第13話 蛇のいざない

 空をどんよりとした厚い雲がおおっている。今にも端から垂れてきそうなほど灰色は重い。

 少しでも気分を晴らそうと、彼は《ミモザ》がある通りをのんびり歩く。帰路の途中の寄り道だった。

 店に入ろうか考えて、やめた。

 先日の新歓パーティの一件以来、喜代の態度が少しぎこちない。

 伊達は思い当らないが、気にすることがあるらしい。わざわざそんな状態の喜代に会うほど意地悪ではない。


――今日の天気はベアトリーチェのヴァイオリンみたいだ。清らかな水で潤っていて、見えずしたたる。


 人目をはばからずため息をつく。陽は暗いが、時間帯はまだ午後を過ぎたばかりだ。

 なんとなく気分が乗らなくて、体調不良を理由に早めにあがってきてしまった。

 かつての自分なら、早退は不真面目なことだと嘆く。

 しかし、体調が悪いというのは嘘でもなかった。

 近頃頭痛がひどい。

 演奏をしている間は集中しているからか痛みがひくものの、それ以外の時はずきずきとコメカミが痛む。耳鳴りもひどかった。


――変な頭痛だなあ。


 そうは思うのだが、それがますます熱中させるらしく、音は冴えわたる。

 だからつい「帰ったら休むから」「明日になったら休むから」と先延ばしにしてしまう。

 それをやめたのはエーリッヒの一件があったからだ。

 加えて、うすぼんやりとした直感的な恐怖に、ベアトリーチェの言葉が拍車をかけた。


――このまま突き進んだら、とんでもないことが待っている気がする。


 激しく荒ぶる彼の音色には嘆き、そしてうっすらとした喜びがあった。

 恐らく演奏者にしか共感できない歓喜だ。

 『この一線をこえられる』という、素晴らしい音色を奏でられることへの狂喜である。

 そのために心を壊す恐怖に苛まれ、大事なものを取りこぼそうとも幸福であろう。

 骨の髄まで音楽家であれば。


「やってられない」


 どうすれば割り切って仲良くできるだろう。最初のように楽しくやりたかった。懐に手を入れてスキットルを取り出す。

 エーリッヒがヴァイオリンを弾いたあの後、酒のことをすっかり忘れ、リロイに感想を聞かれてようやく思い出すことになってしまった。

 彼は苦笑して新しいものをいれてくれたが。

 よほどのしかめつらをしていたのだろう。


「飲んでみるかな」


 思えばここ最近、随分穏やかに過ごしていない気がする。

 せっかくの貸切パーティでも、エーリッヒとはろくに話さず解散してしまった。


 メンバーのなかでももっとも親身になって接してくれた、人懐っこい異国の青年。

 あの一件さえなければ、伊達だってエーリッヒに少なからず好意を抱いていた。


「俺ってなんて小さいんだろうなあ」


 酒は人の垣根を和らげるという。本当だろうか。

 試しにスキットルの口を開け、丸いくちを見つめて躊躇する。

 大丈夫だろうと思っていても初体験は身がかたくなるものだ。

 緊張から逃れようとする部分は逃げ道を探す。

 恐れを感じて別の手段を考えるのは、生き物としての本能だ。

 伊達の場合、彼らしく耳を研ぎ澄ました。

 外を流れる、生活音という音楽は心を落ち着けてくれる。


 水を吸って重い洗濯物が、風に吹かれてはためき、打ち合う。

 子どもが固い道の上で鬼ごっこに興じて、パタタと駆けていく。

 至って平和な午後の音色に沈み込みこむ。いつも通りの世界――ではなかった。


「……ん?」


 想像していたままの生活音のメロディに、聞きなれないものが混じった。

 伊達の耳たぶがぴくりと跳ねる。


「なんだ?」


 瞳を閉じて、さらに耳をすます。

 鋭敏な伊達の耳は、見事に興味の対象を探り当てた。

 元より強くない酒よりも、ずっと魅力的なもの――奏でるために作られた、音楽のための音の色。楽器の音だ。


「クラリネット? けど、なんであっちから」


 演奏者の姿は見えない。

