15. 光


 再び目覚めたのは同日の夕暮れ時。


 ニードルフォックスの親子の無事も、負傷したナナの命に別状が無いことも、救護室のベッドの上で聞いた。私自身の擦り傷と打撲も一週間程度で癒えるだろうとのことだ。



 看病にやってきたヤナギは随分と腫れた瞼をしていた。罪悪感……どうしても拭い去れないが、ブランチが教えてくれたあれに気付かないままよりかはマシに思えた。



 ヤナギと一緒に夕食を終えたところで頭に包帯を巻いたナナが訪ねて来た。彼女は言った。


「ごめんなさい、私、本当にドンくさくて……もう新人じゃないのに迷惑かけてばかり……だけど」


 こんなわかりきったことと


「助かって良かったです、ナツメさん。生きててくれて本当に、良かった……っ!」


 こんな心震える言葉をくれるものだから、私もたまらず傷だらけの両手を広げたのだ。


「おいで、ナナ」


「ナツメ、さん」


 おずおずと近付いてくる彼女を引き寄せ招き入れると、傷に障らぬよう丁寧に気を遣って震える背中をさすってやった。今更な想いをぽつりぽつりと呟きながら。


「詫びるのは私の方だよ。部下の気持ちを考える余裕さえ失くしていたとは、実に情けない話だ」


「あ、あぁ、う……っ」


「君も無事で良かった。大丈夫、ちゃんと生きるよ。だからもう泣かな」


「うぅぅっ、ナツメさぁぁぁん!!」


言いかけたそばから泣き縋るナナ。肩を濡らすこれは涙か、いや、下手すると鼻水か。参ったな。しかしなんと温かいことか。



 苦笑を零しつつもナツメは安堵した。悲しませてしまったことに変わりはないけれど、これは喪失ゆえの嗚咽ではない。そうならなくて良かったと心から思えたからこそだ。




 全ての命は生まれ落ちた瞬間から終わりへ向かっている。ひっくり返された砂時計が流れを止める事は無い。


 ましてや枠を縮めた時間が再び伸びることはない。


 大人の約束はそう簡単に覆せない。


 もう戻れない。そして戻るつもりは無い。




 心の痛みも身体の傷も随分と癒えてきた一週間と数日後のある日の早朝、ナツメの姿はあの星幽神殿に在った。


 かつて何度となく足を運んだ厳かなる賜りの間……ではなく、町の景色が一望できる開けた庭園の片隅にて小さなベンチに腰を下ろした。その隣へ白い布を纏った小さな少女がちょこん続く。


 はたからみたら親子のようでも、交わされる会話はやはり。



「あわよくばくらいに思って来てみたのですが、本当に会ってくれるとは思いませんでしたよ、ワダツミ。あれからどうです?」


「うむ、最小限の霊力でゆっくりと日々を過ごすのも良いものじゃと思っておるよ。私にも休息の時間が必要だったようじゃ」


「……やはり。あれ程の大掛かりな申請を受け入れてくれたあなたも、それなりの代償を背負っていたのですね」


「なぁに。もとより私はてんに近い存在であるがゆえに、一日の大半を小さくなっていなければ霊力を制御することが出来ぬ。あの“せくしぃ”な姿にしばらく戻れぬのは惜しいところじゃがの~」



 言葉こそ年長者らしいものであるが、その声色はやけに舌足らずだ。無理もない。幼女版のワダツミは以前会ったときよりも更に幼くなっている。


 話を聞いてみると、新たな申請を為す為には相当な霊力を要するらしくその度に外見年齢を遡っているとのこと。そしてこの度、私の我儘によってまた幾らか遡ることとなった。


 霊力の制限の為に小さくなっているのではなく、また何年もの歳月を重ねなければあの麗しき乙女の姿にはなれない。これこそがワダツミの身に起こったなんとも申し訳ない代償なのだが……


「むしろこれくらいで済んで良かったと思っておる。ギリギリのところだったんじゃよ。あれ以上霊力を使ったら赤子に……いいや、下手をしたら遡りすぎて消滅してしまうからのう。これが私の精一杯じゃった」


 こんなことを言いながら密やかに笑う。十分だ。むしろそこまでして願いを聞き入れてくれたことに私は一生感謝をしていくのだろう。



 軽やかに騒ぐ木々の音色が心地良かった。


 流れ込む青くさい匂いが、確かな現在(いま)を知らしめてくれるかのよう。



 そしていくらか時が過ぎた頃に


「其方こそ後悔はしていないのか?」


 一つの問いが見上げてくる。探るような形をした二色の瞳に、もう偽らぬと決めたナツメがちょっぴり困り気味に微笑んで。



「実を言うと、少し」



「……! そう、か」



 あれほど心の読めないと思っていたワダツミの表情が確かに曇ったのを感知した。我ながら随分と慣れたものだ。


「無理もないのう。いくらあの男の魂を救えるのが其方だけだったとは言え、自らの命を半分も削られては……私もこれで協力したことになったのかどうか迷って……」


 あどけない顔をやや下向きにして沈んだ声を零しているワダツミよ、それはまだ早い。私はまだ全ての答えは告げていないよ。



「いいえ、そちらではありません」


「!」



「我が命を大切にしてこなかったこと……本当はずっと前からなんですよ。前世を思い出した神無月の夜から、ユキがもう触れられない存在になってしまったと知ったときから、私は自分の為に生きたことなんてただの一度も無かった」


