第12話 メメント・モリ

 《オーリム》の明暗は、深夜のランプの如く明滅が激しい。

 伊達は夜の《モミザ》の一席から、楽しそうに談笑する他のメンバーを見て、そう思う。


「ほら、ダンテくん! 君ももっと飲まないか」

「ちょっと、マスターまで俺をそんな風に呼ぶんです?」


 店主はなかなかグラスを空けない伊達に乱暴に肩を組む。

 実際は、なかなか喉に通らない、というのが正解だ。しかし事情を知らない店主にはわからなくて当たり前だった。


「いいじゃないか。ダンテ、いかにも世界に通じるみゅーじしゃんって感じで!」

「……俺にはでかすぎる着物にあわないなまえです」


 首をすくめる伊達に店主は豪快な笑い声をあげた。

 謙遜だと思ったのだろう。


「もっと胸はっていいんだぞ? 俺なんか十秒に一回、俺は天才だと思ってる」

「一日に720回は過剰じゃあないかなぁ」

「いや、睡眠はとってるからな? そこまで多くは……でもよぅ、自分で減らさなくても、世の中生きてりゃ自信を失うことなんて多いんだからよ。楽しめるときは楽しんで笑ってりゃいいんだよ」

「そう、ですかねえ」

「とにかく、今日はダンテが主役だろう! しかめ面きめこんでねえで、ぱーっとのめ!」


 バンバンと両肩を叩き、胃の中に入ったものが飛び出そうになる。

 せきこむのは捨て置かれ、店主は店の奥へ入っていく。

 追加の注文を取りに行ったようだ。

 アルコールが鼻にしみる。視界が涙でにじむ。

 なんで自分がこんな目にと不満をもらしかけたところで、伊達に声をかけるものがあった。

 年季を経た木材の如くなめらかで優しい、女性にしてはやや低めの声。

 少女と少年の合間にあるような覇気と艶を放つ声。

 羽化したての蝶のように瑞々しく愛らしい声。

 三種三様の美しいコーラスに心のささくれが癒されるのは、職業病ともいえた。


「大丈夫?」

「随分やわなんだねえ」

「お父さんがすみません……ほんとあの人ばかなんだから!」


 三人娘が各々そらんじる歌詞もそれぞれだ。

 ルシィを中心に、ベアトリーチェと喜代が優美な衣服をまとって並んでいる姿は、眼福というほかない。


「平気だよ、実際ここまでしてくれたのに、一番のんでないからね」


 返答は心配と謝罪の言葉を投げかけたベアトリーチェと喜代のみに対してのものとなった。

 ルシィだけは辛辣なものいいをしてきたが、今の伊達はいちいちルシィの発言をまともに受け取るほど、彼女の人間性を信頼していなかった。


「そうだよ、ダンテくん。せっかく君の大成功、そして《オーリム》参加への新歓も兼ねて、貸切で祝ってあげてるっていうのに。エーリッヒやリロイの方がよほど楽しんでいるよ。つまらない奴だなあ」


