第15話 行先のある煉獄

 押し当てられた銃口は、しかし火を吹かない。


「ダンテ、あなたは今、煉獄にいるのよ」


 そのままベアトリーチェは銃の向きを変えて、その持ち手を握らせる。

 伊達にはベトリーチェが何をしたいのか、さっぱりわからなかった。


「なんのつもりなのかな」

「麻薬は人をダメにする。当然だわ。リロイはわかってやっている。だから必ず、使うのはルシィが気に入った後なの」


 銃を持ち上げる気にはならない。銃口が今度はベアトリーチェの下半身を向く。

 このなかに弾は込められているのだろうか。


「ルシィが気に入ることがそんなに大事?」


 わかっている。ルシィは天才だ。

 魅力だってある。いびつな美しさ。誘蛾灯の如き、暗いきらめき。

 

 ベアトリーチェは迷う。伏せられがちな青い瞳がうるんで揺れた。


「わたしたちにとってルシィが、彼女の音楽がどれほど魅力的か。わかるでしょう?」

「……ああ。苦しいぐらいに」

「ごめんなさい。うまく答えられないの。だから、ずっと言わなきゃって思っていたことをいうわ」

「言わなくてはいけなかったこと?」

「きいてちょうだい。真実とは思えないだろうことをいうわ、あなたはわたしの正気を疑うかもしれない。でもお願い、聞いて」


 渇いた唇を指先で触れられる。

 ベアトリーチェらしくない甘美なしぐさだ。

 伊達はそれを「媚」だと受け取った。

 あの誇り高く、優しく。聡明であろう彼女が。

 つまり、そこまでして伊達に伝えたいことがあるのだ。


「わかった」

「……随分あっさりね。いえ、わたしとしても、ありがたいけれど」

「きみの性格、ちょっとはわかっているつもりだからね。多分、おれの君に対する理解以上に、きみはおれを理解しているんじゃないか」

「わたしを過大評価し過ぎだわ」


 あきれてベアトリーチェは笑う。

 脱力してしかんした口元は、すぐに引き締まった。


「ルシィがいた村の信仰では、神に音楽で祈りを捧げていたという話はもう聞いている?」

「はあ、まあ。聞いたことはある。でも、それがなんだい?何故現実の話に宗教を持ってくるのかわからないよ」

「ええ、そうよね。わたしもなんていえばいいのか、すごく、すごく迷ったのだけれど……」


 慎重に吟味して、それでも決まりきらず、彼女は嘆息する。


「まず、ルシィの話をしましょう」

「ルシィ? リロイじゃあなくて?」

「どちらからでも同じことよ。わたしやあなたを追い詰めるのは、きっとリロイ。でも彼をそうさせたのはルシィ。わたしたちのリーダーはルシィよ、すべてあの子から始まるの」


 ひたむきに音楽を求める少女


「ルシィは神様を信じてない。でも、本当に素晴らしい音楽というものを諦めきれなかった。貧困な辺境。豊かな自然で感性をみがきあげられても、洗練された音楽の技術を学ぶことからは程遠い」


 ひたむきに音楽を求め、実に楽しそうにはしゃぐルシィの姿を想起する。

 以前ルシィ本人にも、ほんのわずか、苦労したことを聴かされた。

 

「あれ」


 そして首をかしげる。

 以前聞いたときは、伊達は憔悴し、意識も不明瞭だった。

 今は違う。だからか、強い違和感を覚えた。

 ルシィは瑞々しい少女だ。いっそ十代前半にも見えてしまいそうなほど、愛らしく可憐な少女。

 今までは年齢をものともしないほどの天才だから、リーダーなのだと思っていた。

 それほどの実力があった。訪れる音楽家たちにも、異様な若さはルシィが怪物的天才なのだというあかしだと認識させたことだろう。


 しかし、いかに大天才であろうと、辺境で生まれ、ここまでたどり着くことは、本当に可能なのだろうか?

