13. 勇敢


 幸いなことに本日も温かな陽射しがサンサンと降り注ぐ晴れの日であった。ちょっぴり湿度が高く感じるのも去り際の梅雨のご愛嬌程度に考えておいて良いだろう。


 数人ずつを乗せた保護班の小型機が、研究所から約50㎞程先にある目的地を目指して次々に飛び立っていく。高所を怖がる者も居るのではないかと推測していたが、どうやらその心配は不要だったらしい。


 機体はやがて森の中央で開けた湖のほとりにて降り立った。



 あぁ~、楽しかった!


 あっという間に着いちゃったよ。さすがジェット機は早いねぇ!



 研究用の機材を抱えて降りてくる新人たちは童心に返ったような笑顔と談笑に花を咲かせている。


 木漏れ日が欠片となって水面へ降り注ぐと、紫陽花あじさいの取り囲む湖が一層幻想的に光りだす。あっという間に魅了されてため息を零す者の姿があったり……


「皆さ~ん、こっちですよ~! 集合してくださぁぁ~い!」


 ドンくさいことで有名な後輩のナナも、手を大きく振ってその場でぴょんぴょんと跳ねている。そこまでしなくても良いだろうに、とナツメは思わず含み笑いをした。



 午前は地質調査の為のサンプルを採取して、次にかつて野生に還した稀少生物たちの住処を観察して回る。昼どきとなったところで近場の川原へ場所を移して弁当を食し、午後はまたジェット機で隣の地区の森まで移動する。


 始まったばかりとは言え、今からでもわかる。計画はおおむね順調!



「獰猛な生物と遭遇した例が報告されていない区域とは言え、それはあくまでも今のところの話だ。気を抜かないようにしてほしい。我々が大自然の中へお邪魔させてもらっている立場だということを忘れるな。万が一のときの対策として、発射鎮静剤は必ず携帯するように!」


 程々の声量で呼びかけたなら、いよいよ野外研究のスタートだ。皆の連帯意識を高め、あわよくば良い思い出として持ち帰ってほしいところ。その為にも出来る限り安全な環境を整えなくてはと身が引き締まる。


 数々集まってくるサンプルは機内に設置したケースへと回収していった。今わかる限りの情報をデータ化する最中さなかでもナツメは度々周囲の状況へと目を光らせた。



 夢中になる時間というのは思いのほか早く過ぎていくもので……


「ナツメ、そろそろ昼どきだ。みんなも腹が減ってる頃だろう」


 ブランチの呼びかけでようやく我に返る。汗ばんだ額に貼り付いた髪を直したナツメは、ああ、と短く答えて素直に従う。


 まだまだのめり込んでいたいところだが、自分の持つ集中力が並みのものでないことくらいはもうわかっていた。皆を招集してホッと一息……



 しかしここでまた気が付くのだ。



「ナナは戻っていないのか?」



 正直、不穏な予感という程のものは無かった。いくらドンくさいとは言ったってナナは新人ではない。野外研究も初めてではない。発射鎮静剤も無線も携帯しているはず。


 それほど案ずることではなかろうと判断したナツメは、皆を湖周辺の一箇所に留まらせて、自らはナナを探しに森の深みへと歩を進めた。


 応答の無い無線機も気休めばかりに連れてきた。ナナの周りが見えなくなりやすい気質は少々自分と似ているから、おそらくは珍しい植物でも発見してサンプル採取に没頭しているのだろう。もしかしたら行き違いになるかも知れぬ。無駄足かも知れぬ。



 そんな推測がやがて無惨に打ち砕かれることになろうだなんて。



――ナナ、か?



 いくらか歩いたところに細い川が在った。


 光をちらつかせながら流れていく、その中に、うっすらと滲む赤色が見える。


 小さく泡立つ川縁かわべりに広がっている、見慣れた色の髪。


 青い顔色をして寝そべる一人の……



「ナナ……ッ!!」



 一目散に駆け寄ったナツメがぐったりとしたナナの身体を抱き起こす。焦燥の中で何度も何度も彼女へ呼びかける。



 やがて、んん……と弱々しく返ってきた唸り声にナツメは安堵のため息を零した。うっすらと目を開けたナナが腕の中から吐息のようにして話し出す。


「ナツメ、さん、ニードルフォックスの子どもが……居て……流されちゃうと思って、私……」


「ああ、助けようとして足を滑らせて頭を打ったんだな? 全く君という子は……」


 皆まで聞かなくてもわかる。正直、彼女のドンくささを見くびっていたかも知れぬと、思わず苦笑が零れたりした。


 更に損傷しているのは頭だ。笑い事ではない事態になる前に早急に助けを呼ばなければとナツメは無線を手をかけた。そのときだ。



「ナツメさん……っ、あっ、あそこ……!」


 ナナの震える指が示した先に目を止めて


「…………っ!!」


 息が止まった。



 茂った草むらの中に浮かんだのは鋭利な形の黄色い目。のっしのっしと地を踏みしめて向かってくるのは……



「えっと……君が助けようとした子狐の親、かな?」


「ナ、ナツメさん、ニードルフォックスって、確か、肉食……」


「ナナ、狐は皆肉食だ」



 ここで少し解説しよう。


 肉食云々という基本的な情報はさておき、このニードルフォックスというのは身体の構造から習性に至るまでかなり狼に近い種と言える。卓越した脚力と瞬発力。普段であれば遭遇したところでさほど心配も要らぬだろう。だかしかし。



