12. 砂時計


 目覚めたならそこは、もう……


 遥か遠い時代から愛して止まなかった初夏のぬくもりと新緑の息吹で満ちている。


 カーテンの隙間からチラチラと粒になってこちらへ降り注ぐ早朝の光を……


 この胸に確かめられる君の小さな息遣いを……


 ああ、出来ることならもう少し、もう少しだけ、安らぎの時間が長く続いたなら……



 されど時は限られている。


「ヤナギ、朝だよ」


 運命は定まっている。他でもない私が決めたことなのだ。





 当初は無謀とも思えた申請をワダツミに持ちかけた、あの新月の宵から約九ヶ月。


 今こそが現在進行形。二十九歳となったナツメは今日も平和な朝を迎えることが出来た。まだ眠そうに身をよじっているヤナギの柔らかな髪を撫でた。ベッドの上で半身を起こし、見下ろす漆黒の瞳はじんわりと三日月型に滲んでくる。



 哀しく微笑みながら昨夜のことを思い出していた。



――ナツメ、どうして――


――私、ナツメと、一緒……に……っ――



 すまない。何度詫びたって足りないとわかっているが、本当にすまないことをしたな、ヤナギ。そして……夏呼。


 共に生きたいと、いつか生まれ変わってくる夏南呼むすめを迎えようと、あれほど切なる想いを受けたというのに、私はそちらを選ぶことは出来なかった。


 すでに受理された申請の内容を知ったヤナギは、もしかするとこれから毎晩でもこの部屋を訪れるかも知れない。そして私はきっとこれから毎朝を罰と共に迎えることになるのだろう。限られた時間であることを彼女に示す度に、彼女を起こす度に、込み上げる罪悪感に胸を深く抉られる。



 しかしそれくらいのことは仕方がない。無責任な私が唯一貫ける責任、それは痛みに耐えることなのだとナツメは己に言い聞かす。


 やがて寝ぼけ眼をこすりながらむくりと身体を起こしたヤナギを


「おはよう」


 優しい笑顔で包むことが出来るのは、置いていく者に決して劣らぬ残される者の深い痛みをよく知っているからこそなのだ。




 実を言うとこの日常生活を保つにあたっての協力者が居る。それは当研究所の専属医師だ。


「ナツメさん、今の薬は身体に合ってますか?」


「うむ、副作用を心配しているのか。めまいなら時々起こるが不眠の症状は現れていない」


「貴女は元々眠らない方でしょう。はぁ……無理は禁物ですよ。こんな状態なんですから」


「食欲にも問題ないぞ。そう案ずるでない、先生ドクターよ」


 そろそろ計測が済んだ頃かと横目で伺ったナツメは、慣れた手つきで自分の裸の胸から電極を外していく。叱責の代わりとばかりに呆れ気味のため息がそこへ返る。


 それでもやはり相手は先生ドクターだ。告げるべきことは欠かさない。


「早く生まれ変わってユキさんに逢いたいと思う気持ちはわかります。しかし大切なのは今。貴女を心配している人が沢山居ます。ナツメさん、一日でも長く、ですよ」


 黙々を着衣を整えていく過程、しかし聞いていない訳ではないのだ。そして……


「わかっているよ、先生ドクター。貴方のおっしゃることがもっともだということもな」


 ナツメはやはり涼しげな微笑みで返す。実際のところ、これくらいしか出来ないということもまたわかっていてのことだ。




 ナツメの身体に変化が現れたのは、申請が受理されて半年程経った頃だった。


 不整脈の症状が確認されたのだ。ナツメの母は生まれつきこれを持っていて歳を重ねる毎に失神する頻度が増えていった。そして入院生活を続けた末に心不全でこの世を去った。


 ナツメの場合、順調に生きたなら七十くらいの生涯だとワダツミは言っていた。本来発症するのはもっと先だったのかも知れない。



 そう考えると尚更だ。やはり今動かねばならないのだ。


 この調子でいけばきっと三十代半ば、いや、もしかすると前半で寝たきりになるかも知れないのだ。


 やるべきことをやり尽くさねば。決して悔いの残らぬよう……!



 全ての命に止められない流動の砂時計が在る。私の場合はその容量がだいぶ縮まってしまったということだ。


 だからこそ……



 心電図検査を終えたナツメの瞳に強い光が宿る。


 ふらつきと闘いながらも目指した先はいつもの研究室であった。ヤナギにもマドカにも知られてしまった。ということはきっとあの人も……そんな予感がするからこそ気丈に振る舞って見せると意気込んでさえいた。



 研究室のドアを開け放つとナツメは鼻息荒く皆の姿を見渡して。


「おはよう! 皆、準備は出来ているか? 今日は新人の研修も兼ねた森林調査へ向かう。生物保護班と合同で行う為、移動は小型機だ。体調の優れぬ者が居たら今のうちに言いなさい」


 わぁっと歓声にも似た声がそこかしこから沸くと、ナツメは満足げに口角を上げる。キラキラ輝く新人達の表情を見ると、もう自分の意志では止められぬという程に勢いづいてくる。


「小型機に乗れるのも貴重な機会だからな、万全の状態で臨もうではないか! ふふ、怖いという者は無理をするな? ちゃんと車の手配もしてあるぞ!」



 若人たちを引き連れていざ行かんと白衣を翻したところで気が付いた。



 止まった、気配。



 ぐっ、と一度喉を隆起させたナツメは振り返る。


「何をしている?」


 たった一人、遥か後方で静止しているその姿を見てやはりと思った。



 やはり、そうなのかと。



「ナツ……班長、その……お前……」



「行くぞ、ブランチ」



 やはり君はそんな顔をするのかと胸が詰まったからこそ、満面の笑みを見せ付けてやったのだ。

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