愚者のイデオロギー

七島新希

愚者のイデオロギー

 恋情に狂う人間は愚かだ。馬鹿だ。

 永倉喜美枝(ながくらきみえ)は常々そう考えていた。

 特に恋慕う故に相手を殺してしまうとか心中するストーリーはショッキングだとか泣けるとか以前に喜美枝には滑稽にしか映らなかった。特定の誰かを手に入れるためだとか結ばれるためにそういったアクションを起こす人物達は冷笑するにしか値しなかった。

「恋だとか愛って一体なんなんだろうな? 特定の相手が他の誰にも変えられない特別な存在になるのだとありとあらゆる媒体で聞くし、あの世で結ばれようと一緒に死んだりするが、人間という種の繁栄が目的だとするならば、特定の誰かでなければならないなんてことはないはずだ」

「実際にその通りなんじゃないかな? 僕には特定の誰かに固執したくなる気持ちも、それに共感したり涙したりする人達のことも理解できないよ。別にそんな感情がなくたって異性であれば欲情できるし、おそらく種だって繁栄させられる。生産性を求めるならば男は特定の誰かよりも色々な女性と交わった方が良いし、女性の場合だって妊娠出産の制約はあれど、もっとも良い優性種となりうる男を見極めて行けば良いわけで、特定の誰かが最上種だったなんてことは限りなくゼロに近いだろうし、誰か一人に限定せずに複数の相手を吟味していった方が良い気がするからね」

 同じカウンター内のすぐ隣で文庫本に目を通していた遠野久志(とおのひさし)は喜美枝の方など見向きもせずに言葉だけ返してきた。常人より遥かに整った端正な顔は開かれた文庫本のページへ落とされたまま。喜美枝と目を合わせて話そうだとかそういった気配はない。

 ここは星都中学校の図書室。久志は喜美枝と同じ図書委員で、図書室のカウンター当番をしていた。

 教室と同程度の広さしかないこのこじんまりとした図書室にはあまり来訪者はなく、たまに来てもほんの数名ぐらいで、かつ現在は六限終了から一時間以上経過しているため、今この場にいるのは当番である喜美枝と久志のみだった。

「特定の誰かと付き合うという行為は一種の独占であり契約だと思わないか?」

 饒舌な返答は寄越すものの、決して文庫本から目を離そうとしない久志を見つめたまま喜美枝は更にそう問う。

「そういう一面もあると思うよ。付き合っている時に他の女の子と仲良くしていると、非難されたりするし、刺されそうになることもあるらしいし。基本的に特定の誰かと付き合っている時に他の子とも同時並行で恋愛関係を進めるのはNGだからね。でも性的なことをしても良い確証にもなるから誰かと付き合うのは嫌いじゃない。できる範囲に差はあれどね。そういうものだっていう認識に君は同意してくれるだろう?」

 ここで初めて久志は顔を上げた。今まで開かれたページにのみ注がれていた眼差しが喜美枝に向けられる。

「相変わらずえげつないことを言う男だな、遠野は」

「永倉さんも相変わらずだと思うよ。普通の女の子はそんなこと考えもしないし、仮に考えていたとしても言わないよ」

「普通の男はそんな辛辣な答えも返さないものだがな」

 そんな喜美枝の返しに久志は肩をすくめた。やれやれと、わずかに見下すようなそんな表情が彼の顔に浮かんだ。

  普段の久志はこんな表情はしない。明るく人好きのする笑みを常にその端正な顔に浮かべている。無愛想かつ時折冷淡な表情をするのは喜美枝の前だけだ。

 遠野久志は変わり者だ。喜美枝が今まで出会ってきた人間の中で一番異質な存在。

 彼は他人の気持ちが理解できない。他人の感情を察知し共有することができない。彼には共感性が欠如していた。

小学校時代、久志は時々とても残酷なことを言ったり酷いことをする奴だと噂されていた。当時学年で飼っていたうさぎが死んだ時は、代わりのうさぎをまた飼えば良いとそんなことを平然とのたまった。ただその時はクラスメイト達の反感を大いに買い、彼はしばらくの間孤立していた。同じ小学校だったがクラスが違った喜美枝ですら当時久志が避けられていたことは知っていた。

 遠野久志はそんな人間だった。

 しかし中学に入り彼は一変。人当たりが良く社交的でテストも常に上位をキープ。運動も人並み以上にでき、その整った容姿も相まって今や人気者だ。常人とズレた発言や態度は一切しなくなった。

 けれど喜美枝は知っている。

 彼は変わってなどいない。ただ取り繕うのことを学んだだけだ。本人の思考回路はあの頃のままだ。

「遠野は性的なことがしたくて私と今、付き合っているのか?」

「告白してきたのは永倉さんだろう? 僕はただそれを受け入れただけだよ」

 それは事実だった。二ヶ月前、今のように二人で図書室にてカウンター業務当番をしている時に、喜美枝は久志に告白した。

”遠野。私と付き合ってくれないか?”