 自分がないがしろにされたこと自体はどうでもいいらしい。

 かまわずルシィは伊達を「つまらない」と評して見せる。

 隣で、リーダーが新人をけなしたことに喜代がぎょっとしたのもつかの間。


「もっとも、君の音色はとてもよいものだと思うから、いいのだけれどね?」


 黒曜石を三日月型に歪ませる表情は、どきりとするほど色っぽい。

 伊達はあわてて目をそらす。

 あんなことがあったのに、ルシィは相も変わらず、どころか以前にもまして「親しい友人」か「面白い新人をかわいがっている」かのような態度ばかり取る。

 だから今のルシィと話していると、異星人と接触している気持ちになるのだ。あまりよい気分ではない。


「恐縮です。三人は俺の記憶が確かなら、会うのは初めてのはずですよね。もう仲良くなったんですか?」

「女三人そろえばかしましいと書く。つもる話もあるものよ」


 ベアトリーチェの眦には、練習場にいる時とは違い険がない。

 秀麗な眉目がいつも以上に輝いていた。

 すっきりとつきものが落ちている顔に、伊達はこちらが彼女の素なのだろうと思う。

 死者の家で演奏していた――伊達が恋した――優美にして憂鬱なベアトリーチェ。


 胸に黒いものはたまっていたが、嫉妬と悲しみより自己嫌悪が勝っている。

 ベアトリーチェがそうした顔を浮かべているのが、伊達には素直に嬉しかった。

 がちがちになっていた表情筋が緩みかけたのに、ルシィが水をさす。


「ぼくは話すことなんかないよ。音楽の話なんかちぃともできないじゃないか」

「す、すみません」

「貴女、そんなことばかりいうのなら、あっちにいってしまいなさいな。数も多いわよ」

「はーい」


 冷たいルシィから喜代をかばうように、ベアトリーチェは二人の少女の間に立つ。

 今度は白けたようで、ルシィは唇をとがらせ、別のテーブルに向かっていった。

 貸切なので、当然そこにいるのはリロイとエーリッヒだ。

 二人の異国人のなかには、サスペンダーを来た店主も混ざって何やら盛り上がっている。


「お父さん、珍しい話が好きだから。外の話とか。この店の通り、異国文化が大好きだもの。浮かれちゃってる」


 恥じ入って頬を赤く染めたのは、父とルシィのどちらのせいか。

 伊達はうつむく喜代の肩をポンポンと叩こうとして、手をひっこめた。

 《オーリム》にいたせいか、最近スキンシップが当たり前になっている。喜代にそんなことをすればひんしゅくを買う。彼女は純粋な少女なのだ。

 とても清らかでまぶしい存在を目の前にした気になって、伊達はなるべく優しく話す。


「ルシィは気にしないで」


 喜代は音楽家ではない。

 だから興味を失ったのだ。善悪はない。音楽だけが理由だ。


「ごめんなさいね。あの子、本当にどうしようもない音楽バカだから」

「だからこれはお父さんのせいですから! 謝ることなんてなにもないですよ?」

「そう?」

「です。暗いのはやめて、楽しみましょ!」


 喜代はわざとらしいくらい大口を広げた。

 明るい笑顔が張り付けたものなのか、その道のプロでない伊達には判別がつかない。

 つっぷす体勢になっていた伊達の隣に、喜代とベアトリーチェが腰をかけた。

 ベアトリーチェからほんのり花の香りが。喜代からはセッケンに似た匂いが漂う。


「楽しむのなら、君たちはあっちに行かなくていいの?」

「今日はあなたの日でしょう。あなたが楽しめなかったら、なんの意味もないのではないかしら」

「そうですよ、すごいことなんですよね」


 以前、外国にいくのかと気にしていた喜代も嬉しそうに言う。

 彼女たちの知らない出来事のせいで、伊達の方が気乗りしなくなっているなど思いもすまい。


「うん、身に余るくらい、だよ」


 伊達は歯切れ悪く首肯する。喜代はいぶかしげに顔を曇らせたが、ベアトリーチェは顔色ひとつ変えず、酒に口をつける鋭利な横顔を見せつけた。


「うーん。なんか、よくわからないですが。まりっじ・ぶるーってやつです?」

「当たらずも遠からず。俺の両掌に収まりきらない、予想外の事態ばかりに押しつぶされちゃうんじゃないかな、とかね」


 茶化した言い方は、喜代に乗っかった冗談に聞こえた。

 自分が掴み取った幸運を自慢する、若人の苦労話だ。

