14. 涙


 どんなに覚悟を決めていたって苦痛の呻きを抑えることは出来ない。首がもげなかったことが奇跡と思えるくらいの鋭い爪の一撃がナツメの身体を高くまで舞い上がらせる。


 若草色した木の葉の乱舞に反対色の粒が混じって際立つ。目の覚めるような赤色。これが己の身体の何処から散ったものなのかもわからない。


 何度となく、容赦もなく、切り裂かれる感触があった。痛みを通り越した痺れがあった。確信が……あった。


 どう考えたって私一人の力ではどうにも出来ぬ。ならばいっそひと思いに、などと。



 ガサガサ騒ぐ木々の隙間を縫ってひらりひらりと舞い落ちる、儚い木の葉にでもなった気分のまま、虚ろな意識のまま、眼下で唸りを上げる狂気の野生へ向けて願っていた。



 十分に毒が行き渡ったであろうその角でひと突き。遠慮はするな。いや、しないでくれ。


 お願いだ、もう終わりにしてくれ。



 伝い落ちたは涙か血液か。ともかくもう懇願の域であった。



 ドサリと地に落ちたナツメの虚ろな視界へやがて入ってくる。弱々しく上下する胸へ垂直に差し向けられた角……ああ、これでやっと。



 終わる。



 状況に似つかわしくない微笑みさえ浮かんできた。木漏れ日の更に向こうへ手を伸ばした。



――ユキ……


 呟いた。



「いきたい、よ……」



 ヤナギに全てを悟られたあの朧月の夜にも同じ響きを口にした。しかし願いはこっちだったのかも知れぬと今更に知る。


 はっきりと口を突いて出た今になって、やっと。







「もう……逝きたいよ……!」






 雪之丞。



 冬樹さん。




 君のところへ……






 解放を願って瞳を閉ざした。



 目尻から流れる温かな雫、これこそが今世私の感じる最後のぬくもりになるだろうと思った。



 それなのに……





 貫かれる衝撃の代わりにしかと感じたのはのしかかる重み。そして、上体を引っ張り上げる逞しさ。



「この、馬鹿……ッ」



 包み込む大きさと筋肉の硬さ。カナタの頃は感じることも無かった、だけど今ではちゃんと知っているこの温かさ。


 身近であるがゆえによく知っている、男らしい匂いに息を飲む。



 かつての兄、今の部下……いいや、それ以上に私を支えてくれる尊い存在が、彼がまた、またしても、私の為に……


 唸る焦燥が喉の奥から突き上げて、私にその名を叫ばせる。



「ブランチ!? ブランチ……ッ!! ああ、なんてことを……背中は? 傷は? 早く処置しなければ毒が……!」


 半狂乱になりかけていたところへ苦笑混じりの低い声色が答えた、落ち着けと。


「大丈夫だ、刺されてねぇよ。たった今、鎮静剤で眠らせたところだ」



 琥珀色の確かな眼差しを捉えたナツメの息が、身体の力が、抜けていく。



 続いてはらはらと零れ落ちる。止められない想いが止まない雨のように熱くなった頰を伝い、戦慄わななく唇から安堵と切なさが混じって滴り落ちる。



「……っ、これ以上の犠牲なんて、もう……沢山だよ。見たくないんだ。誰も傷付けたくない、失いたくない。私からもう、何も、奪わないで……っ」


 順序も何もかも滅茶苦茶になって零していた。嫌だ、嫌だよと、泣きじゃくる子どもみたいに続けていた途中、力なく垂れていた手首を強く握られて目を見張った。


 震え上がりそうな程の獣じみた眼光で。真正面から向き合った彼が言う。



「その言葉、そっくりお前に返してやる」


「ブランチ……」


「だから言ったじゃねぇか。お前とあの男は滅ぼし合う仲だって……散々止めても、訴えても、おめぇは……いつだって聞きやしねぇんだ」



「すま、な、い」



――――っ。



 細い声で詫びるなり、再び力強く抱き締められた。傷付いた全身に伝わってくるのは内と外から激しく揺さぶるような振動だ。


――なぁ、ナツメ。


 命を半分まで縮めてなお、確かに脈打つ血潮を実感させてくれる。遠い過去から現在まで続く混じり気の無い真っ直ぐな想いが奥深くまで流れ込む。



「いや、やっぱりいいんだ。お前の人生だ。お前が決めていい。どんだけ傷付いたってアイツとの運命を諦める気はねぇんだろ? 本当は俺がとやかく言えることじゃねぇってわかってんだ」