 グルルル……ゥゥ……ッッ



「ひゃあああっっ!! お、怒ってるぅぅぅ!?」



 このように。なんらか逆鱗に触れた際には強力な殺気を漲らせて対象へと迫るのだ。ニードルフォックスのシンボルとも言える首回りから顔にかけて張り巡らされた鋭利なとげは体当たりされただけでもかなり危険。更にひときわ大きな額の角からは強力な毒性が現れる。こうなる原因はごくわずかに限られている。テリトリーを脅かす敵と判断された場合、もしくは……


「わ、私があの子どもに何かしたと思われて!?」


「その可能性が高いな。しかもあのニードルフォックスは身籠っているようだ。妊娠中は警戒心が一層高まって……」


「分析してる場合じゃないですよ、ナツメさんっ!! は、早く逃げ、逃げないと!」


「鎮静剤はどうしたんだ、ナナ」


「そ、それが……」


 はた、と見合わせたナナの瞳にいっぱいの涙が満ちてくる。これだけで予感は十分と言える。


「こ、転んだときに……っ、な、ななな、流されちゃいましたぁぁぁ!!」



 なんということだ。



 自分の今更のように身体へ手を這わせたナツメは更に絶望する。



 なんと……いうことだ。



――発射鎮静剤は必ず携帯するように!――



 と、あれほど偉そうに指示していた私自身が置き忘れてくるだなんて。


 なんということだ、なんという腑抜けなのだ。


 なんて救いようの無い馬鹿なのだ、私は……っ!!



 と、嘆きたい気持ちは山々だが、悔いていても仕方がないとナツメは己を奮い立たせる。怪我のせいなのか恐怖のせいなのか、一層青ざめていくナナの腕を引っ張り上げてじりじりと後ずさる。


 しかしこんなときに限ってなんと無情なことか。


 弱った心臓あたりが今にも悲鳴を上げそうに軋むのだ。整えようと努めていた息も途切れ途切れ。早く逃げようと白衣の裾を引っ張るナナの思いに応えてやることはどうやら……叶わないようだ。



 そういえば……


 ナツメはふと思い出す。



 我が部下にして若きツインレイ、柏原(仮)もこんな危機に直面したことがあったな、と。彼奴あやつ彼奴あやつの方法で切り抜けた。硬派と称される男に相応しい勇敢な振る舞いであった。だがしかし……



――ナナ。



 私は私で選ぶのだ。例え状況は似ていたってきっと同じにはなり得ない。


 私の意思で決めるのだ。



「立てる、ということは歩けるな? 君は今すぐ逃げろ。ここは私が」


「ナツメさん!?」



 覚悟はついに定まった。いや、むしろいつこうなってもいいと思っていたことをナツメは思い出す。


 護身の為の鎮静剤を所持していなかったのもそうだ。きっと……そうなのだ。


 周りは守りたいがもう自分を守る必要なんて無かった。そんな気はとうの昔に消え失せた。



――嫌じゃ、ユキ、ユキ……!――



 そう、やはりあの瞬間からなのだ。命を半分削ろうとも、希望の兆しが成り立とうとも、君の記憶がある限り、私の孤独が終わることは無いのだ。



「これ以上の犠牲など御免だ。君はなんとしてでも私が守る!」


「駄目っ、ナツメさん、待って! 待ってぇ……っ!!」



 唸りを上げるニードルフォックスへ自らの足で向かっていく。泣き縋るナナの声にナツメは背中から精一杯の想いを張り上げる。



「私の先は長くない!! 君さえ無事でいてくれたならもう思い残すことなど無いのだよ!」



 もう誰も傷付けさせない、失わせない、この手をすり抜けるなど許さない。



 茂みの向こうからおずおずと顔を覗かせた子狐の姿を捉えた。子も無事だったか……安堵の思いはナツメの表情を不敵な笑みへと導いた。


「そうだ、いい子だ。私だけを狙え」



 私は……


 私は、今。



 四肢を繰り出した勇ましき母狐の鋭利な角を見つめながら遥か天へと願いを込める。



 また誰かを泣かせてしまう。想いはいつも涙の代償であることを、それをどうすることも出来ない無力さを……許してくれまいかと。

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