第16話 非調和と不可能
伊達が住む家は彼の収入に見合わない立派なものだ。
数年前に首都で発生した大地震を受けて建造された鉄筋コンクリートのアパートは、普通は金に余裕のあるものにしか住めない。
質の高い住宅こそが文化、住宅こそが生活において重要であるという考えは、庶民の間ではまだ浸透しはじめたばかりだ。
田舎というほどではないが都市でもないこの土地では、機能性を追求したため部屋はとても狭いとはいえ、十分高級といって差し支えなかろう。
安全は大枚をはたいてでも得たいもので、それは庶民よりよほど安定しているはずの金持ちの方が顕著である。
――といっても、この部屋だけは値が下がり続けるだろうな。
この一室はいわゆる事故物件というやつだ。
当時は怯えていたが、安値と都会への憧れから入居した。
幽霊などいないと証明すれば、逆に礼金を出すとまで言われたのもありがたかった。
せっかく建てた住宅に初っ端から悪い噂を残したくない気持ちはわかる。ただでさえ新しいものには根も葉もないうわさがしげりやすい。
前の住居人は、聞けば首つり自殺とのことだった。
――おれとは全然違う理由だけど。
少なくとも伊達のような奇異に見舞われたわけではあるまい。遺産を巡る親戚のいざこざに疲れ果て、という噂だったはずだ。
以前と比べると己が随分図太く、悪く言えば失礼になっているのを自覚する。
部屋に入れば、生活に必要最低限の家具以外は何もない。殺風景な風景が迎えてくれた。
風がないぶん過ごしやすいはずなのに、外より寒い気がする。
前は金持ちらしく寝台ベッドなるものがあったらしい。使い物にならず引き取られることもなく廃棄されたとか。勿体ない話だ。腐臭、または死臭とはそれほどおぞましいのか。
ふとんを出そうとしてやめる。
――また汚れるのもいやだろうしやめとこう。
むしろしっかりとしまい直して、適当にあぐらをかく。
現実逃避もそろそろ終わりだ。
鞄に手をつっこんで銃を取り出す。
こめかみに銃口をあてる。血管が波打つ。自分の鼻息がやけにはっきり聞こえるのが不快だ。
――本当に死ななきゃいけないのかな。
そんな今更な逃げ道を探す。すぐに却下した。
どちらに行くにしろ迷うなら、好きな人を信じた方がよい。
そうと決まればあとは楽だ。
伊達はできるか不安になることはあっても、ノーといったことはない。
「ああ、だったらこっちじゃないや」
余裕がでると後のことにも気がまわる。
何が何でも弾き続けて、彼女があんな悲しい顔で楽器を奏でない日を迎えるために生き残らなければならない。
だったら目立たない風貌であったほうがよかろう。
どこかで聞きかじった知識を真似して、心臓の上にまくらを乗せる。ここなら服を着れば瑕が見えない。
そして柔らかく優しい生地と綿に沈めるように凶器を押し付けた。
撃鉄を起こし、引き金にちからを込めた瞬間、浮かんだのは楽器の一音目を奏でるあの感覚だった。
○
朝日が髪をなでる。
いつまでもまどろみたくなる陽射しにうとうと目を覚ます。
まぶたをあければ、細い木の格子と漆喰の壁が目に入った。
ぼんやり移動すれば食事場と、その隣に位置する居間に足を踏み入れていた。
食事場にある囲炉裏では黒い炭がぱちぱちと音を立ててほの暗く赤い吐息を吹いていた。
故郷の家だった。
数年ぶりとはいえ懐かしい景色だ。間違えるわけがない。
そのなかに一か所、異様なものがある。
――ピアノだ。
黒い髪を後頭部でまとめた少女が楽しく鍵盤を叩いている。
音色は太い曲線となって透明な波紋を空間に打つ。
幾音も重ねて渦となった旋律のなかで、青い魚が丸い鱗を輝かす。
愉快に泳ぎ回る魚には輪郭と呼べる線はなく、しかし色をもって己の存在を強烈に主張する。
現実的な思い出と、空想的な夢の交わった空間のなかに、伊達の感覚は溺れそうになる。
「美術、音楽、文学は芸術の姉妹だ――といった人がいるのを知っているかな」
音の重なりは薄いヴェールの重なりのように、うっとりと人を包み込む。
描写でなく、決められた意味を持たず、ただ純粋なる「音」の連続に混じるのは、言葉だ。ルシィ、彼女の声だった。
「美術は変幻する視覚を再構築したものであり、文学は形なき心をかたどるものであり。そして音は何かを模倣するのでなく、抽象的な『音』そのものを内容にして、組み立てる。これらは全く異なるように見えて、人の感性から誕生するという点において共通している。思ったよりも近いのさ」
調和の元に礼節と共感をもって紡がれていた旋律が変わる。
不協和音と飛躍した音を使い、形のない感情そのものを抜き出す不穏な音楽。
故郷を映し出した光景はかき消え、光となってぼやけて影と光で面影を残す。
線と枠を失っても故郷だとわかるのが不思議だった。
「感覚――感覚だよ、きみ。五感は本来切り離せないし、離すものでもない。すべて繋がっている。人は風の匂いと音を知っている、吹き抜けるものとして線に描くこともできるだろう」
