番外/真夏の雪

其ノ陸~夏よ、陽だまりよ、再び(前編)~


 習慣というのは細胞の一つ一つを乗り越えて、生物学では計り知れない程の奥深くまで染み渡るものです。ゆえにこの私も一日たりと欠かしてはおりません。


 あの方の愛したハーブティー、心安らぐカモミールの香りをこの身に纏って過ごすひととき。


 あの方の愛したアンティークで飾られたこの屋敷の、この部屋の、この片隅。今となっては遠い夜、哀しく愛しく慰め合う私たちを青の月明かりが包み込んでくれた。幻想を詰め込んだ魔法の鏡みたいな窓際に佇むひとときを。


 潤いもたらす天の欠片たちの足音に耳をすませるひとときを……



 七月も下旬。本日はしとやかな雨が降り注いでおります。



 最後の一雫を飲み下して、カモミールの香りが遠のいた頃にふと見渡してみます。


 まだ直すべきところがある。崩れてしまう前に出来るだけ早く、出来るだけ元通りに。このような雨ではどうすることも出来ませんが、私の気持ちはもう何年と心から落ち着くことが出来ずにいます。



 いくらか状況をご説明しましょう。



 終戦から間もなく二年が経とうとしています。


 我が夫・秋瀬陽南汰は赤紙を手に遠い戦地へ赴いてそのまま帰ってくることはありませんでした。戦闘機に乗り込みお国の為に散ったとの知らせを受け取っただけ。私がいだいたのはもの言わぬ空気だけです。遺骨さえ迎え入れることは叶わなかった。


 そして耐え難い喪失感に打ちひしがれていたのも束の間、今度は娘の夏南呼ななこと引き離されることになってしまいました。


 秋瀬家は二人の息子を亡くしているのです。跡継ぎを必要とするのは無理もないこと……そうわかっていても、このときばかりは私も容易に引き下がることなど出来ず。



「夏南呼を引き取ると言うのなら、どうか私も同じ場所に置いて下さいませんか。私はただ娘の成長を見届けられれば良いのです。それ以外には何も欲しがりません。使用人としてで構いません。何でもしますから、どうか……!」



 ご主人様も奥様の前、泣きたい気持ちを必死に堪えて深々と頭を下げました。全身全霊の懇願を続けておりました。しかし。



――お黙りなさい!!



 悲鳴にも似た叫びに遮られたのです。それまでずっとおしとやかに佇んでおられた奥様の方からでございました。


 呆然と立ち尽くす私の前で御二方のやりとりが哀しく響きました。


「何処の馬の骨とも知れないあなたに大事な跡取りを任せておけるはずがないでしょう」


「よしなさい。お前、言い過ぎだ」


「この女は……っ、夏南汰と陽南汰を誘惑した泥棒猫なのよ! あの子たちの人生はこの厚かましい小娘が狂わせたの。そうに違いないわ! ねぇ、あなた!!」


「夏南汰は事故、陽南汰はお国の為じゃ! 彼女のせいではない。お前もそんぐらいわかっとるじゃろうが!!」



 嗚呼、どうかおやめ下さいませ。私を罵るのなら幾らでも。ですがどうかこの願いだけは……


 苦痛に耐え忍びながら馳せる思いはやがて儚く砕け散りました。



「すまないね、夏呼さん。妻も相当参っているのだよ。ああして立っているのもやっとと言うくらい」


 こんな殺伐とした状況でも紳士の振る舞いを崩さなかったご主人のお言葉も


「横浜の屋敷は君に任せよう。生活には一切困らせない。それで手を打ってくれないだろうか」


 結局、意味するところは同じだったのですから。



 そうして私は横浜の地に留まり、娘は本家へ引き取られていきました。


 抜け殻のようになった身体と心で、止められない川の流れのような日々を送っていた数年後、突如訪れた大空襲で街が激しく焼かれました。


 続いて夏南汰様の生まれである広島が一瞬の閃光の後に、砕けて、溶けて、焼け野原と化しました。あちらに住む秋瀬家の親族は帰らぬ人となってしまった。


 娘は疎開で難を逃れました。


 私は本当に奇跡的にでございます。異国の血を引いていると一目でわかる容姿でありながらも、人々の過剰な疑心暗鬼から逃れることが出来たのは、親切なご主人様、それから夏南汰様と所縁のある町人たちの計らいゆえ。傷付きながらもなんとか原型を留めたこの屋敷にて、囲われ守られてきたのでございます。