 普通の人間と明らかに違う、異質な存在である久志。自分も変わり者であるという自覚のある喜美枝はそんな彼に興味があった。

”どこへ?”

 その時の彼はきょとんとした表情をその顔に浮かべおどけた。

”そういう意味ではない。私と恋愛関係になって欲しい”

”それは僕に好意を抱いているって捉えていいのかな?”

”そう捉えてもらって構わない”

”永倉さんが僕みたいな人間を好くなんて意外だな”

 久志は苦笑した。自嘲めいた、喜美枝に対して下手(したて)に出た、決して悪印象にはならない顔。

”お前は私に似ている。普通じゃない。異質な存在だ”

 喜美枝はそんな久志ににこりともせずにはっきりと言い放つ。

”……いいよ。付き合おう”

 そう告げた久志は常時浮かべていた人当たりの良い笑みを消した。後に残るは喜怒哀楽のない無表情。ただその顔は相変わらず整っていて、人形めいた綺麗さがあった。

 彼の素顔が見れた。

 その優越感に喜美枝の気持ちは高ぶった。

 以来、久志は喜美枝と二人きりの時は振る舞うのをやめた。最初のうちはそれでもそれなりに気を遣われたが、私の前で普通の人間を演じるのはやめろという旨の主張を続けたところ、彼は一切喜美枝に対して遠慮しなくなった。今みたいに、普通の人ならば眉をひそめるであろう話を平然とする。言う。冷淡さ、そして嘲りさえもその端正な顔に滲ませる。

 自分だけだ。

 自分だけがこの男の本質を理解している。そして今、久志と愛し合う権利は喜美枝にある。

この男が本性を見せるのは自分一人だけだ。

「そうか。単純に来る者拒まずというわけだ。私はお前と付き合いたい、お前は性欲を満たしたいという利害の一致でしかないというわけだ」

 喜美枝は唐突に久志の両肩を掴み顔を近づけ、そのままその形の良い唇に口づけた。久志は抵抗も、かといって喜美枝の行為に応えることもせず、されるがまま。

 久志がこの上なく利己的で独善的な思惑を持っていようとも、この男の身体を感じることができるのも自分一人だけだ。

 彼の歯並びの良い口内を感じると喜美枝はすぐに唇を離す。

 熱の残る自身の唇を軽く舐めながら至近距離で相手を見つめる。久志に動揺する素振りはなく、その整った顔は、目は、無感動に平常と変わらない面持ちで喜美枝のことをその視界に映していた。

「こういうことはお前の役得というわけだ。どうだ、気持ちいいか?」

 喜美枝は久志に問う。

「ここでこういうことをするのは短絡的だと思うよ。誰が見てるかわからない」

「大丈夫だ。今、ここにはお前と私しかいない。廊下にも誰かがいる様子はない。それよりもどうだ?」

 再度、喜美枝は問う。

「どうって、気持ちは良いよ。正直さ。別に特別な感情なんてなくたって、僕自身は高ぶる。女の子相手なら誰だって。感情の問題じゃなくて本能でさ。恋愛感情なんて呼ばれるものがなくたって、雌雄さえ揃えば良いんだよ。愛なんて、おそらくは。生殖行動には何の問題もない」

「つまり、お前がこういうことに対して感じるのは身体的生理現象であって、また拒まないのは性的快感を得られるからであって、別に私を好いているというわけではないということか」

「『好き』っていう言葉をどう定義するかによると思うけど、恋愛感情はないよ。それは永倉さんだけじゃなくて、今まで付き合ってきた誰に対しても僕は抱いたことがない」

「おまえは誰であっても構わないと。別に相手が私でなくても良いと。女であれば誰にされても感じる、興奮するということか?」

「ある程度の好みはあるけどね。そういう『愛し合う』って言われている行為をすれば必然的にね。お望みとあれば誰とでも、どこまでもできるよ。恋愛感情? そんなものありはしない。幻想だ」

