六. 社燕秋鴻
同日、場所は同じく研究所内。カナタは未だ帰れずにいた。手洗いから戻る冷たい廊下の道のりにて、つい一時間ほど前に柏原姉妹の姉・ナツコさんから受けた話を自身の中で
まず驚くべき事実を知った。ナツコさんここに居るみんなよりも前に荻原カナタという人間を知っていたのだという。具体的に言うと約一年前に留学先の国で行われた論文発表会のとき。
国際総合科学研究機関は研究者や学者を志す者がこぞって目指す名門だ。論文発表会にはそうやって大手から目をつけられることを狙っている者さえ居た。私も例外ではなくあわよくば……なんて考えていた訳なのだが、すぐに声がかかった訳じゃないから、まさか当研究員の目に止まっていたなんて知りもしなかった。
ユキさんは重要な会議とのダブルブッキングに悩んだ末に会議の方を優先し、出席していたのはナツコさんだった。妹のナナコさんと同じように飛び級で、しかも主席で卒業した彼女は、わずか十六歳にして研究員となったそう。その上ゆくゆくは室長の代行まで勤めるようになったのだから大したものだ。
――この人なら入社試験もなんなく通り抜けることでしょう。是非来てもらいたいものです。出来れば我が部署に――
食い入るように彼方の私を見つめていた彼女がぽつりと零した。その言葉を所長が覚えていたらしい。日本研究所の所長は
ナツコさんの優れた洞察力に一目置いていたのだろうか、それとも可愛い姪っ子の願いに答えてやりたくなったのだろうか。あえてその場でスカウトしなかったのは私の実力を見極める為だったのだろうし、親戚の色眼鏡が入ったとするなら入社後の部署振り分けの際だろう。
いずれにしても私にとっては幸運なこと。こうして恵まれた環境の部署に身を置けることになったのだから、ここは捻くれた受け止め方をするよりも素直に感謝しようと思った。
つまりだ。こうやって辿っていくと、荻原カナタの生物部配属を真っ先に望んだのはナツコさんということになる。
「貴方がここへやってきて、私の判断はやはり正しかったと思うことが出来ました。その生物学に対する情熱と純粋な探究心は周囲を活気づけ導いてくれる」
「そんな……」
私が恐縮していた矢先に、彼女がもう一つ確信していることを告げた。
「ユキさんにとってもこれで良かったんだと思いました」
――え?
何故そこでユキさんなのだ? 首を傾げるこちらの仕草だけで彼女は全て読み取ってくれたらしい。
「私たち部下に対しては過保護なところがありますけどね、ユキさん。自分自身のこととなると省みないといいますか……あまり笑うことも無かったです。嫌われるほど気難しい人じゃないけれど周囲とは常に壁を隔てているような感じでしたし、いつも何処か寂しそうな人っていう印象でした」
不器用というか……
彼女が小さく続けた一言には妙に納得がいった。だけどそれでも驚いていた。だって私の知っているユキさんは厳しいところもあるけれど、大きく包み込んでくれる大地のような人だ。あの潤んだセピアの瞳も、ひやりとくる冷たい手も、全てが慈しみのように思えて心が安らいだ。
そして誰よりも微笑みが似合う人だと思っていた。私にとってはもう最初からそんな印象だったのにって。
「異動の話に乗ろうと決めたのはユキさん自身です。あれは強制じゃありません。彼にとっては大きなチャンスにあたるのですから、そのような決断を下したことに私はなんの不思議も感じません」
確かな眼差しで言い切るナツコさんの姿勢を目の前にして、カナタは顔の中心にわっと熱が集まる感覚に悶えた。
そうだ、彼女の言う通りだ。きっとこれはユキさんが血の滲むような努力を重ねた末に掴み取った希望なのだ。何を疑うことがある。何を案ずることが、ある?
手離したくない、なんて。そんなの私の身勝手な願望じゃないか。もっと傍に居たかったなんて……きっと……迷惑でしかないんだ。
一緒に喜んであげることも出来ない、どこまでも器の狭い自分。公私混同など本来するべきではない。こんな社会人としての常識さえ見失っていたのかとカナタは己を恥じた。しかしだ。
「だけどカナタさん、私が最初に言ったことをここで思い出して下さい」
「え?」
「このままユキさんを送り出さないで……ほしいです。生意気な言い方になってしまってすみません。ですが、あの人もそして貴方も何かを恐れているように見えるんです。あの人はきっと貴方を待っている、ううん、ずっと前から待っていたようにさえ思えるのに、言えないでいるんです。その……男性同士が想い合うことは今やそんなに珍しいことじゃない。大昔ならともかく今となっては、状況はもう許しているのですよ」
「ナツコさん……」
真っ直ぐぶれない目をして見つめる彼女がこの上なく健気に映ってたまらなく愛おしいとさえ感じた。強く抱き締めたい衝動に手元が疼く。
だけど違う。彼女はきっとそういう目的でここに立っているんじゃない。純粋に見抜き導こうといるんだ。何故そこまでしてくれるのかはわからないけれど。
高まっていく目頭の熱と戦いつつ、カナタは続きに耳を傾ける。
「貴方も待っていたんじゃないですか? ユキさんのこと」
彼女はもう全て知っていたんだ。私の気持ち。それはすんなりと理解できた。
だけど……
「ユキさんも……私を……?」
本当に?