 終戦の直後には奥様が結核で亡くなられています。心の支えであった愛くるしい人形たちに囲まれた自室にて、最期まで美しく寂しい少女のままでいらっしゃいました。


 葬儀を執り行う関係でしばらく生活の援助が十分にできないとご主人様は申し訳なさそうにおっしゃいましたが、もとより贅沢をする気など無かった私は、コツコツ貯めてきた貯金を屋敷の修繕費に充てさせて頂きました。


 今でも少しずつ、少しずつ、直していっております。本日のような天候以外の日は、業者の方々が出入りしております。


 愛しき二人の殿方と、命より大切な我が娘。全てに於いて手の届かない無力な私は一刻も早く取り戻したいのです。


 だって……



 “夏呼”



 いつか頂いたこの名前には、暖かな季節の光を呼び寄せ招くという意味が込められております。夏。それは私にとっても大切な響きであったはずなのに。



 夏南汰様の死、それを追った春日様の死。


 夫が旅立った日、町が焼かれた日。


 争いが終わりを迎えた日。



 そして今日は特別な日ですよ。七月二十五日。夏南汰様、貴方ならおわかりになるはずです。


 陽南汰様、貴方もおわかりになるでしょう? あの子は今日で十六歳になります。心ばかりの祝いの品とトルコキキョウの花束を贈っておきました。



 それなのに……もう染まりすぎてしまったのでしょうか。悲痛の色に。


 何年と重ねるごとに、皮肉なことに、愛する季節が哀しみを深めていくのでございますよ。ねぇ、どうすれば良いのでしょう。私の愛しき人々よ。



 ふっと瞼を伏せてみます。もう無防備に泣きじゃくることも許されない、もう十分に大人な私ですから、涙は密やかに胸の内だけに留めます。



 呼び鈴が鳴りました。どなたでしょうか。



 滲む目尻を軽くこすって窓際を離れました。ティーカップをテーブルに置いて玄関まで足早に迎えに行く、このときの私は予想だにしていなかったのです。



 まさか迎えられるのが自分の方だなんて。





 …………っ。




 白いトルコキキョウが飾られた麦藁帽子から波打ち流れる長い髪。水色のワンピースが豊かな漆黒を際立たせている。


 くりっと見上げる上目遣いはちょっぴり悪戯いたずらな形をした青色です。桜の花弁のように小ぶりな唇が緩やかな弧を描(えが)いて。



 今ありありと、目の前に存在している。



 貴方の色と私の色。


 貴方の形と私の形。




「な、な……」




「お母様!」




 ぱあっと花開く真夏の笑顔。真夏に生まれた私の宝物を雨上がりの陽射しが一層眩く映し出してくれる。



 美しく成長した娘は迷う様子の一つもなく私の胸に飛び込んできました。なんて無邪気な。これは父親譲りとしか思えません。


「変わってないわ。相変わらず綺麗だわ、お母様。私のお母様!」



 溢れてくる熱い涙と共に、満ちてくる実感が細胞一つ一つを乗り越えて深みまで染み渡ります。



 哀しみばかりではない。私の夏は……


 こんなにも暖かく、希望に満ちた季節を思い出させてくれる。こんなことが出来るのは……




「ああ、夏南呼……!!」




 貴方を受け継いでいるこの子だからこそと、思えてなりません。

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