第6話 信仰
バンドに入って二週間と数日。伊達は久々の休日を迎えていた。
時刻は既に朝と昼の間にある。
伊達が布団からはい出したのは、目が覚めてからたっぷり一刻もした後だった。
決して身体の調子が悪いのではない。
ただ、本当に、随分と久しぶりに休日を迎えた気がして、妙に呆けてしまった。
一週間ごとにきちんと休日は設けられているのだが、最初の二週間は泥のように眠るか楽器をかき鳴らすばかりで、休日も休んだ気がしなかったのだ。
「そろそろいくか」
しかし、休日であるという実感に心身が追いつけなかっただけで、何もやる気がないわけではない。
伊達は過ぎ去ろうとしている午前にひとりごち、毛布を蹴り飛ばしてはね起きる。
むしろやる気はみなぎるほどだ。ぱっちりとさめた頭と、一度決めればよく動く手足は、伊達が十全の状態であると主張していた。
やっと《オーリム》に慣れてきたのかもしれないな、と伊達はにやける。
たとえ自分にどんなに言い聞かせても、無意識であっても疲れや不安が残っていれば、本当に抜群の状態にはならない。
何事も経験と慣れである。ようやく心と体が余裕とペースを覚え始めたらしい。昨晩、早くに寝たのもあるだろう。
そうしたのは伊達は喫茶店:《ミモザ》の一件以来、次の休日にやろうと決めていたことがあったからだ。
伊達は顔を洗い、インバネスコートをはおって家を出る。
家を出る前に、リロイにもらった地図を握り締めて。
出てみれば、からっとした風が吹いていく。白い雲が青い空に鮮やかな快晴だ。
地図と何度もにらめっこして伊達は目的地に向かっていく。
背中に太陽の光を浴びるほど、ますます意識はさえ、気分も晴れ渡る。新しい一日には絶好の日和だった。
「ここら辺に来るのは初めてだが、なんだ、平和なもんじゃないか」
ルシィがいると示されたのは、宵路横丁と呼ばれている街外れにある場所だ。
吹き溜まりとも評される。
娼婦に浮浪者、薬物中毒に異形の人々が過ごす薄暗い通りだ。
どこを見ても痛んだ家屋や古びたござ、糸のほつれた布、鼻が曲がるような異臭が転がっている。
物乞いがござのうえからこちらを見、中毒者が柱の影でよだれを垂らす。
それは確かに恐ろしいものがあるが、朝の宵路横丁は人の足音が聞こえるほどに静かだった。
「すみません、ル……地図をもらってうかがわせていただきました」
そのうち伊達は小さな家屋の扉を叩く。どこで誰が聞いているとも限らない。名前を言いかけたのを抑える。
こんなところに、異国人とはいえあれほど華奢な少女が住んでいると知られたら。意に反さず下種な想像が働く。吐き気を催す想像だ。
緊張と期待に胸を膨らませる。変なことが起こらないうちに、早く誰かに出てきてほしかった。
しかも、秋も近い季節だ。晴れてコートも来ているとはいえ、心なしか肌寒い。
しばらくすると、扉が今にも壊れそうな軋みをあげながら優しく開かれた。
「ああ、いらっしゃい。待ってましたよ」
「……リロイさん?」
白いシャツをまくった彼がそこにいた。
リロイは、意外な人物の登場に目を白黒させる伊達にかまわず、首を動かす。中に入れ、という動作であるようだった。
「そこで立たれて詮索されるのも面倒なので、どうぞ中へ」
「あ、はい」
いわれた通りに中に入る。
中も見た目通りの古さで、あちこち壁の表面がはがれていた。
そこには枝や布で編まれたよくわからない――まじないかなにかだろうか――輪や人形のようなものが下がっている。
はっきりいって異様な光景だ。
「ルシィはまだ寝ています。起こしてくるので待っていてください」
薄く香る薔薇の匂いといい、まるで奇妙な異国に迷い込んだような心地だ。
気圧される伊達を置いて、リロイはひとことだけ残してさらに奥にある別の部屋へ向かっていく。
彼は行きがけにフライパンを片手に握り、二つ並んだ部屋の右の方へ入った。
数秒後。カンカンカン! 鋭い耳を持つならば誰しもとっさに耳をふさぎたくなるような、甲高い音が鳴る。
もちろん、伊達も思わず両耳をふさぐ。
そしてそれより早く、左右あるうち右の部屋から、悲鳴があがった。
可愛らしい女性が泣き叫ぶ声だ。
反射的に飛び込むと、耳元でフライパンを叩かれ、両手で耳を抑える黒髪が視界に入る。
むき出しの褐色の肩も。
「あああ、なんて粗雑で耳に痛い、リズムもクソもない音! でも家庭的な音色かもしれないィ」
「ほら、ダンテくんが来てるぞ、起きて」
「あーうー……あと五分、あと五分で絶対起きるから、お母さん」
「お母さんじゃない」
リロイの広い背中越しに、シーツを握りしめて丸まる姿が覗く。
