第7話 果ての国と
「伊達さん、外国へ行っちゃうんですか?」
穏やかな夕方、一日の終りが近づく頃合い。
近頃、肩の凝りがひどい。練習の波に乗れるようになってきて、熱心に取り組み過ぎていたせいだ。
いったん、音楽から離れてちからを抜こう。ガス欠しないエネルギー管理は大切だ。
そう思って、練習終了後まっすぐ喫茶店:《ミモザ》にやってきた伊達を、衝撃が襲った。
唐突に喜代に問われ、伊達は飲みかけの珈琲でむせかける。
「なんでそんなことを?」
軽く咳払いをしてから、苦笑いで問い返す。
喜代はその態度に眉を下げて、注文を乗せていた丸い盆を胸元で抱きしめた。
「やっぱり遠いところへいっちゃうんですね」
「だからなんでそんな」
「ご心配なく。そうとは決まっていません」
何故そんなことを問うのか。
何故そんなことを気にするのか。
慌てふためく伊達に代わって、同じカウンター席に腰をかけていたリロイが答えを返した。
練習後の予定を尋ねられ、ミモザに行くと告げたところ、まるでそれが当然であるかのようについてきたのだ。
リロイと同じく、なぜかついてきたエーリッヒも乾いた笑い声をあげる。
「なぁんだ、だったら最初からそういってくれればいいのに! 変にごまかすから、きかれちゃまずいのかと不安になっちゃいましたよ」
喜代は納得したものの、問われた伊達ではなくリロイに答えられ、不満に唇を尖らせた。
慣れた客に向ける、茶目っ気たっぷりのわざとらしい表情だ。
伊達もようやく落ち着いて、冗談を投げてやる。
「ごまかしてなんか。俺と喜代ちゃんの仲じゃないか」
「もうっ、そんなこといって! 本当は何を隠しているのやら。ウワキですか!?」
「ばかな。喜代ちゃん一筋さ」
「おう、いったな?」
喜代と戯れに興じていると、カウンターから店主がでてくる。
これにはやはり、伊達は冷や汗を流した。
「すみません、冗談でして」
「わかってるよ。中途半端に真面目になんなや」
「何事も全力でやりきった方が面白いよねえ」
「エーリッヒまで……」
「やあ、ごめんごめん!」
テーブルに顎を乗せ、エーリッヒは笑いをこらえきれない様子でいる。
昼だというのに、彼の前に置かれているのは珈琲ではなくアルコールのたぐいであった。弱いが酒の匂いがする。
エーリッヒは笑い上戸であるようだ。
伊達は呆れて、小突く程度にエーリッヒの頭をぽかりと叩く。
「ダンテくん、うちのフルートの脳細胞を殺すのはやめてくれませんか」
「いいじゃあねえか、仲のいいこって」
「僕は痛いよ!」
「ははは……ところで喜代ちゃん、どうしていきなりそんなことを聞いてきたの?」
盛り上がる面々を置いて、伊達は喜代に向き直る。
ウワキ云々は冗談でも、彼女を無下にしてよいと思うほど浅い仲ではないのも本当だ。あくまで友人としてだが。
改めて伊達と正対した喜代は、先ほどまでの勢いはどこへやら。かえって緊張した顔で、目線をそろりとそらした。
「えー、いや、ね? 最近、リロイさんやエーリッヒさんもよく来てくださる方が増えたからか、音楽家や音楽愛好のお客さんが増えてきてですね?」
「うんうん」
「そういう人たちのお話きいて知ったんですけれど、リロイさんとエーリッヒさんって結構スゴイ演奏する人たちなんでしょ?」
「えー、じゃあなんだと思ってたのー?」
娘の喜代の言葉に、店主が二人を、特にエーリッヒを意外そうな目で見た。
いつもは人の目線に気付かないエーリッヒが、非難めかして喜代を問い詰める。
からかわれた喜代はペチンと細い指で、へらへらと笑うエーリッヒの額にデコピンを放つ。
「てっきり伊達さんと同じ、スゴイバンドの新メンバー候補の方なのかなって思ったんですぅ! ごめんなさいでしたッ」
「どうでもいいから本題に戻って」
喜代のデコピンは笑って受け止めたエーリッヒだが、リロイのぞんざいな扱いには顔をしかめた。
伊達もまたショックを受けた様子のエーリッヒを無視する。
