7. 稲妻



 五月の割には随分と冷え込んだ夜だった。遠く遠くで唸る音は虚ろな意識の中にまで届いて、荒れた海に翻弄される夢を私にもたらした。悪夢。それでいて哀しい、響き。


 私はこれを知っている。あの嵐の渦中であの青色を胸に抱き、君の名を呼んだ記憶は、今でも鮮烈に……焼き付いている。



 暗闇の中で震える瞼をゆっくりと開いていったナツメは、ブゥン、と続く単調な機械音、静寂の音に安堵した。見えなくともそこに慣れた天井が在るとわかって。


 肩を抱いていた。涙が滲んでいた。胎児の如く背中を丸めるその形状が、寝床を共にする者が居なくなってからの日々と同じであると気付いて懐かしささえ覚えていたとき。



「――――!」



 突如の眩さが部屋の隅々までを鮮明に映し出した。あの不快な地響きはいつ来るだろうか、いつ来るだろうか、と片耳を塞ぎつつもベッドの上から手を伸ばす。


 カーテンを開いた瞬間にまた見えてしまった。それは天からの戒めの如く、心地良い静寂を容赦なく切り裂いていく。



「――――っ!」



 稲妻。





 とんでもないことをしてしまった。何がって言うまでもない。あれ以外に無い。そしてあれ以上にとんでもないこともまた、無い。


 すっかり明るんだ気配を感じるアパートの一室でナツメはふらりと身体を起こす。虚ろな目つきのまま姿見の位置まで辿り着いてみれば、それはもう不健康的なクマがくっきりと。えらいことになったものだ。



 今日は所謂休日。学生たちのほとんどは休暇を満喫すべき日だ。映画を観るも良し、眠り尽くすも良し、成人ならば酒に酔いしれるも良し。あるいは愛しき者との逢瀬も……



 待て、何故その発想に至る? 私らしくもない。いや、それどころではない。


「実にけしからん」


 ゆゆしき事態以外の何ものでもない。そう結論付けたが最後、もはや居ても立っても居られなかった。ぱぁん、と音が立つくらい強く、両側から頰を叩いたナツメは、それをスイッチとするかのように手早い身支度に勤しんだ。



 歩を進める度に危うげな軋みを生む階段をくだり終えたところで、早朝の冷たい潮風が容赦もなく吹き付ける。後方へと流されていく漆黒に為す術はない。ロングのトレンチコートを翻し、うっすら黄ばんだ傷痕の残る脚をものともせず、しっかりと、愛用のパンプスを履いて行くべき方向へと踏み出した。



 何故、私は。



 海へ近付くと次第にはっきりしてくる波の音が自身の胸のざわめきのように聞こえた。そう、ときめきなんて可愛らしいものでは決してない、これは……もっといたたまれぬ気持ちだ。


 何をしているのだ、私は。意味もない駆け引きなんかに思考から労力に至るまでを費やして、今や本来の目的さえ見失いそうになっているとは何と情けないことか。




――冬樹さん。



 確かに己の中で起こった囁きがはっきり蘇ると心底嫌気がさした。いや、むしろ吐き気。わかってはいた。あのとき旅立った私と残った君、その後の長さは大きく異なったかも知れない。だとしても君が居るとしたらきっとあちらだ。そして未だに再会は果たされていない。


 この生涯ではもう無理なのかも知れないと覚悟も決め始めていた。それでも決して忘れはしまいと、いつか必ず……と、心に誓ったのだ。どうしたら辿り着けるのか。ほんの一抹でも光が見出せるかも知れない、その為の研究を私は惜しまなかったはずだ。



 “君がまた私を受け入れてくれると言うのなら、そのときは……”



 他でもない、己自身が彼方に遠のいてなお、この胸に居続けたのは君一人だった、はずだ。



 さざめきはやがて薄れていく。見下ろせば更に、何処までも自責の念がつのる気がして立ち止まる覚悟はできなかった。海岸通りを後にして、人通り、車通り、ありとあらゆる気配から遠く離れた木々の間へ進んでいった。


 林は次第に密度を増して森となる。いくつもの眩い筋が前方から、頭上から、闇を貫き折り重なる頃、視界はついに鮮やかに開けた。



 離れていたのはほんの一ヶ月程度だったけど、すでに懐かしくさえ感じる白い横長の建物を捉えるなり、身体はおのずと駆け出していた。玄関を過ぎるとやかましく響く足音。それが自身のものだとわかっていても、気に留める余裕も配慮もすでに抜け落ちてしまっていて。



 バンッ


「失礼する!」



 とっくに開けておいて失礼も何もない。だけど、そこにはちょうど求めていた姿がタイミング良くただ一人で居てくれている。藁をもすがる思いとはまさにこのことだった。



 ブランチ!



 横広の逞しい肩、高い背丈。膝下までの白衣を纏ってなお、長年鍛えて培われた見事な逆三角形を容易に想像させる身体の主は相変わらず肝が座っている。これだけやかましくしたって振り返りはしないのだから大したものだ……


 なんて、関心している場合ではなかった!


 我を取り戻したナツメは、未だろくに整わない息遣いのまま


「えらいことになった。私は……私は、どうすればいい?」


 戸惑いつつも問いかける。



「ナツメ、か。本題をすっ飛ばすとはお前らしくもねぇ。何かあったか?」


「あった」


「おぉ、まずそれを言え」



 気だるい声で促すこの男の名はブランチという。先程の通りだ。なかなか振り向きそうにないので先に解説するが、これがなかなかがらの悪そうな人相をしている。貫禄がある、というよりかは尖っていると称した方が相応しいかろう。


 年齢は二十五歳。決して年相応にも見えないこの男は私の“部下”にあたる。しかし。



「私は恋をしているらしい」



 今回ばかりは事情が違う。今まさに翻弄されている、これに関しては明らかに“先輩”と呼ぶに値するのだ。



 しばしの間の後、は? と訝しげに呟いたブランチは搔き上げる程の長さでもない金の髪をがっしりと前から掴んで振り向いた。琥珀の瞳は鋭く細まり、思考を凝らす際のお決まりの癖が眉間にくっきりと現れる。


「いいんじゃね? すれば」


 吐き捨てるように言うなり、早くも手元の試験管に視線を戻す。


「お前さ、過去の男を引きずり過ぎなんだよ。もういいじゃねぇか。今のお前は紛れもなく“お前”……違うか?」


 ついには嘲笑う高さが太い声色の中に滲み出す。ぎゅっ、と唇を噛み締めたナツメの視界は揺らいだ。



 そうだ。確かにその通りだ。だけどやはり。


「違う」


 そんな簡単なことではない。



「違うって何が?」


「…………」


「おい……ナツメ?」



 やっと何か察してくれたようだ。なのにまだわからないのか、ブランチ。君は知っているはずだろう。この一ヶ月間、私が何処で、何を、していたか。



 苛立つくらいの沈黙が続いた。それから何がキッカケだったのか、突如息を飲む音と共に見開かれた琥珀の双眼に、やっとか、と言いたくなった。



「まさか、お前っ!?」



 そうだ。そのまさかだ。返したつもりの言葉も実際は声にすらならなかった。恐らく瞳孔も声帯も、どうしようもないくらい震えきっていて。



「あっちの! 大学の! 准教授に! 私は……っ」


「禁断のフルコースじゃねぇか!」



「ブランチぃぃ!!」



 もはや立っていることもままならず、両膝へ顔面をめり込ませるようにしてしゃがみ込んだ。そう、まさにフルコース。彼の比喩は素晴らしく的を得ている。


 “どれが”でも“何処が”でもない。今、私が口にしたもの、その全てが“禁断”と言える……皮肉なんだ。

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