伊達はなんだか気まずくなってそっと離れ、玄関のすぐそばにあるキッチンによった。
どうやら玄関からそのまま食卓になっているつくりであるようだ。
恋人や家族でもない少女の裸体を見たなど、あるまじきことである。認識できる範囲から肌色が消えて、小さく安堵の息を吐く。
そんな青年・伊達はさておき、どたどたと室内を小さなものが駆け回る音がしばらく続いた。
落ち着いた頃に、ひょっこりリロイが顔を出す。
あわただしい少女をどうにかして疲れているのか、人前で浮かべる人の好さそうな笑顔は全くなかった。
「すみませんね、見苦しくて」
「い、いえ! こちらこそ午前中からおうかがいしてしまって、ご迷惑をおかけします」
「きていいといったのは彼女でしょう? まあそのうち起きてきますから。朝食はもう?」
「……そういえば忘れてました」
ルシィの家に行くのだということで頭がいっぱいで、すっかり失念していた。
思い出したように空腹を知らせる腹の音が響く。
蛙が潰れたような訴えに、無表情だったリロイが苦笑する。
「簡単なもので構わないなら、ルシィもまだなので一緒に作ってしまいましょうか」
「ありがとうございます! おれも手伝います」
上着を脱いで腕をまくる。
しかし振り返れば、キッチンにはまだ洗い物の皿がいくらか残っていた。伊達は気にしなかったが、リロイは露骨に顔をしかめた。
「夕飯はルシィの担当で。味はいいんですが、これといい服といい後片付けと掃除は放っておくとどんどんためてしまう。まったく、困ります」
「リロイさんは……その、ルシィさんと一緒に暮らしているんですか?」
苛立たしさを隠そうともせず愚痴るリロイの言葉は、ルシィの私生活を知っている人間の台詞だ。
紳士らしさのない好奇心に負け、思い切って聞くと、にやっと口角を吊り上げられる。彼にしては珍しい笑い方だった。
「その調子で臆さずどんどん聞いて下さい」
「は、はい!」
「いい返事ですね。といっても、音楽の話ならですよ? プライベートではなく」
「すみません」
「おや、恥じるのですか。この惨状を見て己を恥じ入るだけの謙虚さがあるとは」
「うーるーさーいーよー」
リロイが皮肉で褒めれば、まだ室内にいるルシィから非難が飛ぶ。
薄そうではあるが、壁で隔てられているというのに。至って普通の声量で行われていた会話を聴きとっていたのか。
驚愕にぎょっとする伊達と反対に、リロイは肩をすくめる。
その動きに伊達も察する。今の褒め言葉は、伊達を褒めたのではなくルシィをけなしてのものだったのだ。
「自覚があるなら改善しなさい」
「リロイがやればいいでしょぉ」
厳しい叱責ものらりくらり。
ルシィはまともに聞く様子がない。
いつものことらしく、鼻を鳴らすようなため息をついたリロイは彼女の相手をやめる。代わりに伊達の問いに答えた。
「ともかく。あなたの言うとおり、同居、そういう形になりますね。いまのでわかってでしょう?」
「ええ」
「生活能力はほぼ皆無なくせにあれこれやりがたるから目が離せません」
「まあそういわず。優れた音楽家には片付けが下手な人が多いと聞きますし」
「慰めのつもりかもしれませんが本人のためになりませんよ。彼女は人としてはおおいに問題があります。音楽としては最高ですがね」
手早く皿を洗い、先ほどたたき起こすのに使っていたフライパンを取り出す。
持ち上がった腕に水に濡れた時計が光る。
帯の部分は赤い革で、長く使われているものにのみでる艶があった。
「腕時計、外さないんですか? 預かりますよ」
「これはいいのです」
うっかり外し忘れたのだと思って手を出すと、腕を離して拒絶されてしまう。
「彼女があれですから。私はしっかり時間を意識するようにしているんです。でないと練習時間も帰る時間もめちゃくちゃになる」
そのまま時計盤を見て、ああそろいえばそろそろだ、と呟く。
なんのことだろうと思っていると、突然ピアノの音がぽん、と薄い壁越しに届いた。
時の流れが遅くなっていく。
その音色は気品をともなって優美。極上のベルベットのような手触りで始まった。
音は滑らかな曲線を描いて浮いて沈みを繰り返す。
小さく柔らかなフリルをひらめかせ、大理石のうえを買ったばかりの靴で踊る少女のような甘いメロディ。
そこにはたっぷりのバニラとミルクの香りが漂う。
幼い少女の甘い夢。永遠に続く黄金の朝の如く時の流れを低いピアノの音が編む。
「……パヴァーヌ?」
しっとりとしたピアノに聞き入っていたが、ふと違和感を覚えてしまった。
これはクラシックだ。
弾いているのは間違いなくルシィだろう。