 続くベアトリーチェの昔語りは、伊達の不吉を裏付ける。


「環境から、うちに眠る才能を開花させ、育てきる。どんな天才でも、お金を稼ぎ、準備を整え、腕をあげて。さらに満足いく最高のメンバーをそろえるとすれば、ありえないぐらいの幸運だっているでしょう。ルシィにはまるで時間が足りなかった」

「じゃあ、どうやってここまで? 海を越え、素晴らしいメンバーを集めて見せたんだ?」

「ありえないぐらいの理不尽に手を出したのよ。そうとしかいいようがない。リロイはそういった」


 伊達の知らない物語は、ひどく読み取りづらかった。

 銃が人肌の熱を蓄えてぬるくなっていくのを感じる。

 あのルシィのことだ――どうして人の命は止まってしまうだろうと、怒り狂い、嘆き悲しみ、叫んだはずだ。


「ありえないくらいの理不尽と、リロイがいったのか?」

「えぇ。ルシィがいうには、ある日黒い肌をした奇特な男がやってきて、心から音楽を求めた少女に応えてあげたそうよ。彼女の鳴き声が切実で、とても美しかったから。神様にお願いする方法を教えてくれたんだって、嬉しそうにいっていた。

 だから神様は信じていないけれど、祈ることはするんだって」


 音楽を手に入れた少女は、今度は楽器を欲しがった。

 文化を知り楽を味わい、音は深くなったが、かつて叫んだ歌声を思い出せない。

 神にも届く歌を奏でることを彼女は望んだ。


「最高の音楽、最高の音色。そのための最高の楽器、最高の弾き手」

「ルシィが求めているものだ」

「そう。そのために、神様のちからを借りるしかないのだ、と。もっともそれはルシィの言い分」


 突然、彼女が己の胸元をおさえる。

 そしてびりびりとシャツを引き裂く。布の悲鳴とともに広がる裂けめに視線が引き寄せられるのは男の業というやつか。

 衣服を破る動作に迷いはなく、潔くさえあった。

 それでも激しく動揺し、銃をとり落としそうになるのを慌てて掴む。


「わたし、ワインも弦楽器も好き。年月を経るほどいいものになるでしょう。どこまでもたかみに昇り続けられるようで……やればやるだけ磨かれることはこのうえない至福であり祝福。豊かな芳香を蓄え、味わい深さを増すところが大好きだった」


 彼女の柔肌が空気にさらされる。

 ふるりと小さく震える。抱きしめたくなるような反応に、伊達は何もできない。


「……傷?」


 踏まれたことのない白雪の如き肌に似つかわしくないものが、谷間の上に咲いている。

 むしられた薔薇のつぼみのように刻まれているのは傷跡だ。だいぶ治りかけているが間違えようがない。手元の銃と跡が結びつく。


――銃痕? ありえるのか?


 伊達には人体の仕組みはよくわからない。

 だがこんな心臓に近い個所を打ち抜いて、生き伸びるものなのだろうか。

 何より、これを見せる理由はなんだ。


「ダンテくん、前にいったわよね。成長し続けるというのは生まれ変わるようなものと」

「そう、だね」

「生まれ変わるには成長以外にもうひとつ大事な過程がある。――以前の自分が死ぬことよ」

「おれをからかっている、というわけじゃあないよな。こんなの持たせてるもんな」


 こういいたいのだろうか。


――ベアトリーチェはすでに死んでいる。


 この人もまた頭のどこかを病んでいるのかと思いかける。

 理解を放棄しかけた伊達を引き留めたのは現実として存在する柔肌と傷跡だ。


「永遠にいとたかきところを目指す音楽のために、ずっと死に続ける。そこにいくための誰かが現れるとルシィはたまごを落とすの」


 先ほどベアトリーチェが触れた唇に触れる。

 もはや感触は残っていないが、深く植え付けられた毒々しいほど甘い一夜が思い返され、むせそうになった。


「虫の羽音が聞こえることはない?」


 伊達は黙りこむ。

 伊達はまだ虫の羽音に悩まされたことはない。

 しかし、聴いたものは知っている。――クラリネット演奏者。


「ルシィは虫をクィーケトルと呼んでいた。彼女の故郷にいる、鳥に寄生し、美しい求愛の歌を奏でさせることで繁殖する寄生虫よ。地元では、命を栄えさせるちからを司る神様としても信仰されていたわ」