そればかりはどうしても……どうしても。素直に続きを口にすることさえ怖くて息が霞んだ。
そうして現在に至る。無理をしないで下さいと心配そうに告げたナツコさんは先に帰り、私の意識は未だここに縛り付けられたままだ。ユキさんがいつ戻ってくるかもわからない。顔を合わせたそのときに一体どうする気なのか、私。それさえも見当がつかなくて途方に暮れる。
たし、たし、と、足音が虚しく響く。ひび割れそうな氷の膜が軋みを立てるみたいに聞こえて、なんとか縋るようにして研究室へと戻ってきた。
そっと後ろ手で扉を閉ざす。パタンと響くその音さえ乾いているよう。
再びユキさんのデスクを眺めていたら何やらとてつもなく渦巻く感情が唸りを立てて込み上げる。自身の手をもう片方でぎゅっと握って実感する。
温かい。これじゃない。
自分でどれだけ握っても駄目だ。抱き締めても駄目だ。
呆気なく火照り熱に浮かされる私には、あの鎮めの力を持つ雪の
だけどもう触れられない。
きっと自覚もしてないんだろうけど、あんな優しい人を周りが放っておく訳がないよ。ここを出たらまたナツコさんが言ってたみたいに儚い雰囲気を纏うのかも知れないけれど、それならば誰かが包み込む役割を買って出るだろう。
自分に厳しくて芯の強そうな人。だけど何処か放っておけない人。
やっとやっと出逢えた気がした。なのに、何故私は傍に居られないの。何故、こんなにも怖くて動けないの。
弱気になっていたところへあの声が聴こえてくる。
――まだ遅くはないじゃろう!――
私の中に住む二人と思しき心の住人が口々に言うのだ。
――少しは信じてみたらどうだ。お前に出逢って彼はあの笑顔を身に付けた――
――いや、取り戻したんじゃ――
――今まで恐れずにやってきたではないか。すぐに見つけてもらえるようにと先祖にそっくりな容姿で生まれ――
――記憶を有さぬ世界だからこそ――
――どんな壁だって二人で乗り越えられると証明する為にあえてこの性別を選んで生まれた――
――カナタと名付けてくれるようにと切に願った――
――痛みを堪えて勿忘草を刻んだ――
――彼に逢いたくて――
――彼を救いたくて――
――悲しみなんかに染められはしないという確かな自信に辿り着きたくて……!――
「もう……っ、やめてよ……!!」
心の中の住人へ私は生まれて初めて抗議した。恐れないでやってきた? とんでもない。私の中から聴こえるのだから私の心に変わりはないのだろう。だけど現在ではない気がするんだ。
そもそも何故こんな声が聴こえてくるんだ。今更だけど訳がわからないよ。私は一体、何を背負って生まれてきてしまったんだ。
だいたいね、本当の私は、今の私は、決して勇敢なんかじゃない。凄く臆病なんだ。
迷惑になるんじゃないか。もし拒絶されたら? そう思うだけで立っているのも苦痛に感じるほど脆いんだ。頼もしい心の住人が何人居ようと根本が変わらなければ意味が無いんだ。この恐れに邪魔されて私は今の今まで言えなかった。
ユキさん、ユキさん……
胸の内で、祈るように愛しい響きを繰り返す。
こんなに好きなのに。
「…………っ……!」
か細く息を吐き出すと全身の力がすっと抜けてカナタはその場に崩れてしまう。このままではもっと粉々に。壊れそうな全身を辛うじて支えている両手に、ぱた、ぱた、と生温かい雫が落ちてくる。
自分でもわからない。永遠の別れって訳でもないのに、知っているはずなのに、何故こんなに胸が苦しいんだ。何故こんなに貴方でいっぱいになってしまうんだ。
もう我慢できないとカナタは鼻を啜り上げた。ずずぅ~っとみっともない音を存分に立てた後は力の限り、裏返った叫びに乗せて溢れる感情を響かせる。
「ユギざぁぁぁん! ゔわぁぁぁぁん!!」
「えっ、ちょっ!? 何、何? 呼んだ?」
『!!』
背後で、むくりと、起き上がる気配に息が止まった。
今更に思い出す。ここには仮眠用のソファがあったことを。
「カナタくん? なんで……」
その名を呼ばれてなお、四つん這いになったままのカナタは石膏で固められたみたいに動くことができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます