Chapter1

1. 春一番

 昼下がりは孤独半分、賑わい半分。ある程度の時間が経ち、すっかり慣れて麻痺した嗅覚ではろくに感じ取ることもできないが、本来この薄暗い部屋には薬品の匂いが立ち込めている。主にホルマリンとエタノールの。


 五感の一つが弱ればそれを補おうと他が冴えるもの。涙を行き渡らせるべく疲れ目を閉じて首だけで天井を仰げば、遠く遠くから、乙女たちのかすかなさえずりが静寂の空間に流れ込んで来るのがわかる。



 回復を待つ時間は更に回想までをも連れてきた。今朝、目にしたばかりの興味深い光景がまず一つ、ナツメの脳内に蘇る。



 通学途中、初めて通ってみた道のりでやたらと逞しい身体をした男たちが檸檬レモンのような形状の球を奪い合っていた。何事かと目を凝らしてみるとどうやら何かの競技のようだった。あれはなんという名称なのだろう。


 彼に聞いてみようか、という案をナツメは思い浮かべた。しかしそれもどうだろうかとすぐに考えを改める。


 あのような激しい競技とは縁も所縁ゆかりも無さそうな男が、なぁ……と。



 ここは神奈川県横浜市。国立南波ななみ大学のキャンパス内に位置する生物学部の研究室だ。


 ナツメこと秋瀬あきせナツメは、この大学に在籍する生徒の一人である。


 腰まで届く艶やかな黒髪、鋭い光を纏った同色の瞳、研究の際には必ず着用している銀縁の眼鏡。


 そしてタイトスカートから覗く白魚のような長い脚がなんとも艶めかしいのだが、当の本人は他者の目に自分がどのように映っているかなどさほど気にしたこともない。


 如何にもデキる女風の服装だって、あくまでもナツメの趣味嗜好にすぎないのだ。


 寝食を忘れて研究に没頭する程の危うい集中力の持ち主であることはすでに学内でも有名であろう。その努力に見合った才女であることもまた、知らぬ者は居ないだろうというくらい。



――そろそろ頃合いか。



 一言呟いたナツメは、手早く顕微鏡の片付けをして立ち上がる。


 手を洗い、消毒を済ませた後は眼鏡をケースに納める。片隅の鏡に向かって髪も整える。白衣の下にはアイロンのきいたシャツ。ここまでは実に抜かりがない。しかし……


 ふと足元に視線を落としてナツメはため息をついた。


 底の平らなバレエシューズ。爪先立ちに慣れた者にとってこれは些か歩きづらいのだが……と、不満は未だに消えない。


 すらりとした生脚を舐めるようにナツメの視線は上へと移動する。右側の膝、肌よりも更に白いところ動きは止まった。



(やむを得ない。これでは、な)



 包帯の下にはまだ多少の痛みがある。悔やんでみたって仕方がないと気を取り直したナツメは、身を翻してドアを開いた。


 高さなど無くたって私は、颯爽と前へ進んでみせる。


 そんな妙なプライドがナツメの身体を動かすのだ。



 長い廊下を越えて一足外に踏み出すと、たまらず目をつぶった。


 再びうっすらと瞼を開けていくと、灰色の雲の隙間から現れた陽射しが氷漬けのように冷たげな空を砕く瞬間だった。


 細かな光たちが舞い散る花弁と溶け合い、ピンクの破片となって降り注ぐ。そして突風に巻き上げられたが最後、呆気なく何処ぞへ去っていくのだ。



 春。それから春一番。


 初々しい四月。それは何処か懐かしく、束の間ばかりの儚い季節である。




 ナツメが属するところは生物学部であるが、今日は一つ約束を取り付けてあった。


 農学部の管理するビニールハウスの見学だ。研究の邪魔にならぬよう、昼休憩を早めに切り上げて向かうと事前に伝えておいた。


 生物と植物の間には深い関連性が存在する。ここまで足を伸ばさなければここへ来た意味がない。そもそも学部に括られること自体、ナツメは腑に落ちなかった。


 一方で、これ以上の無理はさすがに限界があると自覚していた。



 今年の三月、この街にやって来たばかりの頃。外の世界に出るなど到底不可能……といった不具合がナツメの身体にはあった。


 毎日毎日、自宅アパートで一人っきり、やりたいことを思い浮かべながら過ごした。長くもどかしい時間。だからこそ、まずは表に出られる身体になることが先決だったのだ。



 そうして今ここに居る訳だか、実際のところ、自らの足で踏み出してからまだ数日程しか経っていない。


 今、在籍可能な範囲内で、出来るだけのことをする!


 自身の中の決意を繰り返しつつ、ナツメは桜の木の下(もと)を後にした。



 農学部との約束の場所であるビニールハウスの中は、じっとり貼りつく湿度とむせ返りそうな程の花の香りが占めていた。


 懐かしい光景、懐かしい感覚にナツメは見開いた双眼を輝かせる。



(これ程の香り、湿度、温度! “肉体”で体感するなど何年……いや、何十年ぶりだろうか。待ち焦がれたぞ、貴重なこの瞬間を)



 ナツメはいつになく童心に返ったようだった。そんなときだ。



 ふと視界に入り込んだ青色が、瞬く間に意識の全てを絡め取った。


 決して大きくはない。色にしても佇まいにしても極めて慎ましやかである。しかし、それは咲き誇るあでやかな花々のどれよりも大きな存在感を持っていた。



「これ……は」



 おのずと指先で触れていた……私にとって、これは何よりも特別な花だ。

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