6. 五月雨



 興味深かった。私にはまだ知らないことが沢山ある。それ程までにこの世界は、無限の可能性を秘めた新芽で満ち溢れているのだ。


 今だって種は蒔かれている。開花のときに向かってもっともっと広く。その過程も咲き誇るさまも見てみたい。



 限りがあるなんて……忘れていたい。




 荻原と別れてからの放課後。いつもの道のりを辿ったナツメは、いつも以上に一心不乱に没頭していく。採取した微生物のサンプルが入ったガラスケースをいくつも出し入れしては顕微鏡にかじり付く。データ解析、疑問があればまた繰り返して顕微鏡へ。後方のドアが開く気配を薄々感じてはいても。



――秋瀬。



 覇気の無い声色が届いていても。覚えがあっても。



「ごめん、邪魔になっちゃうね。珈琲ここに置いとくから、僕は」


「え……」


「え?」



 意図せず手を止めてしまった。ほんの短い呟きだったけれど、本当にこれが私の喉元から沸いたというのか。


「え、どうしたの? 何、何?」


 遠慮がちな声に反して足早に寄ってくるその人の顔を見てあの苛立ちを感じた。何を嬉しそうにしている。



 作業は間もなく中断だ。パターンはもう身をもって知っている。こうなってしまったら、もう。



「ねぇ、秋瀬」


 並んで珈琲を啜る慣れた夕暮れには雨音が混じった。いつもと変わらないようで違った。脚は痛まないか、なんて問いかけも聞き飽きたもの。しかし私はこの日、また新しく知ったのだ。



「駄目なんだ、僕。どうしても気になって。もしかしたら君の気分を害してしまうかも知れない。それでも聞いていいかい?」


「内容によります」


「…………」


「磐座准教授。聞いてみないことには、何とも」



 やっと観念したのか。意気地なしを全身で示すかの如く背中を丸めたままの彼が、ようやっと切り出した。



「聞いてしまったんだ。噂なんだけどね。君は病気だったって。海外でずっと治療をしていて、だから凄く頭がいいにも関わらず世間一般の“当たり前”を知らない、って」


 ああ……


「そうなのかい? 秋瀬」



 何だか今までの全てに説明がついてしまった気がして、おのずと力が抜けていく。一つ訊き返してみるならば。


「だからそんなに過保護だったんですね」


 思えば簡単なことだった。いや、当たり前だった。


 この人は誰にだって優しいのだ。生徒から友達のように呼ばれても腹を立てることも落ち込むこともきっと無いのだ。だから、これでいいのだ。


「安心して下さい。そんな事実はありません」


「本当に?」


「至って健康です」



 きっとこれで笑ってくれる。ほら、すでに見える。いつものあの泣き顔みたいな……



 ずっ。



「先生?」



 本当に泣いているのか?



「良かった。こんなに頑張り屋な君がもし、もしも、再発の危険性なんかがあるんだとしたらって。気が気じゃなかったんだよ、僕は。安心していいんだね?」


「はい……」


「今、楽しいかい? 秋瀬。沢山研究できて」



「はい」



 まさかと思ったが本当だった。眼鏡を上げて袖で拭ってなお、まだ湿ったままのその人の顔は今まで見たどれよりも、柔らかく、優しく、見えて。



「脚は、痛くないかい?」


 何度聞けば気が済むんだ。


「そんなに心配なら診て下さい。あおじもだいぶ薄くなりました」


「あおじ? あぁ、痣?」



 どれ、と変に上ずった笑い混じりの声で身を屈めた彼のふんわりした髪を見下ろした。そんな私も導かれるように、屈んで。





――冬樹さん。








「秋瀬?」



「あ……」





 我に返ったのは涙目を丸く見開いたその人が間近から見上げたときだ。


「今……何を……」


 ほんの狭い一点のみで触れられた頭を押さえながら。




「――――っ!」



「秋瀬!」



 逃げる。それ以外の選択肢などあっただろうか。呼び止める声に応えるとしたら。


「ごめんなさい!!」


 これくらいしかない。



 待って、とか、危ないよ、とか。何度かこの背中に受けたと思う。それを遮るようにしてドアを閉ざした。後先なんて考えられなかった。荷物も研究資料も全てあちら側だけど居続けるだなんて、とても。



(私は今何をした? 何を、した!?)



 答えの見え透いている自問を何度もした。柔らかいのにぴりっとくる、季節違いの静電気を帯びているみたいなあの感触は確かに残っている。今も。



 だいぶ離れたところで息を整えた。降りしきる雨音が一層耳障りな吹き抜けの階段の踊り場。震える指先で唇を押さえているうちに、じんわりと目尻が湿った。


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