 事情を知るもの――たとえばルシィとリロイ――でなければ、本音の悩みとは気づきにくいはずだった。


「うーん。そうですよねえ。お国のうちにいるときも大変なのに、何もかもが違うんだから、不安にもなるでしょう」


 だが喜代は大真面目に受け取った。


「そうね。言語であれば最初のうちは私たちが通訳と勉強を教えればいいわ。でも、食事や環境ばかりはどうにもならない。何より」

「何より?」

「たとえ正式なメンバーになろうと、音楽とは向き合い続けるわ」


 ベアトリーチェの青い瞳がスゥと冷える。

 髪と同じ銀のまつ毛――アッシュブロンド? プラチナブロンド?――が瞳に影を落とす。

 幾度も経験した壮絶な練習と本番の恐怖がこびりついていた。

 永遠に己の実力と戦い続う。

 心底怖いと思うが、おかしいとは感じない。なにせあのルシィの理想たるバンドなのだ。

 ベアトリーチェの脅すような言葉を、死刑宣告を受け入れるかのように神妙な伊達に、また喜代が動揺する。


「それって大変なんじゃあないですか?」

「勿論大変よ」


 喜代に語りかけているようで、ベアトリーチェは流し目で見やる。

 伊達はかちあった青い瞳にハッとした。ような、ではないのだ。ベアトリーチェは伊達を脅しているのだ。

 《オーリム》に渦巻く明滅のなかに置かれているとは思いもせず、喜代は素直に疑問を飛ばす。たった一人、無垢な子どもの純粋さで。


「一つの物事を高めていくのに、終わりなんてあるんでしょうか? 疲れちゃいそうです」

終わりゴールなんてないわ。ベストを尽くしたつもりでも、本当はもっと先がある。どこまでいってもベターなの。希望でもあるし、苦痛でもある」


 喜代の鍛え上げられたビジネス・スマイルが硬直する。

 あきらめたとはいえ夢を追ったこともある身。想像するとぞっとしなかったのだろう。


「苦しくておれちゃう人の方が、いっぱいいそうです。ハタから見ると悲しいですね……」

「多いわよ。折れなくっても、技術を高めるのに時間がかかって、寿命を迎えてしまう人もいる。技を教えても完璧に受け継げられるわけじゃない。肉体の経験は渡せない、自我は死ねば終わり。ないないだらけ」


――おいおい、今日は俺が主役の楽しい会じゃなかったのか。


 喜代をこの話に巻き込みたくなかった。

 口を挟もうとした。だが、二人は会話を続ける。

 熱に浮かされた人形のような空虚な瞳に、伊達はたじろぐ。

 そんな話をしなくていい少女が、そうしなければいけないという義務感に駆られている。今までの自分の世界が侵食されているという危機感が襲う。


「それはすっごく、すっごく、嫌です」

「でしょう?」

「いっそ死ななければいいのかもしれませんね。もちろん、冗談ですよ?」


 喜代は、女二人の密な距離感に動けない伊達に向かって、小首をかしげる。


「あたしだって、伊達さんが常連さんじゃなかったら、大変トカどうでもいいって思ったかもしれません。もしも伊達さんが諦めて、たどり着きた場所にたどり着く前に死んじゃったらって思うと……やりきれませんもん」

「喜代ちゃん?」

「伊達さんには、夢をかなえてほしくて。あたし、本当に」


 だんだんと心配した伊達が、今度こそ喜代の肩に触れた。

 途端、カクンと喜代の首が落ちるように揺れる。


「!?」

「あたし……伊達さん、やりたいことを……なってほしくて……」

「酔ってるのかしら、コレ。多くは呑んでないわよ」


 ベアトリーチェはカクカクと船をこぐ喜代の手からグラスを取り上げようとした。

 喜代は両手で包みこむ形でグラスを握っていたものの、もはやちからがはいっていなかったのか、あっさりと指を離す。


「こっちの国の人ってお酒弱いって聞いたけど、本当だったのね」


 ベアトリーチェは心配に眉を八の字にして、赤くなった喜代の顔を覗き込む。


「茹でだこみたいにはなってないし、平気かしら」

「喜代ちゃん、普段はお昼にしか会わないから、お酒弱いなんて知らなかった……店主さん! 店主さん!」


 伊達は手をあげて、ますます盛り上がっている様子の四人に向けて叫ぶ。

 ほんの少しだけ、奇妙な空間から日常に戻ったような安堵を覚えながら。

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