五ノ章

一. 自由意志


 ……探そう。



 共に探そう。



 どんなに遠くとも恐れてはならぬ。



 逢いにいこう。凍り付いた真夏を飛び越えて、あの魂へ、私の片割れの光へ……



 この身体と魂に刻んだ勿忘草が導いてくれるよ。私は忘れてなどおらぬ。



 尊いただ一つの命。



 私の愛する……





 …………雪の君。









 こんな声が聞こえるようになったのは多分物心ついた頃から。一体何処からなのだろうと耳をすませてみてもはっきりしなかった。


 だけどやがて気付いていった。なんのことはない、これは私自身の中から響いているのだと知ったのが十六の頃。


 勿忘草。


 特に印象的だったこの花について調べてみると二つの言葉に辿り着いた。



 まず一つが、“真実の愛”


 現代ではこちらの方がポピュラーなのだそう。しかし私が心惹かれたのは……



「私を忘れないで」



 二番目に記されていた方だ。古き時代で定番だったのはこちらなのだという。



 窓際で陽の光を浴びるライムポトスとさざ波の音が安らかに響きそうな海の写真のタペストリーが私を緩やかに目覚めさせてくれる。


 徐々に現実を確かめる息遣い。そして勿忘草の花と共に、今や二十歳ハタチとなったカナタが身体を起こした。ふかふかのベッドの上でとろんと微睡む大きな瞳は晴れの空を映し出したような青色だ。



 胸から鎖骨、腕にまで続く青色の上を白く細長い指先が滑る。すっかり我が身の一部となった勿忘草の刺青タトゥーだ。彫り込んだ際の痛みを思い出しているのに何故かほんのりと笑みが浮かぶ。言葉で説明するのは難しいが、痛み以上に愛おしいといった感覚だ。



 とは言え、この中性的な顔立ちと細い身体には少々……いや、だいぶ釣り合いがとれていないことはわかっている。今までもそう、容姿と墨のギャップに表情を強張らせる者がほとんどであった。


 ましてやこれから向かうのは初めての場所、ゆえに関わる人たちも皆初対面だ。私の本当の姿など知ってもらうのはまだ先で良い。時間をかけてゆっくりとで良いのだと、パリッとした質感の真新しいシャツを羽織った。



 そういえば、とカナタは思い出す。ある日の夢の中にて、自分の中に潜む名も知らぬ住人がこんなことを言っていたな、と。



――何も身体に彫れ、とまでは言ってないのだがな……――


――そうか? わかりやすくてえーがの――



 カナタにとってこれは実に不思議な感覚だった。自分の中から聞こえる声、特に片方の言葉遣いには方言と思しきクセがあるのだが、これはカナタが生まれた地域のものではない。夢にだって経験が生きるはずだ。これが本当にただの夢ならば、一体どこで覚えたというのだろう。



 腰の更に下まで伸びる長い黒髪は後ろで束ね、タイトな女性物のパンツを穿いてサスペンダーをかける。あと数十分後に足を通すことになるのもマニッシュなデザインでこそあれど女性物の靴。



 私、カナタは男である。


 しかしサイズが少ないのだ。背は決して低くないものの痩せすぎている。食べても食べても、これがどういう訳か……


「うん……美味しい!」


 メイプルシロップをたっぷりとかけたパンケーキ一枚をゆっくりゆっくりと味わっていく。お供はミルクだ。いつか友人には子どものような朝食などと笑われたが、一日の始まりはやはり好きな味と共に迎えたい。


 二十歳ハタチというこの年齢の朝食と言ったら、多くはトーストとサラダとスクランブルエッグ、もしくはベーコン。それに珈琲と言ったところだろうか。


 なるほど、そう考えるとそもそも大して食べていないのか? しかし私にとってはこれが適量。ともかく普通に生活していても太らない体質なのだ、仕方がないと、カナタは今日も納得に至った。



 学生の頃こそコンプレックスであったが、留学の経験を経てあっさりと開き直った。海の向こうでは自由な装いに身を包んだ人たちを沢山目にした。無理して背伸びをするよりも、自分に合ったものを選んだほうが却って気が楽に思えた。


 それ以来、男性物女性物関係なく、自分の気に入ったサイズとデザインを選んでいる。性別の境がだいぶ薄れたと言われる近年、それほど人目を気にすることもあるまい。



 そうこうしている間に時は満ちた。


 いいや……


「あわわわ……っ!」


 とうに過ぎていた。



 私は常々のんびり屋だと言われている。時間の配分がどうも苦手らしく、こう食べたり眠ったりといった当たり前のことをしているだけであっという間に時間が過ぎてしまう。


 ひとたび物事に集中すればそれはそれで寝食を忘れてしまう。一日二十四時間、それでは足りない、もっと欲しいなどと、どうにもならないことを願っているくらいなのだ。



 五月の新緑が彩る並木道を駆け抜けてはみたものの……


「あぁ~、行っちゃったぁ」


 遥か高みにある停留所からちょうど航空バスが発車したばかり。出勤、通学の時間帯である為に、辺りを見渡せばそこかしこの屋上から車が宙へ出向いていく。


 残念ながら私にあの免許は無い。



――ならば。



「走るしかないよね!」



 実に原始的な手段だが、本当にもうこれしか無い。ICチップの搭載された腕時計を自動販売機にかざし水を手に入れると、気合いを入れ直して並木道の続きを目指した。




 草木の輝きと、香りと、風と。



 一身に纏って駆け抜ける感覚が無性に懐かしく思えて、途切れ途切れの浅い息遣いの中にほのかな笑みが生まれた。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 ほわっとふわっとマイペース。ちょっぴり抜けている「カナタ」ですが……



 何やらやる気はいっぱいの様子です。


 最も原始的な手段でいよいよ駆け出しました。目的の場所へは間に合うのか?



 そして彼の正体や如何に……?


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