「は、はい。えー、その。もしも伊達さんがスゴイ人達と組めるなら、そりゃあ? 常連さんが活躍するのは、すっごい嬉しいんですけれど? いろんな国で演奏してるんですよね、じゃあ稼ぎが減っちゃうなーって」
「寂しくなるなあってこと?」
「そうといえなくもありません」
素直に認めるのは気恥ずかしいのか。
喜代の頬が赤く色づく。
「いっちょまえに照れやがって」
「おとうさんウルサイ! もー!」
追加の珈琲をもった店主が、喜代の後ろに立つ。
ニヤニヤと娘を見下ろす父親の顎を、喜代はお盆ではじいた。
「あ、仕事仕事! 誰かさんたちのせいで最近忙しいんだから。注文運んできちゃうから!」
わざとらしくいって、喜代は奥に引っ込み、かと思えば、お盆に注文の品を乗せ、他の客の元へいってしまった。
可愛らしく揺れる服の裾を追えば、さすがプロ。別の客の前に躍り出る頃には、いつも通りの天真爛漫な笑顔をふりまいていた。
「この店はいっつも笑いが絶えなくていいねえ」
二人の友人に無視され、いじけていたエーリッヒが緩んだ声音で言った。
酒をちびちびなめるうちに、あっという間にキゲンが治ったらしい。単純な男である。
「お、あんちゃん見る目があるな。どっかのおえらいさんが女は太陽とかいったらしいが、まさにそうさ。娘はココの太陽だ」
「ほう。太陽に好かれているとは、ダンテくんも隅に置けませんね」
「違いますよ、リロイさん。あの子は誰にだって優しいんです」
伊達は横に首を振る。
そういえば他も何もいうことはないのか、口をつぐんでしまった。
各々、何かしらの飲み物を口に運ぶ。
伊達もひきたての珈琲の香りを肺いっぱいに吸い込む。
「いやあ、しかし、うまくやっているようで、安心したよ。お二人さんも悪い人じゃあないみたいだ」
珈琲カップの中身が半分になったところで、店主が切り出す。
「安心とは?」
「気にしないでください」
最近気づいたことだが、リロイはいつもこうだ。
こういう、触れられたくないところに素早く反応する。
嫌いになるほど深くなく、しかし心の表面のざらりとしたところを撫でつけるように。
そわっと感情を浮かせられる。
掌の上で踊らされているような気持ちになるので、苦手だが、面白くも思う。
奇しくも、店主もまた悪乗りしやすい人物であった。
「実はね、この間あんたたちの演奏をきいたってぇ日に」
「マスター!」
「喜代ちゃんが伊達くんを気にしてたのも、だから? 初めて会った時も、なんかいってた気がするけれど」
「ん? あー、そうかもな。伊達くんが夢をあきらめるんじゃねえかってやたら気にしてたから」
顔を真っ赤にして怒鳴る伊達を見ていられなくなったエーリッヒが、話題をそらす。
伊達はエーリッヒに目線で感謝を伝える。にっと唇を釣り上げられた。
「他人の夢をそこまで気にするとは。本当に優しいんですね」
「黒いあんちゃん、あんた結構キッツイなぁ……ま、喜代も時代が時代なら、もっといろんなものをみたかっただろう
娘のことになると親は弱いもの。
店主は目を細め、はつらつと店を駆け回る愛娘の背を見守る。
「いつの時代も、もっとよければ。そう思うものです。いつ生まれようが大差ありませんよ」
リロイの慰めというには刺々しい台詞にも、店主はウンウンと首肯した。
「そりゃそうだ。そうだろうよ」
伊達には、それが自分に言い聞かせているように映った。
「なんだ、それでも人と接する仕事だからな。話しているうちに、他の職よりも何倍もの世界を見ることだってできる。例えばあんたたちみたいな、な」
「はい?」
「じかに見ることはかなわんでも、話は聞き放題ってことさ。なんかないかね? うちの娘が喜ぶような話さ。どんな演奏をするのか、とか、海の向こうにはどんな世界があるのか、とかさ」
「ふむ。ここではないどこかの話ですか」
二人は顔を見合わせ、頭をひねる。
「そういわれてもねえ」
