二. 合縁奇縁


 お馴染みの朝食に舌鼓を打っているうちに時が過ぎ、乗るべきバスさえ逃してしまった。困ったものだよ、今日は初出勤だと言うのに。


 こんな具合に早速やらかしている。やはりのんびり屋なのだと実感せざるを得ない私なのだが、どういう訳か時々妙に衝動的になるのだ。



 正体と思しきはあの夢の中の声……



――こっちの方が早いよ――


――そうだ、お前はそちらから行かねばならぬ――



 この身体とは別の声色を持った私の中の住人が何処ぞへと導くのだ。だけどそれもまた自分だと認識している。こんな話をすると大抵怖がられると知っているから、周囲にはほとんど打ち明けたことが無い。そもそも言葉で説明するのだって難しいのだ。



 目的地を見つけたカナタは門ではなく裏側へと回った。青々と茂った樹木が覗く高い格子の柵を見上げてまた込み上げる。迷いもなくそこに手足をかけてよじ登っていく。



――目指すんじゃよ、そこに彼がる……!――



――逃さぬうちに、さぁ早く!――



 そう、こんなふうに、何かに乗っ取られるような感覚を……





「うわっ!? ひゃぁぁぁっ!!」



「……っ! 危ない!!」






 言葉で説明する、なんて。












 思いっきり足を引っ掛けてバランスを崩したはずだった。もしや一貫の終わり。万事休す。そのまま頭から向こう側へ突っ込むかに思えた。



 しかし……



「大丈夫!? ねぇっ、君!」


 受け止められたのはやけに柔らかい感触だった。額にかかった髪を退けようとしているのか、外傷を確認しているのか……?


「全くなんだってこんなところを乗り越えようとしたんだ」


 そうぼやきながらも優しく触れてくるその手はやけに冷たく……懐かしい。



「ん……」



 やがてカナタは横向きの体勢から起き上がろうとした。誰かが助けてくれたことくらいはわかる。まずはその人に詫びねばと顔を上げた……



「ごめんなさ」



 瞬間。




 …………



 …………




「あ…………っ」



 慌てて顔を離し唇を押さえるも時すでに遅し。


 逆光になっていても僅かに確かめることが出来る。見下ろすその人の顔にもいっぱいの熱が満ちていると。



「あ、あ……、その……っ」


「ごごご、ごめん!! 悪かった、僕が近付き過ぎた。わざとじゃないんだ!」



 涙目で後退りするカナタへ対するその人が深々と頭を下げて詫びる。わざとじゃないことくらいわかっていると覆う手の奥で唇を噛み締めた。むしろ触れたのは私からではないかと。



(なんということだ。こんなのいたたまれない。恥ずかしい……!!)



 いいや、相手が優しかったから良かったものの、こんなのなんとかハラスメントに当たるとんでもない仕打ちなのではないかと。



 見下ろすその人の癖を帯びたセピアの髪がワルツのような心地よいリズムで宙に踊っている。薬品の匂いが染み付いた白衣。スマートな形をした眼鏡の奥で髪と同じ色をした瞳が未だ私を案じて泣き出しそうに潤み垂れ下がっているのだが、いや、元々こういう形なのか?


 芝生の地面にステンレス製の水筒が転がっているのが見える。その奥に小さな木製のベンチ。おそらくだが、ここで朝のコーヒーブレイクを楽しんでいたのではないだろうか。



「君……」


 白い手がこちらへ伸びると何故だかたまらなく怯えた。今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいのはずだった。しかし私の青い目はしかと捉えてしまったのだ。


「その栞」


 その人の足元に落ちている儚げな青色に。


「あ……あぁ、これ? 僕のだよ」


「……勿忘草」


「そう、だけど?」



――逢いたかった……逢いたかったよ――



――雪の君――



「ユキ」


「え?」



「いや、すみません、なんでも……あっ! 嘘、もうこんな時間!?」


「今なんて」



 今更ながらにあたふたを身を整えるカナタ。本当はこの時間がもっと続いていてほしいけれどそれは叶わない。


 だからこそとカナタは覚悟を決めた。クラッチバッグの中をまさぐり、残る最終手段を細い指先で絡め取って。



「ここで働いている人ですか? もし、貴方が宜しければですが、また会ってくれないでしょうか?」


「え、えっと……君は……?」



 眼鏡の奥で茶の瞳を震わせて戸惑っているその人に、サッと一枚の名刺を差し出して熱を帯びた顔に精一杯、苦し紛れの笑みを咲かせて見せる。




荻原おぎわらカナタです」




 ただ一言だけ告げて身を翻した。



 高くそびえ立つ目的地、私にとって新たな職場となる研究所の建物を目指す途中で、その人の声を背中に受けた。



「またすぐに出逢うよ!」



 “雪の君”と私の中の私が称した人。


 まだ名も知らないのに触れてしまった人。


 凄く冷たく、何故だか涙が零れそうな程……柔らかかった。勿忘草を携えた人。



 彼が口にした言葉の意味をこのときの私はまだ知らなかった。そう、何も知りはしなかった、それなのに。




――逃げた訳じゃないよ。嫌ったわけじゃない――


――だってずっと探していたのだから――


――信じてええのか? 再び私を紐解いてくれると――


――この花に触れてくれると――


――今度はもっと強く、強く……私を繋ぎ止めてくれるのだと――




 私の中の住人が絶えずやかましく騒ぎ続けていたのだ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 勝手にぶつかられ勝手に置いてけぼりにされた、白衣に眼鏡の彼が少々不憫なところ。カナタが立ち去った後の様子をちょっとだけ覗いてみましょう。


 おや、誰かもう一人歩いて来たようですね。同じ職場の仲間といったところでしょうか。



☆✴︎☆✴︎☆



「どうしたんだ、そんなところに突っ立って」


「あ……あぁ、実はさっきな、こう、上から」


「上から?」



「天使が降ってきたんだ(真顔)」



「そーかそーか、だいぶ疲れてるようだな。もう少し休んでいけ?」



☆✴︎☆✴︎☆



 おやおや、更に不憫なことに。



 カナタに続いて眼鏡の彼も、過去との関連性が見えてくるのでしょうか。



 ※ともかく柵の乗り越えは危険なので、良い子も悪い子も真似しないで下さいね!


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