五. 茫然自失


 連日の雨もやがては頻度を減らし、伸びた陽の長さが次の季節を予感させる。六月もついに下旬。研究室の窓際の蜘蛛の巣はいっぱいに水滴を抱え、輝かせ、一足先に真夏の煌めきを謳歌しているかのようで目が眩む。


 豊かな黒髪をきゅっと結い直したカナタにも一層の気合が漲ってくる。晴天の空のような青の瞳がそこらじゅうの光を惜しみなく集めるのだ。



「もう随分顔色が良くなったわね、カナタくん」


「はい、ご心配をおかけしてすみませんでした!」



 過労で倒れた日から数日後、あえて触れてこないのだろうかとさえ思えた柏原姉妹の妹・ナナコさんがフランクな口調で声をかけてくれた。実際もう本調子と言っていい頃。もう心配かけまいとカナタは柔らかい微笑みと元気の良い声で返した。



「月末は特に忙しくなってくるからね、くれぐれも無理はしないように」


 珈琲を一口啜ったユキさんが横目で伺いながら釘を刺す。はい、と小さく返すカナタの頰はほんのりと朱に染まる。



 ユキさんが車通勤だと知ったときは厚かましく甘えてしまったことを申し訳なく思った。だけど途中まで同じ帰り道だしとか、ついでだからとか言いながら彼は度々私を乗せてくれるようになった。


 あれからそんな状況が続いていること……きっとみんなは知らない。秘密。約束した訳でもないのにそんな響きがしっくりくるような気がして胸の奥が甘く疼くのだ。何か進展したって訳でもないのに、何故か。



「よっし、頑張ろっと!」


 それは腑抜けてしまいような己を奮い立たせる目的だった。ぎゅっと腕を捲ったその瞬間。


『!!!』


 皆の視線が一気に集まり、凍り付いたのがわかった。



「あ」


 つられて自身に視線を落とすとそこには一面の勿忘草が咲き誇っている。肩から腕まで流れるつるに立派な羽根の模様。見慣れているはずのそれを目にしたカナタの表情も石化の音を立てて硬直する。


 華奢な身体に対して、主張の激しい刺青。うっかりしていたとしか言いようがない。こういうのを晒すのはもっと後になってから、もっとじっくりと予定していたのにって。



 かっ……



『カッコいいーーっっ!!』



 ……あれ?



 思いがけない反応にカナタは目を見張る。ぞろぞろ集まってくる皆の目はもう十分過ぎるほどランランと輝いていて呆気にとられた。


「すっげぇ、こりゃあもう芸術だな」


「カナタくんって本当ギャップある〜!」



「あ、ありがとうございます」


 賛否両論あるんじゃないかと考えてはいたものの、もはや自分の一部となっているものだから気に入ってもらえるとやっぱり嬉しい。実際のところはわからないけれどね。肯定派は抵抗なく近付いてきたほんの数人かも知れないけれど、それでも、こんな笑顔で見つめられたなら自分を認めてもらえたような気さえして、青の花々も腕の羽根も一層瑞々しく輝き出しそうだ。


 次から次へと騒ぎやら驚きやらを周囲に与えている私なのだが、不思議なことになんだかんだと許されているような気がする。きっとこの研究所、更に絞るならうちの部署には思考が柔軟で寛容な人たちが揃っているのだろう。



 そんな風にほんのり安らいでいたばかりだ。本当、そんな矢先にふと、なんの前触れもなくそれは届いた。



「そういや歓迎会がまだだったよな。そろそろ企画しようぜ! ユキさんの送別会と一緒に」




――え?



 突如、脳天から芯を引っこ抜かれたような感覚に陥ったカナタの視界がゆらりと傾ぐ。


「送別会って……」


「あれ? カナタくんはまだ聞いてないか。ユキさん、来月末には本部へ異動になるんだよ」


 ポリポリと頭を掻きながら説明してくれる先輩の顔さえもがもはや能面の如く、冷たく張り付いたものに見える。少しずつ少しずつ、理解へ持ち込もうと努めるのだが、その速度は自分が求める以上に遅い。



 本部。ここへ来る前の私が居た場所。ということは……海外だ。



「凄いよね! ユキさん、二十五歳で室長やってるだけでも立派なのに、今度は本部で更に昇進するチャンスがあるんだよ」


 ナナコさんの言葉にだって容易に頷ける、はずだ。確かに凄い、確かに立派だと。だけど今、私の胸の中を占めるのはそんな輝かしいものではないのだ、残念ながら。



「ユキ……さん?」



 力なく視線を送ると逃げるように逸らされたのがショックだった。逃げたままのユキさんが苦笑混じりに言った。



「大丈夫だよ。生物課は優しい人ばかりだしこんなに賑やかなんだから、僕一人くらい居なくなったって寂しくはないでしょう」



 そんなぁ、ユキさん!