 手をこまねく妖しさと奇妙な親しみやすさで飾られた笛の音は、路地の裏から聞こえてくる。

 路地裏にいるものといえば、治安を思えば娼婦か浮浪者だ。


「ここをとらなにゃならんのか」


 一人で足を踏み入れることには勇気がいった。酔いもない。

 だが、この音の主を確かめたいという好奇心が勝った。

 不思議なことに、クラリネットは響く場所の胡散臭さにある意味では相応しく、実に見事な腕前だったからだ。


――こんなところで演奏をするなんて、よほどの変人だろうか。確かに個性的な人間は多いが。


 暗闇に踏みこんで現実の風景を見失えば、音が薄紫色の煙となって己を導く錯覚が襲う。

 蛇を操る呪術師が細い指で笛の穴を塞ぐのが目に浮かぶ。


 すえた臭いはこの世とあの世の境目を曖昧にした。天地の境を失う。幻視、神秘の満ちる古代にかえる酩酊を呼び起こす。

 人々の内側に存在する、露出した肉の如き醜さと深紅の魔性をみせつける。

 ありのまま突きつければ生理的に拒絶しかねないものを受け入れさせ、陶酔させる陰陽のバランスは、呪術的とすらいってよかった。

 音楽とはあらゆる垣根を飛び越えて、心魂に届くのだと理屈抜きに認識させられる。

 伊達は耳を頼りに演奏者に近づきながら、超絶技巧の腕前にほれぼれした。


「すみません、失礼しますね」


 けもののように丸まって地べたに寝転がる浮浪者たち。合間を潜り、演奏者の元にたどり着く。


「ぅえッ」


 彼の姿を認めると、思わず伊達は目を剥いた。

 演奏者の姿は当たり前おかしい

 安くはない楽器を持つ者にしてはみすぼらしかった。

 汚れていないところのないボロを着ている。間違いなく浮浪者だ。

 己の身なりを気にも留めない。演奏者の乾いた茶色の手の中で、クラリネットだけが黒を煌びやかに輝かせている。

 指は痩せているが、しっかりとした頑丈さがあった。何年も楽器を操ってきたものの手だ。

 五指の健常に反し、目はどろんと濁っている。

 楽器を手放せなかった浮浪者ではない、演奏を捨てられない麻薬中毒者だった。


「あなたが、この音楽を? その状態で?」


 矛盾のかたまりに言葉を失って、まじまじと演奏者を見つめるだけの時が過ぎる。

 失礼な言い方をしたさえ忘れる。

 その時間がまた伊達に発見を与えた。


「あなた、まさか……あの演奏会にいた、」


 よくよく見ればその顔には見覚えがある。

 ほんの数回だけで意識しなければすぐにでも忘れてしまいそうだが、確か彼は、初めて《オーリム》の演奏を聴いた時にいた観客の一人だ。


――「虫の羽音が聞こえる」


 そうつぶやいていたから、かろうじて印象に残っていた。


「なんだ、アンタ……て、新しいメンバーか」


 伊達の驚愕に、彼は何か呼びさまされた様子で言葉をもらす。

 わずかに宿った知性の光は、しかしすぐに掻き消える。

 代わりに伊達に向かって手のひらを差し出してきた。


「え、な、なんですか」

「ここに来たということはお前さんもあのバンドに誘われたんだろう。なら、持っていないか。いや、よくみりゃもう持ってるじゃないか」

「何を」

「酒だ。こんなナリじゃ手に入れるのも一苦労でな、くれ」


 見覚えはあるといっても交流などかけらもない男だ。少し考えて、貰い物の酒を渡す。


――自分はまたもらえばいい。


 何があったかしらないが没落した様子の男に憐れみを覚えた。

 男はスキットルを受け取り、震える指で口に運ぶ。

 ごわごわの口髭から酒か唾液が落ちる。


「どうも」


 乱暴に突き返されたスキットルをハンケチで拭いてからしまう。

 男は早くも顔を赤く染め、ぐらぐらからだを揺らし始めていた。

 似たような動きでも、喜代とは似ても似つかない。

 伊達は心の中で、女性という存在をこっそり賛美した。

 そうでもなければ、この汚らしい空間に、嗅覚からすべての五感をダメにされてしまいそうだった。


