2. 青色



 一通りを回り終えたちょうどその頃に予鈴の響く音を聞いた。凛とした漆黒は始めの方向へゆらりと傾く。最後にもう一度、などと目論んでいたが、どうやらその時間はなさそうだ。


 ビニールハウスを後にしたナツメは何度となく押し寄せる衝動に抗いながらも引き返す。必要なものはこのガラスケースに入れた。目的は果たした。後は退屈な午後の講義を乗り切って細胞の採取に取りかかる。それだけ。今日はそれだけで良いのだと。



(深追いしてもキリがあるまい)


 どうせ時間は限られているのだから。多方面に手を伸ばせば却って効率が悪くなるというもの。余ったそのときに考えるのが妥当であると、これまでの経験やら失敗やらで痛いくらいに覚えている。


(しかし……)




 改めて席に着いてみてもやはり変わりはしない。やはり退屈。講義のあいだ中もナツメの脳内はひたすら稼働し続けた。辺りの皆のように取り込む動きとはまるで異なっていた。



 焼き付いた色は……青。


(やはりあれは)


 間違いなかろう。



 採取を許された範囲ではなかった。昼休憩中であったことが今更ながら悔やまれる。諦めきれないのは何も己の事情だけに留まらず、こうして離れてみると尚更必要性が拡大していくようで。


(改めて約束を取り付けたいところだ)


 そこまで欲が膨らんだとき。



「秋瀬! ここの解説を」



 遥か前方から呼びかける声で我に返った。全くいいところで水を差してくれる……むくれたい気持ちを抑えつつ立ち上がると、すぐさまひとしきりに視線を走らせた。


 聞いていなかったことはお見通しのようだ。それでいい、十分だ。ナツメはちらりと教授を見下ろす。その嫌味ったらしい視線が行ったり来たりする箇所は限られている。ならば。


「解説以前の問題がございます、教授」


 示されたところ、そしてそこに至る経緯を察するなど容易。



 両側から生徒たちが見上げる中央の階段を音もなく下ってから、怪訝に眉をひそめる教授の横をすり抜けるまであっという間のことだった。ふと思い出して


「貸して頂けます?」


 戸惑う手から指し棒を受け取ると“解説以前”に遡る。



「まずここの設問には語弊があるかと。解説と呼ぶに相応しきものは大きく分けて三通り。いえ、細分化すれば本来は更に限りないものです。もちろん間違いではありませんが、可能性がここまで限られるのはもったいない。このように……」



 どう見たってうわの空、そんな様子にしか見えなかった生徒に見せ場を持って行かれるのはさぞかし面白くないだろうね、教授。しかし、ね。



 どよめきが次第に広がっていく。解説まで辿り着くと盛大な拍手喝采で締め括られた。悪くない。いや、むしろ。



「如何でしょう? 教授」



「あ、き、せぇぇ……!」



 苦虫を噛み締めるかの如くしわを寄せていく。そんな顔したって無駄ですよ、教授。生意気と思うのは自由です。だけど私はこれがやめられない。



「いいぞ、秋瀬ーーっ!」


「またレクチャーしてくれよ。お前のすっげぇ面白ぇ!」



 今では賞賛よりも何よりも、春の花々のように染まって満ちてゆく、彼らの無限の輝きを眺めるのが好きなんだ。私はこんなときでもきっと笑ってなどいないのだろうが。




 今日はこの講義にて一日を終える。通常ならば。


 帰り支度を進める生徒の何人かがナツメに声をかけた。



「サークルで飲み会やるんだけどさ」


 とか。


「秋瀬さんもたまにはどうよ? 部員じゃなくても大歓迎だし!」


 とか。


 内容ときたら毎度こんな具合だ。懲りないというのかなんというのか。



「この後進めたい研究があるのでな。誘ってくれたことには、その……感謝する」


 返せる言葉などこれくらいしかないというのに。



 無理は禁物などと言っておきながら滑稽な話だが、こんなときやはり実感せずにはいられない。無理よりも無駄。後者の方がよほど精神衛生上良くない気がしてならない。諦めた皆の姿が消えた静寂の中に居る束の間が心地良かった。



 バサバサッ!



「ああっ!」



 そう、本当に束の間の話。




「……相変わらずそそっかしいですね」



 呆れた声色を隠しもせずに高みから見下ろすと、のそのそと地を這うように動いてからやっと顔を上げる。ろくに整えてもいないとわかる白髪の目立つ癖毛。斜めに傾いた縁なしの眼鏡。



磐座いわくら准教授」


「秋瀬、か」



 徐々に迫り来る泣き顔みたいな笑顔。いや、本当は、違う。



「脚は? 痣は少し良くなったかい?」



 何のことはない。顔を合わせる度に人の失態を持ち出してくるその人へ、ただ私から歩み寄っているだけなのだ。

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