 寂しいですよ〜!



 皆が笑いながら口々に言う中で、カナタ一人だけが言葉を失っていた。




 悔しいけれどもう認めるしかなかった。だって実際に皆は知っていたのだ。


 やっと名前で呼んでくれるようになったのに。あれだけ毎日帰路を共にしていたのに……どうして? どうして、私にだけは言ってくれなかったの。


 私が新人だから? 名残惜しむ程の絆さえまだ無いと? たった一ヶ月ちょっとの付き合いだからって? 貴方はその程度にしか考えていなかったということなのか?



 私の気持ちも知らないで。



 日没が過ぎ誰も居なくなった研究室内で、一人立ち尽くすカナタが拳を握る。言われてみれば入社当初より随分とすっきり片付いているユキさんのデスクを見つめていると、たまらぬ喪失感に飲み込まれていく。



 儚げな声色で放たれたあの一言を思い出した。



――僕一人居なくなったって寂しくはないでしょう――



 何が。何が寂しくない、だよ。思い出す度にこんなにも寂しく悲しく響くのに。それが貴方にとって紛れもない希望の一歩なら、何故あんな声をして言ったんだ。あんな……儚く消え入りそうな声。指先に触れて溶ける粉雪みたいだったよ。


「ユキさんの、馬鹿」


 冗談じゃない。冗談でもあんなこと言ってほしくなかった。




「……帰らなきゃ」


 いつまでもこうしていたって仕方がないと、ようやく切り替える気になったのはだいぶ後のことだった。会議に出ているユキさんを待っている気にはなれなくて、帰ったらうんと好きなものを食べようか、あるいは早々に眠ってしまおうか、などと考え始めていたときだ。



「まだいらっしゃったんですね、カナタさん」


「ナツコさん」



 大きなファイルを抱えて研究室に入ってきたのは柏原姉妹の姉の方。そういえばこの人と言葉を交わすのは結構久しぶりじゃないかとカナタは思い出す。


 一方で、今ナツコさんと視線を合わすのはちょっと……と躊躇ちゅうちょした。だってこの人は。


「ユキさんならまだ時間かかると思いますよ。一日くらい先に帰ったってあの人は怒りません」


「…………!」


「それとも何か伝えたいことがあるのですか?」


 こんなことを言って静かに微笑む。そう、この人は、おっとりしているようで実は大抵のことが見えているのだ。



「ユキさんの異動のこと、知らなかったんですね。あれからずっと元気が無さそうだから」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいんですよ。私もカナタさんにお話があって来たんです」


「私に?」



 突然の指名にぽかんと口を半開きにする頃、ファイルをデスクに置いたナツコさんがちょうど扉を閉ざす頃だった。そして不思議なことが起こった。


 改めて向かい合う姿勢になった彼女が、いつになく苦しそうな声を絞り出すのだ。



「このままユキさんが異動するのは良くないと思います。だってカナタさん、貴方の心が悲鳴を上げてる。ユキさんからも悲しい音が聞こえますよ」




――そうしていらっしゃる方が夏呼は苦しゅうございます――



――夏南汰様……――




 なんだ? 今、何か聴こえたような気がした。


「ナツコ、さん?」


 呆然と立ち尽くすカナタはただ目の前の彼女の名を呼び、今この瞬間が紛れもない“現在”であることを確かめるだけ。



「お二人にはちゃんとわかり合ってもらわないと困るんです! やっと……やっと出逢えたんですから、お願い。目を逸らさないで」



 意を決したように顔を上げたナツコさんの姿に、飛び散った雫の煌めきに、息を飲んだ。


 円らな形でありながら鋭く射抜くような視線に息を詰まらせた。普段はブラウンであるナツコさんの瞳は今、グリーンに近い青色に見える。そういえば今夜は満月。青白い月明かりを受けてのものなのか。



 何故私の為にそこまで……と問いかけるより先に、彼女の切なる願いが部屋中に反響する。



「怖がらないで、カナタさん!」



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



――色こそ変われどその瞳は――


――光を呼び寄せる力を未だ保っているよ――


 “夏呼ナツコ


――私はいつだって君に気付かされてきたんだ――



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