「あのバンド、というのは《オーリム》のことですか?」


 質問に答えられる状態か怪しい。

 それでも試しに気になったことを聞いてみる。


「あ、ああ、そうさ、あの悪魔どものことだ」

「悪魔って」


 むっとして言い返そうとしたが、近頃を思い出し、口をつぐむ。

 何より相手は酔っ払いであり中毒者だ。目頭を立てるのも情けなかろう。

 こらえた伊達をバカにするように鼻を鳴らす。そして単刀直入に言った。


「もうルシィとは寝たのか」


 踏み込んだ問い返しに、さすがに唇の端から怒鳴りが漏れる。

 悪意のまじったことを問うも、男はにやつかない。

 むしろ伊達の反応を見て、深く、深く嘆息した。


「そうか。なら礼に俺が言えることはひとつだけだな」

「……いや、いいよ、じゃあな。気を付けて」


 やはり中毒者は中毒者だ。まともにとりあうべきでなかった。

 自嘲して去ろうとした背に、いやにはっきりした呂律ろれつがとぶ。


「迷うかもしれんが、嘘つきは一人だけだ。頑張れよ」


 謎かけめいた言葉は妙に突き刺さり、振り向く。彼はもう横になって、縮こまってぶるぶる震えていた。


「……嘘つき?」


 スキットルをしまった胸元に手をのせる。

 浮浪者であればたわごとと放っておけたが、彼はただの浮浪者ではない。

 彼の発言と楽器を見れば、恐らく彼が《オーリム》のメンバー候補の一人だったクラリネットだろうと予測がつく。

 一度はルシィに気に入られかけて、結局やめてしまったのだ。

 トランペットと同じく。


「嘘つきって、エーリッヒのことか?」


 かつてそこにいたのならメンバーのことを知っているのは自然だ。

 したはずのことを笑って違うといった彼の顔を浮かべる。


――でも、本当に?


 エーリッヒはいい奴だ。

 伊達は、ベアトリーチェとの関係に関しては疑っていても、それに関してだけは疑っていなかった。我ながらあほらしいほどに。

 あのきらきらした瞳が、小器用に嘘がつけるとは思えないのだ。

 しかも、今でも何かとかまってくれる。本当に、エーリッヒという男はお人よしなのである。

 あのヴァイオリンの演奏を聞いた後では、過去によほどのことがあったのだろうと予想もつく。

 でなければ、伊達もここまで自己嫌悪と混乱に陥らない。


「あの男、オーリムとどんな関係があるんだ? わからん」


 浮浪者の姿では共通点など音楽以外に思いつかない。

 だが、エーリッヒを真っ先に浮かべたことで、一つ思い出したことがある。

 そういえば、エーリッヒは元麻薬中毒者。薬のせいで記憶を失ったというではないか。

 よほどのことから逃げるために麻薬へはしったといわれれば、伊達は頷いてしまう。


――だって彼は酒に強い。嫌なことがあっても酒では忘れられないだろう。


 家に向かっていた足が止まった。

 何かがひっかかる。何が?


――そうだ、エーリッヒも中毒者だったんだ。


 彼は酒に酔えない。あの調子に乗るのは癖で、芝居だ。自己生産性の陶酔だ。

 だがそんな彼でも逃げられるものがある。

 もしも、彼が嘘つきでないと仮定したらどうなる。本当に覚えていないのだとしたら?


――あの時、エーリッヒは記憶が残らないほど混乱していた、のか?


 ならばそれは酒以上のものを摂取したからだ。

 コートを握りしめる。


――演奏前に彼になにか摂とらせたのは、摂らせたものは、


 そこには硬い金属の感触がある。


――エーリッヒが記憶喪失だっていったのは、彼が麻薬中毒者だといったのは、彼が逃げた理由を知らないといっていたのは。


 ベアトリーチェは知っていたのに。


「リロイが嘘つき?」


 ひとのちからではびくともしないスキットルをコート越しに確かめる。

――これの中身は、一体なんだ?

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