 虫。寄生虫。蟲。命と直結した、最高の歌を歌う鳥。

 何度か耳にした話題だ。

 伊達は目を瞬かせた。


「ルシィにとっては寄生虫、《蟲》は神様」

「どうして寄生虫の話になるのかまだわからないが、ルシィが故郷から《蟲》を連れてきたのが問題だということで、いいのかい?」

「ええ。そして、ただの辺境の娘で終わるかもしれなかったルシィに《蟲》と接触する手段を教えたのは、黒い肌の男、リロイだった」

「……現地人も、開かれた文明でもわからない存在を? どうやって教えたんだ」

「ごめんなさい、それもわからないの。リロイはわたしたちにもわからないところがたくさんあるから……」


 ようやく伊達も、混乱との付き合い方がわかってくる。

 わかるところだけに口を挟み、質問によって疑問をあきらかにしようとした。

 だが、ベアトリーチェでさえすべての答えは与えてくれない。


「わかった。なら、《蟲》でルシィは何を?」

「才能あるものが至高の音楽にたどり着くまでに死なないようにしよう。そう考えたのよ。何十年でも、ともすれば……何百年でも」

「死なない!? ばかな」


 意に反して、嘲笑じみた声をあげてしまった。

 無理もない。荒唐無稽にもほどがあった。

 ベアトリーチェは冗談だとはいわず、首を左右に振る。


「本来、《蟲》は歌を歌ったり、あるいは繁殖による興奮を栄養分に生きるの。

 目に見える虫の姿をとることもあるけれど、リロイ曰く、キノコみたいなものだって。確か、菌類? 小さな粒だけれど、互いに繋がることで、まるで個体みたいな姿で行動することもある。

 出てきたときは驚くけれど、本当の姿は粒だから、生物に少しずつ侵入し、繁殖できるのね」

「ルシィとリロイが、狙った音楽家の体に仕込むこともできる?」

「その通り」


 伊達は自分の胸をさすってみた。何も感じない。

 だが、この皮膚の下に目に見えない小さな虫が這いずっている姿を想像すると、強い吐き気を覚えた。

 草木に隠れてしまう濃い緑の、細い足を持った子虫たちが、いつ血管を食い破るかと思うと、血をすべてかき出してしまいたくなる。


「鳥に寄生した《蟲》は、繁殖のために、歌う能力と健康状態を最高の状態に保つ。具体的には、細胞の再生を活性化させる。そうして生まれた子どもに自分の一部を寄生させて、繁殖、成長。二、三代ほど重ねて、丈夫な卵を残す。

 ただ、細胞の再生回数には限界があるから、寄生された鳥は比較的短命よ。生きた時代のなかで、最も若々しかった期間が他の鳥より長かった代償だわ」

「早死に? さっきといっていることが……」

「矛盾?いいえ。言ったでしょう、寄生された《鳥》は、って」


 ベアトリーチェは、できの悪い生徒に語りかける教師の如く、忍耐強く、丁寧に教え込む。


 鳥と人は違う。

 鳥に寄生する仕組みを持った《蟲》が、本来の寄生対象と異なるものに住み着けば、具合も変わるのは当然だ。


 すなわち、なぜかリロイだけが知っていた《蟲》の能力。ルシィの願いをかなえた性質は、そこにあるのだと。


「《蟲》は人間に寄生したとき、鳥の時と同じく、主に快楽を栄養とする。

 音楽を奏でることによる喜び、それによって生成された脳内麻薬。性的快楽に、薬物摂取」

「…………」


 ベアトリーチェは目を伏せ、伊達は絶句した。

 伊達には、今ベアトリーチェがいったこと、ほとんどすべてに覚えがある。

 もしもリロイが渡してきたものに手を渡せば、コンプリートしていた。

 ぞっとしない。虫の羽音や体調の変化は、寄生を示しているようで仕方がない。

 だが、その寄生は、いったいいつからだったのか。伊達が思っているよりも、ずっと早く仕込まれていたのでは? ともすれば、例えば、ルシィのベッドのなかで。

 暗闇に隠れるようにして交わした口づけが、恐ろしい。


「それに、鳥と違って、人は本当にさまざまな音色を編む。音楽に対して、創造的な姿勢をもつことができる。

 人間はこのクリエイティブの能力で絶望することもあれば、際限ない幸福に向かうこともあるわ」

「《蟲》にとっては……最高の餌」


 ベアトリーチェは首肯する。


「《蟲》は、音楽に秀で、耽溺する人間をとっても大切にするの。彼らがまたとない最高の餌場であれば、《蟲》たちは生物としての本能である生殖すら捨てる。

 そもそも、繁殖は滅ばないために自分たちの複製をつくる行動でもある。品質の劣る餌で新しい命を継いでいくより、栄養価の高い餌を確保した自分を保った方が高い能力を維持できると踏むのでしょう。


 《蟲》は宿主の価値を見定め、認めたならば自分たちを変質させる。

 細胞の再生を強制的に活性化させる方向から、細胞そのものを修復する方向性へ。

 分裂に限界があるなら、分裂することで再生させなければいい。

 《蟲》が壊れていく細胞の修復を請け負うことで、肉体的な老化を著しく停滞させる。もっとも若い時期を保つとはいかないけれど、何、わたしたちは音楽家だもの。多少の加齢は、むしろエッセンスよ」