「本当にいろんな国に行きましたが。だいたいやることといったら音楽ばかりで」
「いやいや。たまにゃあ息抜きするだろう?」
「息抜きっていってもなー。演奏は仕事だもあるけれど、僕たちにとっちゃあ演奏するってこと自体が生命活動みたいなもんだからねー。呼吸みたいな?」
母数が多いせいで、どこについて話せばいいかいまいち決まらない。
しかもどこに行こうが、観光よりも仕事の話になるときた。
店主はあきれ返る。伊達には理解できる感覚だったが、恐らくそうではないのだろう店主に押し付ける気はない。
「具体的に興味のある場所や内容はありますか?」
「そうだなあ。笑い話、といいたいところだが、喜代なら綺麗な話の方がいいだろう。そうだ、あんたたちの故郷とかはどうだ?」
故郷。誰にも存在し、深く親しんでいるだろう場所。
いかに現実離れして見える彼らとて、生まれた国はある。
だが、これにも二人はしかめ面をした。
「ふむ。故郷」
「故郷、故郷かー。僕のはそんな面白い話じゃあないと思うけどなあ。そうだ、ダンテくんの故郷はどんなところ? この国って山や川が多いしらしいね、そうなの?」
考え込むリロイの隣で、エーリッヒは露骨に話題を変えた。
店主と付き合いの長い伊達は、店主の眉間にしわが寄るのを見逃さない。さしずめ不信感を抱いたのだろう。
事情を知っている伊達は、エーリッヒが応えずに済むよう口を開く。
といっても、大したことは言えなかった。
「俺のところこそつまらないとこさ。ありふれた田舎だよ」
エーリッヒほど重大な理由ではないが、伊達もまた故郷を語りたくはなかった。
いやがおうでも父の顔が浮かぶ。よくいえば堅実、悪く言えば頭でっかち。
伊達の故郷は美しい。ひどく不便だが、それを補って有り余る清い空気と緑があった。今の物事を楽しむ感性も、幼少の頃に自然と緩やかに付き合い、味わう心をはぐくんだからだ。
だからこそ、のびのびと羽根を広げたがった伊達は父を反発した。
音楽家など世に顔向けできぬ水商売と言い放ち、己を殴り飛ばした父を思い出すと、美しい思い出まで汚れそうで胸がふさがる。
あまり積極的に思い出したくない場所だった。
これに意外にも、リロイが不服を述べた。
「ルシィが生まれたところは田舎も田舎でしたが面白いところでしたよ」
「るしー?」
「うちのリーダー」
唐突に飛び出た名前に店主がこっそりエーリッヒに問う。
リーダーであると聞いた店主は、ほうと感嘆の声をあげた。
「他にもメンバーがいるのか。かわいい響きの名前だが、その子もわざわざ遠い国から? 外といったらコートに洋服に、華やかな印象があるんだが、そんなに田舎なのかね」
「田舎っていう表現があうのかわからないぐらい、田舎だねえ」
自分以外となれば口が軽い。調子のいい奴だ。
伊達はエーリッヒの脳細胞をちょっぴり殺すことにした。後頭部を小突く。
「いたいよ!」
「そういじめてやるなって。んで、そこまで辺境となると、珍しい生き物がいたりするのか?」
「あー、いたねー、野生動物とか寄生虫とか。家がボロくて風の強い日なんか崩れそうでハラハラしたよ」
「ひゃあ、おっそろしいところだな」
店主が想定していたのは、色鮮やかな鳥や珍しい小動物といった、喜代が嬉しがる話題だったのだろう。
こわばるエーリッヒの後頭部を早くも追撃が襲った。
「エーリッヒ」
「だからいたいよリロイ!」
「言い方が悪い」
「あー。確かに恐ろしい響きだから怯えるのも無理ないよね」
「そうではない。ルシィの故郷が誤解されるのが」
リロイが不機嫌になった理由をおくれて理解したエーリッヒは、渋面になった。
酒の入ったグラスから手をはなして、そっとカウンターに押し返してうなだれる。
「ああ、うん。ごめん。寄生虫っていっても人にはつかないよ。鳥に寄生して、すごい綺麗な歌を歌わせるんだ」
「はあ」
「なんていおうかなあ。えー、活性?」
「脳内麻薬の生産」