 だけどな、と続けてくる。その太い声色が次第に苦しそうに詰まってくる。


「なぁ、これだけは言わせろ。投げやりな生き方だけは……するな」


 漆黒の瞳を大きく見開く頃、見下ろす琥珀の瞳はもういっぱいの潤いで満ちていた。



「俺が何故ここまでお前を守ろうとするか……まぁ、わからねぇだろうな。俺だってよくわからねぇ。だけどこれだけは言えるんだ」


「ブランチ……」



「わしゃあ、夏南汰と生きたかったんじゃ。ほんまはもっともっと愛してやりたかったのに、いくらも与えてやれんかった。儂ん中のおめぇはいつも寂しそうな顔をしとったけんのう、今度こそ、今度こそはと……おめぇの笑顔をあの短い生涯のその倍は取り戻してぇと、儂が取り戻すんじゃと……」


「ヒナ、兄」



 そうしてナツメは今更に知るのだ。いつだって力強く守ってくれた彼もそんなに強くはないのだと。それが当たり前なのだと。


 どんな形だってそうだ。恋仲ばかりではない。愛する者が居る限り、人は涙を手放すことは出来ない。



 反してうんと強くなる。



 愛する者の何かが脅かされたそのときに。



 うんと逞しくなる。そして全身全霊で願うのだ。全身で愛を伝える彼のように。



「いつかお前が居なくなっても、思い出せるお前の顔が……俺の中のお前が、笑顔であってほしいんだよ」


 放つ言霊の威力を知らしめてくれる。


「一緒に生きられて良かった……って、俺らに思わせてくれよ、ナツメ……!!」



――嗚呼。



 揺れる木々の隙間から降り注ぐ。新緑の香りと涼風と、陽だまりの息吹を全身に受けたナツメはようやく己の過ちを確かめる。



「はき違えるところだった」


「ん……なんだ?」



「はき違えるところだったよ、ブランチ。ヒナ兄。私は……私は、残る命の使い方を……自分ではわかってるつもりでいたけれど……」


「ああ、そうだな。安心しろ、お前は何もわかってねぇ。間違いだらけだ。生きる意味も守られる理由も、まだ十分すぎる程に残ってる」



 ぎゅっと折れそうなくらい、更に強く抱きすくめたブランチが、一つの締め括りを絞り出す。



「……守らせろ。おめぇ、こうして生きてんだから」



 森林の香りの染み込んだ大きな寝床のようなその人の胸で、安らかな息を吐いたナツメが瞳を閉じる。小さく肩を上下させて漆黒の髪を好きに撫でさせているその姿はさながら小さな黒猫のよう。



 これだけ無防備になってなお、傷だらけの身体を抱えてなお、見守り続けてくれた優しき魂は深く深くへ語りかけてくれる。



「なぁ、おめぇも大したもんじゃ。前世でみことを守り、今世でもナナを守ろうとした。偉かったな。おめぇは儂の誇りじゃ」


「うん……」



「だが、次はもっと頭使えよ? カナタの分まで頑張ってここまで賢くなったんだから使わなきゃもったいねぇだろ」



「うん……ありが、と……」



 ブランチ。


 ヒナ、兄。



「最後まで愛し続けてやるから」



――私もだ。



 微笑んで返したつもりだったけれど、果たして形になっていたかどうかはわからない。



 逞しい胸板に添えていた手がぱたりと地に落ちた。そっと意識を手放したのは己を縛り付ける己自身の呪縛から解放されたからだろう。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 これでもうわかっただろ?


 おめぇがどんなに隠そうとしたって俺には見えちまうんだ。



 当然じゃ。儂はずっと、ずっと……心の中におめぇを留めてきたけぇの。


 おめぇがこれからどんな道を辿るのかも知っとる。



 また繰り返すのかと思うと怖くてたまらんかった。だけど今、わかった気がするんじゃ。



 そのときが、来たら



 なぁに、またこうしてな。ほんまは寂しがり屋なおめぇを受け止めてやるだけじゃ。



 今と何も変わりはしねぇ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 時に親身に、時に厳しく、如何なる形であっても心では変わらず寄り添い続けた優しき魂。


 ブランチとヒナ兄の声をちょっぴりお届けさせて頂きました。


 命に永遠が存在しないからこそ、想いはいつまでも瑞々しくありたいものです。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る