 そう、愛しい君に再び辿り着くことこそが私の生きる意味そのものだった。


 自分の中に意味なんて一片たりとも見つけられなかった。



 だけど気付くことが出来たんだ。遅咲きもいいところだけれど確かに開いたのだ。


 知らないままでいるよりかはよほどいいよ。よほどいいではないか。




「今から考えていることがあるんです」


 遠くを見つめて微笑んで、ちょっぴり頰を染めたナツメが切り出した。ほぉ、と興味深げに見上げてくる気配を隣に感じる。この小さな恩人には一番に知ってほしいと思った。



「ユキがこの世界に生まれ変わったら、私はその生涯をずっと傍で見守りたい。姿形は無くとも想いを与え続けることをやめない。彼はいずれ前世を思い出すことになるからきっと苦しむときが来るんだろうけど……それでも必ず見届けると誓うよ」


「そうじゃな。魂になったって想いは届くものじゃ」


「そして彼が生涯を全うしたなら、私は彼と共にフィジカルへ向かう。ここからが私の作戦だ。片割れの魂であるとすぐに気付いてもらえるように……」



 そっと口元に手を添えて、声を潜めて耳打ちをした。少し遅れて見上げた二色の瞳が優しい光を纏って応えてくれる。



「来世の私の魂がちゃんと覚えていればいいのですが……」


「ナツメ、信じ続けることこそが願いを叶えるコツじゃよ」



 信じ続けること、それならば私はこの生涯を通して天へ祈ろう。


 不安な思いなどこの際捨ててしまおう。なぁに、なんたって次に生まれる世界は“あの花”の在る世界なのだからと希望を胸に立ち上がる。




 星幽神殿を後にして、ちょうど皆が目覚めるくらいの頃に戻ってきた。研究所の白い建物が見えてきたところで深く深く息を吸う。ここで今日も生きていく。尊い仲間たちの居るこの場所で、私は……



 私は“ナツメ”の生涯を全うする。


 今度こそ“生きたい”と心から思える、今日という日からまた始めよう。



 茂った森の道を抜けたなら、いつもより軽やかに感じる身体で太陽のもとへ飛び込んでいく。まばゆい天に漆黒の瞳をつぶりながらナツメは一人頷いた。


 いつだってそうしてきたではないかと。これからの歩みはもう、諦めなんかじゃないのだと。


 漲る胸の躍動は命ある限り……いいや、命尽きても続くのだと。



 草原の上でくるくる回ると、艶やかな黒髪が初夏の匂いを纏ってひらひらと踊る。煌めく世界も無邪気な自分も、知っているはずの全てが今までとは違うものに思えてくる。



――ナツメ……ナツメ……



 遠くから走ってくる小さな姿と愛おしい声に目を細めた。一つ試してみたいことがあった。


 相手は自分を写す鏡だと、いつか何処かで聞いた。それならば……


「おはよう、ヤナギ」


 私のこの顔を見た君は一体どんなふうに返してくれるのだろう。





 カナタの戸惑いを映し出して


――君は何もわかってないよ――


 時に牙を剥くほど翻弄されたユキ。




 ナツメの切なさを映し出して


――悪い子だね――


 そう言いながらも自分を罰し続けた冬樹さん。





 いつか迎えに行くよ。逢いに行くよ。


 そのときはまた私を映し出して。



 君の笑顔に出逢えるかどうかは私にかかっているのだと忘れずに生きていこう。だから……



「時間の長さではないと証明してみせるよ」



 そっと手を繋ぐと、見上げるヤナギの表情がこれ以上に無いというくらい眩しい、実に愛くるしい形を為した。それでいて何処か力強い。



 今、傍に在る命たちと共に、私は今日も歩み行く。そして必ず君に辿り着くと誓うよ。



 哀しみになど染まらない、私たちの真夏の雪に逢う為に。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 時間を巻き戻そうとは思わなかった。私はそちらを選ばなかった。



 君に“君”を生きてもらいたかった。


 そして私も“私”を見つけたい。



 未熟な魂同士だ。はぐれた片割れ同士、どちらにせよ独りでは生きていけまい。また何処かで落ち合おうではないか。



 忘れずにいよう、必ず出逢えると信じる心を。


 刻み込もう、永遠とわの想いよ、愛しさよ……




 あの色を胸に……





――今度こそ。



 君と一緒に未来を創るんだ。




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