 説明される《蟲》の生態は、学識が深いわけではない伊達には難解なものだった。

 どうやら、老化が細胞分裂によって引き起こされるということすら知らなかったのである。


「じゃ、じゃあ、どうしてトランペッターは死んだ? クラリネットは浮浪者に? 他にももっと失敗した人間がいたんだろう、原因は?」


 痛くなってきた頭を抱える伊達に、ベアトリーチェは悲しそうに嘆息する。

 そんな顔をさせたいわけではないが、今回ばかりはやむを得ない。


「すべての人間が、音楽で幸せになる性質をもつわけではないわ。音楽を好んでも、音楽に浸りきる能力に欠けるものもいる。

 《蟲》は変質するとき、脳や精神に強い負荷をかけるらしいの。その時に心を壊してしまったり、死んでしまったり。負担からくる恐怖に耐えられなくて、発狂するものもいた。

 でも、トランペッターは、《蟲》に寄生された音楽家になるより、人間として死ぬ道を選んで自死したの。彼はわたしたちの望む音楽家ではなかった。でも、尊敬すべきだと。わたしは思ったわ」


 音楽よりも倫理と道徳を選んだトランペッター。

 ルシィやリロイにとっては、興ざめする決心だ。

 音楽家として、ベアトリーチェも悔やんだのだろう。だが、人間としてのベアトリーチェには、彼を称賛する想いがあった。

 でなければ、一人で焼けた廃屋に追悼を向けたりはしないのだ。


「おれにはさっぱり」

「しかたないわ」

「ベアトリーチェ、あなたはこんな話を、本気で信じているのか?」

「事実は不動だもの。自殺したわたしがこうして奏で続けているのは事実」

「……おれは、どうすればいい? このまま死ぬのか?」


 死にたくない。

 しかし、寄生され、心身に影響を受けて、変わり果てるのも悍ましかった。

 ルシィ達の思惑のまま、自分であるかも定かでない化け物にもなりたくない。

 ベアトリーチェは勇気づけるように、伊達の肩に両手を置いた。


「決まっているじゃない、音楽よ」

「音楽で?」

「音楽への執着が強ければ、音楽家の自分だけは生き残れる。

 いったでしょう、《蟲》は優れた音楽家をとても大事にするの。音楽に深く陶酔できる寄生対象が死にかけた時、《蟲》は何が何でも死なすまいとして、大慌てで生態を改造する。

 心が壊れる前に自殺や事故で死にかければ、変えられきる前に、自分のままでいられるの。わたしはそうした。他に方法はあるかもしれない、でも、わたしはこれしか知らない」


 伊達は質問をやめた。

 よどみなく話すベアトリーチェは狂ってなどいない。

 きっと《オーリム》が狂っているのだ。

 言葉で彼らを理解することは不可能だ。

 心のどこかで納得している自分もおかしいのだろう。

 《蟲》がいるからなのか、ベアトリーチェだからなのか、《オーリム》の演奏が人間離れしている理由に相応しいものであったからか。


「ひととしての自分を捨てるなら死ぬしかない。気づけば勝手に舞台に乗せられていた。みんな寸前になって選択の時を知らされるの。最低の取引だわ。でもわたしはもっと自分の音を深めてみたかった。楽譜は受け継げるけれど、寿命が尽きたら音色はそれまで。そこから解放される。魅力的だった。だから、誘いに乗った」


 かつて命を奪ったという傷を撫でる。

 その視線に込められている感情には喜びと悲嘆があった。

 表情は茨に抱かれたような苦痛に満ちているのに、瞳は歓喜にとらわれている。

 即興演奏の如く言外にしみこむ、複雑で、ありのままの姿だった。

 ひとは薬などなくともいつでも過去に酔えるのだ。


「わたしはわたしの演奏を変える気は全くない。最初のわたしが目指した音を目指し続ける。後悔はしてないわ。でも積極的に迎え入れる気はない。わたしはわたし、あなたはあなた」


 ベアトリーチェの姿に意識を集中させ、言葉を取りこぼそうとするもそうはいかない。

 黙り込み呆然としかける伊達を、頬をつかんで叱咤する。


「エーリッヒの末路はもうわかったかしら。彼は奪われる恐怖に耐えきれず、死ぬこともできず、麻薬に逃げた。オーバードーズで死んで、虫のおかげで中毒はなくなったけれど記憶は吹っ飛んだ。だから人格はもとのまま、まともなのだけれど」