「ルシィ。君は、本当に感覚を音楽にしようとしているのか? 本当に? 何のために」
「できると思ったからさ。何故そこに可能性があるのに捨て置けるんだ? いってみたいだろう、自分の限界と最高の境地へ。演奏に恍惚として、葉の痛々しいほどの緑に流れる時を待つ身を切られたような心地になって、キスをしたりからだを重ねたり、内であろうが外であろうが感覚を味わうことこそが生き物として生まれた最高の快感だ、そう感じないのか」
だから、音楽なのだ。
形もなく、魂にじかに響くような、あの美だ。
原始的に感覚を直接刺激してふるわす快楽だ。
「すべてのものには音がある。芽生えたばかりに聴く母の胎動、絶望と歓喜の産声、生きるために流れる心臓の鼓動、水が凍りゆく経過、星がまわり風がふく重さのろさ、またたく光が灯って消える刹那――すべて、頭の中で音は生まれえる。感じとるものは響きあう。共鳴する。本来、感性にくびきと限界はないはずなんだ。ぼくたちの空想が続く限り!」
制限を失ったルシィの感覚、ルシィの音色は容易く伊達を抱え込んでどこかへ連れ去ってしまいそうな激しさだ。
言葉や文化という形を与えて制限された感覚を解放すれば、ここへたどり着くのかもしれない。
共有するには剥き出し過ぎて、翻弄されるばかりとなる。
「君がやろうとしているのは、他人に世界をぶつけるようなものだぞ」
この世に存在する世界はたったひとつだ。
しかしその世界をとらえる感覚は、個人のなかにしか存在しない。
それぞれの人間に、その人間だけの世界観があるのだ。
言葉や表現をもってその一部を伝えることはある。
伊達はその感性の伝達を感動と呼ぶ。互いの世界の一部が共鳴して心を動かすのだと。
ルシィがやろうとしているのは、一部ならずすべてをぶつけ、捧げる行為だ。
「人間にそれが耐えられるのか」
世界をまるまるひとつ投げつけられて、壊れずにいられるのか。
「それがなにかかまうべきことなのかな?」
素晴らしい音楽さえ成ったなら他はどうでもいい。
自身も燃やし尽くす情熱と音楽への愛に恐れをいだく。
同時にこの祝祭の音色を奏でる女性に、女神に対するような憧れと信奉をかかえつつあるのも事実だった。
首をふってベアトリーチェの横顔を懸命に思い出す。
エーリッヒの悲痛と恐怖に満ちた音色を思い出す。
――ああ、そうか、彼は寂しかったのだな。
かつて彼が立たされただろう審判の場にあって、ようやく理解する。
きっと彼はベアトリーチェほど心が強くなかった。
普通に友人と笑いあって酒を飲み、穏やかに音楽を愛し、家庭でも築いて笑って生き、死にたかっただろう男なのだ。
あのヴァイオリンを聴けば、正直、ベアトリーチェや自身をはるかに上回る才能の持ち主であったことも予想がつく。
もしかするとルシィに匹敵するかもしれない。
その才能が彼の音楽に対する愛情を深く育て過ぎて、結果的に生き残ってしまっただけなのではないか。
《オーリム》という宝石箱は美しい。切磋琢磨に一切の邪魔が入らない。
楽しくて、愉しくて。だがその在り方ゆえに狭すぎる。
寂しかったのだろう。
ベアトリーチェでなくても、誰でもいいからぬくもりが欲しかっただけなのだ。
彼には音楽以外のすべてを捨てる覚悟をしたわけではなかったから。
麻薬でもうろうとして、なりをひそめていた寂しさが顔をだしてしまったと思えば、あの態度にも納得がいく。
「やっぱりだめだ」
そちらにいこうとする足をとめる。
彼女を抱きしめてしがみつけば、さぞ素晴らしい新世界が待っているはずだ。
伊達が望む音楽は、違う。
「おれは音を楽しむ。響きあう楽しみのない音楽はいやだ。おれは、おれは、ひとりでだって弾き続ける」
一歩一歩、神経を引きちぎられる苦痛にさいなまれながら、ルシィから離れていく。
彼女の可愛らしい顔が驚愕に歪む。
褒美を手放すのを惜しむ気持ちを決意に変えて、孤独を恐れる感情を炎に変える。
――彼女だけじゃない。おれの音楽だって素晴らしいものなのだから、己の手で奏でなければ。
そうでなければ胸をはってベアトリーチェの前に立てない。
――狂っても醜くてもいい、おれはおれの音楽を!
二度と変わらないと思えるほど強く思った瞬間、夢が崩れる。
耳障りな虫の羽音が一層うるさく騒ぎ、ばちばちと崩れる音が聴こえた。
水のなかに黒い墨を流し込んだように染まっていく夢のなか、ルシィがこちらをずっと見ていた。
悔しそうな姿はなく、むしろ面白そうにたたずんでいる。
塗り潰されていく意識のなか、一念だけをよりどころにして、誘いを睨む。
――終わってなるものか。
変わらなければたてないのなら、それぐらいのことはやってやる。絶対ゆずらない一点さえ貫けたならそれでいい。
そう思う伊達は、もうとっくに変わっていたのかもしれない。
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