて……探していた人にやっと出逢えた気がしていたんです。可笑しいでしょう?」


 自分の左肩へ視線を落とすとほんの少しだけ白い指先が見える。手を寸前のところで止めたまま一言たりと発することが出来ないでいるユキさん。優しく愛おしい彼の気配に見守られながら、私の雨足は一層強くなる。


「言えなかったことがあります。私は秋瀬夏南汰の子孫です。でもそのせいで……なんて、思われたくなかったから。偶然キスしたから、とか。それで勝手に運命だと思い込んでるんだとか。正直言うと私も最初はそうかも知れないって思ってました。でも……違う。貴方が遠くに行ってしまうってわかったそのときに、はっきりと確信しました」


「あ、あの」



 ためらいがちにやっと少しだけ発したユキさんの声を遮って私は告げた。その声はどうしようもなく震え、裏返っていたけれど、もう後戻りなんて出来るはずもなく。



「私は貴方に惹かれたんだ。他の誰でもない、今の私が今の貴方を必要とした。誰にも渡したくないなんて我儘を願うくらい……!」


 素早く息を詰まらせた背後の気配にごめんなさいと言いたくなった。ごめんなさい……本当に、困らせてごめんなさいと。


「貴方は物じゃないんだから独り占めとか、そういうのは駄目だって、わかってるのに、わかってるのに」


 なのにすっかりたがが外れてしまっている自分自身にたまらない苛立ちと悔しさが込み上げていた。そんなときに、雪の音色は再び舞い降りる。



「あの、さ、カナタくん」


 ヒラヒラ、ヒラヒラと、火照った私の意識を冷やして慈しんで、確かなものへ変えていく。



「さっきから言ってるそれって、僕に対して……なの?」


「…………っ」


「ねぇ」



 いま顔を上げたらきっと酷い顔をして睨み上げてしまうだろうから、せめてもの抵抗として深く深くまで顔を伏せる。貴方じゃなければ他に誰がいるのだと。もどかしさと切なさを押し潰すみたいに拳を握って。


「我儘を言ってごめんなさい。ユキさん、私は貴方の未来を踏みにじりたくないから、止めはしないけれど……」


「カナタくん」



 ついに私の震える両肩を彼の手が強く掴んだ。絶えない涙に濡れた顔は相変わらず上げられないまま。それでもこれだけは伝えたいと遥か彼方からの記憶を手繰り寄せるようにして、放つ。





「私を……忘れないで」





 口にしてやっと理解する。



 身体に刻んだこの花も言葉も、きっとこの日の為にあったのではないか。




 しばらくは支えられたまま、床にへたり込んだ体勢のカナタの意識はぼんやりと滲む微睡みの中を漂っていた。そうしているうちにふとあることに気が付いた。


「ごめんね、ユキさん。私まだちゃんと言ってない、ですね」


 そうだ、話の順序もなにも滅茶苦茶だ。あんな鼻声じゃ何処まで届いていたかだってわからない。名指しして相手を見つめて、もっときっぱり言い切ってこそ告白の言葉と呼べるのではないか。そんな自論を思い立って苦笑混じりに詫びた。


 涙はまだ引いていなかったけれど、ぐしゃぐしゃなままやっと顔を上げた。振り向いた。きっと実に情けない笑顔で。



「ユキさん、私は貴方が」


「待って、カナタくん」



 しかしどういう訳だろうか。肩を掴む手に更なる力を込めた彼は、私に続きを言わせてはくれない。


「もしこれが僕の勘違いだったら……はは、僕は大いに恥をかくことになるんだね。自惚れかも知れないけれど、それならそれでいいんだ。違うなら違うって言って。伝えられないよりはずっとマシだって今思えたから」


 まだ何処か自信なさげな彼は、まだこんなことを言っているのだけど。


「ね、僕から言わせて?」


 指先で私の涙を拭ったなら今度は両手でそっと頰を挟んで引き寄せる。つまりこういうことらしい。



「忘れない。忘れる訳ないでしょう。何処に居たって僕は君を誰よりも大切に思っているんだから」


「うん」



「好きだよ、カナタ」



「うん……ユキさ……っ、すき……大好き」



 限界まで近付いた対極の磁石は、引き寄せ合うその力をもう止めることは出来ない。


 暗闇ではないけれど、手探りという言葉が似合う動きでユキさんの冷たい指先が私の頰を這い、ついには震える唇を探して当てた。もしかしたら私と同じように涙で前が見えないからそうしたのかな?