 エーリッヒの末路を知っている。

 トランペッターの末路を知っている。

 ベアトリーチェは、その二人が生きて、死んでいくさまを見守り続けていたのだ。

 恐怖に苛まれ、音楽の誘惑にさらされ続けた二人に、何も思わなかった彼女ではなかろう。その二人にもこうして、伊達にするように、話しかけたのだろうか。


「あの二人にも同じことをいったのか」

「……いいえ、どうせいずれ知ることだろうと思ったから、放っておいた」

「ならどうしておれに」


 目を見開く。

 てっきり誰にでもそうして、救いの手を差し伸べようとしたのだと思ったのだ。

 するとベアトリーチェは、今になって頬を赤らめる。


「いくら好きだからといっても、他人の哀悼にあなたが感謝したから」

「……はい?」

「忘れるつもりはなかったのに、忘れかけていたんだって思い出したの。だから、あなたにはきちんと警告しなければと思った。ギターの演奏を聴いて、他人のために演奏できるあなたがここにいるのが正しいのかと、ますます迷ったわ」


――おれの音が届いていた。


 彼女を想って奏でたメロディは彼女に届いていた。

 とんでもない事態におかれているはずなのに、その喜びの前には些事に思われた。

 急に心拍数があがって、顔全体が火照りニマニマしてしまう。


「本当に、あなたってひどい。誰かのために奏でられる人がここにいるべきじゃないってそう思うのに、よりによってわたしなものだから、いてほしいって思っちゃったじゃない。ひどすぎるわ」

「そういう場合じゃあないけど、なんだ、嬉しいなあ」

「あなたってばかね、知ってたわよ」


 ねえ、信じてくれる?

 うるんだ瞳で見上げられ、我慢ができなくなった。

 ベアトリーチェは伊達の想ったあのひとそのままだったのだ。

 彼女の唇に軽くかみつく。

 冷たくつるりとして、溶けて消えるように甘い。真っ赤な唇も相まって、林檎のような味だった。


――恐怖ゆえの勘違いだろうか。


 いいや、そんなことはない。

 その感情は本物だ。だから届いたのだ。

 考えるべきことは多くあるが、今大事なのはそれだけだ。


「……抱いてはくれないのね。ルシィとはしたのに」


 何度かついばみ、名残惜しくからだを離す伊達を恨みがましく睨む。

 自分だけが知らない、知られているというのはなんとも不便だ。

 やけ気味に笑って冷たい指を握る。


「きみにはおれの永遠の女性ひとでいてほしいんだ」

「なあにそれ?」

「おれ、そっちには行けないと思うから」

「トランペッターと同じように死ぬの?」

「いや、演奏を続ける。でも死なない。おれはおれの音楽をする」


 誰かに届く音色を。その誰かは人間だ。

 自分と同じように嘆き、楽しむことを愛し、ベアトリーチェのように誇りを求め、慈悲を与えようとする誰かだ。

 ルシィのもとではそれは難しいとはっきりわかった。


「えっと、これで一度死ねばいいんだよね」


 もらった銃をこめかみにあてる。

 ベアトリーチェは戸惑いとともに頷く。

 恐ろしいならわたしが引き金をひくとも言われた。伊達は首をふる。

 自分のことは自分でしなければいけない。


「ルシィもおれにとって特別だ。彼女のものになったら幸せなんだろうな。わかる気がする。でも、おれの音じゃあないから」

「……そうね」

「おれはまだ音楽家として未熟に過ぎる。もしもおれがおれの音を見つけたら、迎えに行くよ」

「あら、人の地獄にせよ音楽家の天国にせよ、連れ戻すのは苦労するわよ」

「きみが好きなんだ。きみが待っていてくれたなら、諦めずに頑張れるから」

「勝手にすれば?」


 あれほど熱烈であったのに、押された途端に冷たくなる。

 先ほどは《オーリム》にいれないために、といっていたが、元からそういう性格らしい。

 ベアトリーチェは伊達の胸をドンと突き放す。

 額に手をあて、座り込んで顔を隠すように指を組む。


「またね、ベアトリーチェ」


 迷っている猶予はほとんど残されていない。

 耳鳴りがそう教えてくれる。

 惜しむように服の裾を掴んだベアトリーチェの家を出て、ひとり伊達は自宅に向かった。

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