「そうそう。ルシィにいたとこの寄生虫はそうやって鳥に寄生して、とってもいい気分にさせることで素晴らしい求愛のを歌わせるんだ」
「歌を?」
そういえばルシィが故郷の鳥の話をしていたな。伊達は思い出す。
まさかその裏にそのような生態が隠されていたとは思わなかったが。
「宿主を食い尽くしたあとは生まれたての新しい命にうつる。二、三代繰り返したら強い卵を産んで死んじゃうんだって」
「残酷なことだなあ」
「生き物の知恵です」
伊達はついついそういってしまうも、リロイはこれも一刀両断した。
否定はしない。
少し土のあるところでは小さな動物たちが泥と草をすすって生きている。人間だって他の命を食らっているのだ。
一見ひどいことに聞こえても、彼らは彼らの命のことわりがある。
伊達は口を閉じた。
「文化が未発達の国のことを、未開人と呼んで馬鹿にする人たちもいますが。そういったところにはそういったところで、強みがあるものです。たまにルシィみたいな化け物が生まれることもある。そういった国だからこそ育つ感性や知識だってある」
伊達や店主の態度が、リロイの何らかの琴線に触れたらしい。
彼は心持ちすわった目つきで、つらつらと舌を回す。
「ああいった国はね、自然がとても近いのです。だからか、ルシィもとても感覚的だ。彼女の音楽への陶酔は、シャーマンが神へ祈る際のトランスにも似ている」
酒ははいっていない。はずだ。
いきなりよくしゃべりだしたリロイに、店主もおののいて言葉もでなくなっていた。
声をかけていさめようにも、殺気立ってすらいて、かたに手をかけることすらためらわれる。
「森の緑は青々と茂り、虫や鳥がわが物顔で空をかける。命の脈動をじかに感じ、繋がって生きてきたのだろうな、と。時々、生まれながら親しんできた環境の違いというものをまざまな実感させられることがあります」
「確かに、ね」
先ほどまで伊達が思っていたことと似ている。
もしも、伊達のなかに故郷ではぐくんだものがなければ。あの試験で奏でたような音色にはなるまい。
別のものでもよい音楽を目指しただろうという自負はある。
それでもまったく同じには、絶対にならない。
うっかり肯定したせいか。リロイの弁に熱が入る。
いよいよまずいとおもい、早くも酒が抜け始めたらしいエーリッヒが勇気を出した。
「ちょっとリロイ」
「この国にもヤオヨロズとかいう文化がありましたが。似たようなものです。空飛ぶものには空飛ぶものの、地を這うものには地を這うものの。人に獣に虫、それぞれのことわりとちからがある。
己にはないちからを恐れ、敬い、信奉する。科学や文化も素晴らしいことですが、そういった感性でなければ触れられない領域を、彼女は持っている。私はそれがルシィのいう信仰なのだと思っていますが――」
「おう、わかった、わかった。悪いが何をいっているんだか俺にゃあさっぱりわからんが、ひとつだけはっきりわかったぞ」
残念ながらエーリッヒの静止にはかけらもちからがなかった。
結局、リロイの熱弁をとめたのは、店主の両手を打ち合わす音だった。
店主とリロイが目を合わせる。
がたいのよさもあって、平時でも威圧感のあるリロイに、店主はにっこりと笑いかけた。
「アンタ、その娘っこをよほど気に入ってるんだな」
「当たり前です。でなければ、ここまでついてこない」
迷いはない。
聞いている方が気恥ずかしくなるほどの潔い首肯だった。
「なるほどなあ。芸で食っていくような奴ぁよっぽどだろうと思っちゃいたが。こりゃあしたたかだわな」
頭ではなく心で理解した。
ウンウン頷く店主に、なんとなく自分たちを理解してもらえた気がして、伊達は口元を緩める。
そして音楽を愛するものとしての自分が顔を出しているのに気が付いて、人目もはばからず頭を抱えた。
「アッ、俺、今日は音楽を忘れてゆっくりしようと思ったのに!?」
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