 輪郭をそっとなぞった後に、柔らかく噛み付いてくる。


「二度目だね」


 って言うユキさんに


「三度目もいいですか?」


 いつになく甘えん坊な私が顔を出して次をねだる。こうやって何度も何度も求め合うことを懐かしく思った。三度目、四度目……いいや、それどころではないんだ。何故だかずっと昔から知っていたような気がする、そんな不思議な感覚に無我夢中で溺れていった。


 何故だか込み上げる後ろめたささえもが私を甘く痺れさせて、熱を持った唇が腫れ上がりそうなくらい重なっても啄んでもやめられないのだ。



 気が付けばユキさんの白衣をしわくちゃになるくらい強く握っていた。もうどうなってもいいなんて思っていたとき。



――――!



 官能にいざなわれそうな甘いひとときを遮るように彼がその胸の中に私の身体を引き寄せた。強く強く締めつける片方と、優しく優しく背中をさするもう片方。相反する力で私を惜しみなく包み込む、その理由をやがて教えてくれた。



「君とはゆっくり育んでいきたいんだ。僕はこれで独占欲強いからね、随分嫉妬もしてきたんだよ。穏やかな海みたいな目をした君のところへは、老若男女いろんな人が集まってくるでしょう」


「ふふ、嫉妬って……全然わからなかったよ、ユキさん。どれだけポーカーフェイスなの」


「実は今でも不安で仕方がないんだ。君を傷付けてしまわないように、慎重にならなきゃってね」


「大丈夫だよ。心配しすぎ」



 想いを打ち明けてからのユキさんの声色はやたらと切なげに聞こえた。もう難しいことも暗いことも考えたくないからと明るく振舞っているカナタにも、うっすらとその理由がわかる気がした。


 指を絡ませ見つめ合うだけで、何か奥深くから訪れた衝動が私たち二人を内側から揺さぶるのがわかるのだ。



「……禁じられてるような気がしてた」


「うん、それ。私も思ってたよ、ユキさん」


「ましてや今の僕は、ずっと君の傍に居られる訳じゃない」


「私も不安だった。追いつけるだけの強い自分になれるのかって」


「だけど本当は誰も咎めてない」


「悪いことなんかじゃない」


「傷付け合うことがきっとあるよ?」


「そんなの避けられないでしょ」


「僕らなら大丈夫かな」


「うん! 大丈夫」



 シンプルに考えればすんなりと……いや、よくわからない会話だった。だけどわかる気がした。きっとユキさんの中にも心の住人が居るのだろう。




 やがてつくろぎのソファーへと場所を移した二人は、ふけていく夜の空気に包まれながらも時を忘れて語り合う。



「ねぇ、カナタ。僕は本部へ行くよ。ずっと挑戦してみたかったことでね、君がここに来る前に決めてしまった」


「待っていてもいいですか?」


「もちろん。ううん、距離があったって付き合っていくことは出来るよ」


「あ〜あ、初恋が遠距離恋愛かぁ」


「え、初めてなの?」



「……うん」



 恥ずかしくなってうつむいたところへ、くすっと微笑む音が降る。決して馬鹿にしているものではなくむしろちょっぴり嬉しそうだ。それが一層顔面の熱を上昇させてカナタはぷうっとふくれっ面をきめた。


 独占欲が満たされて良かったねと、皮肉の一つでも言ってやろうかと思っていたとき。



「じゃあ尚更だね」



 そんなことを呟いて、ユキさんは再び私の手を取った。片方の手がすーっと滑らかに私の白衣の袖をたくし上げていく。


 這い上がってくる指先の冷たさに小さく震えるカナタへ、その人は垂れ下がりの瞼の奥を貪欲に光らせて、一つの決意を告げた。



「君にこの花が咲いていると知ったとき、大切な人を置いて行こうとしていたんだって少し後悔してしまったけれど……全力を尽くすよ。遠くからでも、君に後悔はさせないように」



 そして夜露に濡れて艶めく青い花へ、待ち焦がれた誓いの口づけが降りる。



――勿忘草の君――



 貴方の中の住人が私をなんと呼んでいたか、このとき初めて知ったのだ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 想いを伝え合ったその後の会話を少しだけ聞いてみましょう。



 ↓↓↓↓↓



「ねぇ、カナタ。君の気持ちが知れて嬉しかったけど……んんと、その……君の想いの伝え方は危険だからね?」


「?」



――欲しい――



「はぁ……わかってないのが怖いよ。あんなのそのまま押し倒されたって文句言えな……」


「何か言いました?」


「ううん、何でも。とにかく僕以外には言っちゃ駄目だよ」


「あはは、言う訳ないじゃないですか。私を全部あげられるのはユキさんだけなんだから」


「~~~~っ! もう……!!」




 新芽は柔らかいものです。生まれたばかりの愛も然り。だからこそここは理性で守ってくれたのかも知れませんね。


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