 淡々と、しかしはっきりと久志はそう言い切った。

 彼の言葉には喜美枝も異論はない。運命の相手だとか愛せるのはただ一人だけだとかそのような甘ったるい考えなど毛頭ない。

 恋愛対象となるのは運命の相手だとかいう浮ついたものではなく、異性で生理的に無理なタイプではなく、かつ自分の好みであればなお良いという程度のものだ。

 しかし喜美枝は気になった。他の男には何の興味もなかったが、「遠野久志」という人間の全ては知りたかった。

 喜美枝は久志と一度だけしたことがある。愛し合ってみたことがある。

 喜美枝から誘った。共働きで夜遅くまで両親のいない家に来いと。そして自室のベッドで喜美枝は彼と一つになった。

 純粋に見たかった。

 久志がどんな風になるのか、その身体現象を。表情を。どんな感情を見せるのか。

 指が唇が、彼自身を喜美枝は全身で感じた。

 彼が興奮し果てる様は喜美枝に優越感をもたらした。

 知識はあったが、実際に身体を重ねたのは初めてだと久志は言っていた。喜美枝もそれは同じだった。

 中学二年。十四歳。

 経験があるのはまだごく少数のはずだ。しかし久志は容姿端麗で喜美枝と付き合う前にも何人か彼女がいた。すでに経験済みな可能性も考慮していたのだったが、そんなことはなかった。

 行為が終わった後の久志はどこまでも無感動だった。自分が吐き出した精を淡々と自身から拭き取ると丸めてゴミ箱へ捨てる。甘いピロートークの類いは一切なく、早々とベッドから降りると久志は脱ぎ捨てていた制服を着る。その動作は極めて機械的で、彼を射精に導いたのが彼自身であろうが喜美枝だろうが、他の誰であろうがきっと変わらないのだろう。

”そろそろ時間だから帰るよ。また明日、学校で”

無表情なまま真っ黒な学ランを第一ボタンを外した状態にまで着込んだ久志は、なぜかその瞬間だけ級友に挨拶するかのような爽やかな笑顔を喜美枝に見せると帰っていった。喜美枝は素っ裸のまま情事の残滓に火照り気怠い身体をなんとか起こし、そんな久志を見送るより他なかった。

「こういうこと、したくなるのはなんでだろうな? こういうことしたくなる相手が特別だというのはなんでだろうな?」

 久志の首に手を回し、唇を寄せながら喜美枝は問う。

「それは生物としての本能。二次性徴の結果。特別だというのはそれができる人間がその人の好みによってやや限定されるから。それと倫理的な問題。現代の家族形態からしてもそういう相手が複数いるっていうのは不都合が多いからだろう」

「相手を独占しようとするのは?」

 一度口づけ、久志の顔を至近距離で見つめながら喜美枝は更に問う。

「独占欲の充足。誰かを支配することでそれだけ自身が優性種だということを証明するため。要するに自己満足さ」

「お前が私を抱けたのは?」

 また彼の形の良い瑞々しい唇を塞ぎ、離し、問う。

「永倉さんが僕の好みからは外れてなかったからじゃないかな? きっとだからできた。偶然手近にいて誘ってくれたから。そういうことをする機会をくれたから。そして僕に性欲があったから。ただそれだけのことさ」

 繰り返しキスしているにも関わらず目の前の男は何の感慨も熱も感じさせず平坦な口調で返答を寄越す。

「この後、私の家に寄らないか?」

「それは抱いて欲しいっていうお誘いかな?」

「そうだと言ったら?」

「喜んでお受けするよ。僕は永倉さんと付き合っている。僕は永倉さんと性交することができた。僕はきっと永倉さんのことを愛しているはずだ。だからお望みとあれば何回だって受けるよ。永倉さんとしたいって思うよ」

 そう答える久志の端正な顔には何度も口づけているのに何の表情も浮かんでいなかった。ただただ淡々としていてその言葉とも裏腹に何の感情も込められていない。彼には何の感慨もないのである。

 久志は喜美枝に応えてくれる。こうして満たしてくれる。種を繁栄させるための性欲が全てならばそれで充足、完結するはずだ。

 たとえ久志に喜美枝に対する愛情はなく、肉人形に触れているようなものだとしても。

 恋愛感情なんてものがなくたって愛し合うという行為はできる。欲は満たせる。生物としての種の繁栄における本能として何ら問題はない。

 しかしどうしてだか胸が痛い。怪我をした時のような鋭い直接的な痛みではなく、鈍くじわりと重く広がるような感覚。

 苦しくはない。ただとても辛い。なぜかそう喜美枝は久志の温もりを身体で感じながら思った。











END.




























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