一応でしかない程度にシャツを羽織って、演奏に陶酔する彼女の姿が目に浮かぶ。
しかし、クラシックである。
「割と最近の曲です。確かタイトルはいにしえの……おや、気になっているのはそういうことではない?」
「はい。これはクラシックですよね? そちらもこんなにお上手だとは知りませんでした」
ジャズが劣るとは思わない。しかしその格調高さもあってどちらかといえばクラシックの方がよく聞かれる。この腕前ならば大劇場での演奏も狙えるのではなかろうか。
そう思いかけて、首を振る。そこではない。彼女はジャズピアニストなのだ、名誉を望む演奏家ではない。
「驚きますか、意外だな。ルシィは割りとなんでも弾きますよ。大体朝はクラシックを一曲弾いてから、あとは基礎メソッドの練習ばかりです」
「当たり前ですが……ルシィさんほどでも基礎を練習するんですね」
「本当に当たり前ですね。基礎をおろそかにしては積みあがるものもあがりませんから。第一、アレがジャンルにこだわるタマですか」
焦って追いつくことばかり考えていた自分を叱咤されたようで、びくりと跳ねる。
己の未熟の気まずさとピアノの麗しさがまたおかしな心地だ。
沈黙がなんとなく気まずくて、演奏を遮るのもいやで、小声で口を開く。
「怒られたりはしないんですか?」
「あまり。ここらへんは出かけて仕事を受ける娼婦の方が多いらしいんです。だから夜に出かけて朝は泊まり、昼前に帰ってくるそうで。壁は薄いので時折怒鳴られますけれど」
「はあ、なるほど」
「こういう環境だとルシィも過ごしやすいようです」
そこで演奏がとまった。
数分ほどして、シャツにベストといつもの格好をしたルシィがのそのそと現れ出る。
「おはよォ」
「顔洗ったか? 服はかごにいれたか?」
「ぜんぶやりましたー、あさごはーん」
無駄にくるくるとまわって食卓につく。
リロイはその小さな頭を軽く小突いて皿を並べる。
二人は特になにもいうことなく食べ始めた。
やや勇気を出しつつ手を合わせて「いただきます」という。
すると二人は顔を見合わせ、真似して手を合わせた。そして食べながらルシィは単刀直入に問う。
「えーっと、それで? 何かぼくに聞きたいことがあるの?」
「あ、はい! すぐにとはいいませんが、少しでも追いつきたくてうかがいました」
「ふーん。でも追いつきたいっていうか、上達したいっていう心意気でいいんだよ」
「ええ、素晴らしい演奏をしてくれれば、技術を盗むだけ盗んでよそにいってくださってもいいのです」
「そうそう」
おいしそうに目玉焼きをほおばって、にこにこ伊達を見つめている。なにか期待する目だ。ここ最近で伊達もようやくこのバンドがわかってきた。
「おれは、このバンドがいいんです」
「ふふふ」
そういうと思っていた、という様子で笑う。
伊達自身、これを言わせたかったんだろうと思っていたからはっきりいった。
リロイは茶番に呆れ、パンを切り分ける作業に入る。
「えーっとォ、ねぇ。とはいっても、ぼくもそんなひとにうえから教えてあげますっていうの好きじゃないんだよねぇ」
「だからといって、来ていいといっておきながら何もしないというのも」
「だよねぇー……」
ぎぃぎぃと足を延ばして椅子に体重をかけ、揺らして遊ぶ。
それをリロイに片手で止められ、ぶぅたれる。
「うーん。いやさぁ、ひとにああしなさいこうしなさいっていわれたところで、それってきみの音じゃないでしょ?」
「おれの音? ベアトリーチェさんの深い音色やエーリッヒさんの楽しそうな音、みたいな?」
「おお? わかってるじゃない?」
同じ楽器でも人によって音色は全く違う。
悲哀に満ちて慈悲を奏でるヴァイオリンがあれば、歓喜と愉悦に満ちたヴァイオンもある。
珈琲ミルをひき始めたリロイの黒い腕をみて、彼のサックスを思い出す。
まさに炒いったコーヒーや割ったばかりの薪をくべる様を思わせる演奏だ。
熱く焦げるようなものがありながら、それを親愛なるものとして受け入れている、熱と冷静さが共存したサックス。
「そうだな。多分、変にあれこれいうよりぼくのありかたを聞いた方が早いだろう。あのね、ぼくの音楽にはね、信仰があるんだ」
ルシィは伊達の言葉を聞き、立ち上がって壁に手をそえた。神社の絵馬を思わせるさげられかたをした大量の人形のひとつをもつ。
「ぼくだって悔しい思いをしたことは何度もある」
「本当に?」
若く見える東洋人とはいえ少女にしか見えない彼女とその腕前を思う。
だがルシィは迷わず頷く。
「例えば鳥の歌声。生まれつき歌を歌うものはメロディを考えたことなどないのに聴くものを恍惚とさせる。心を動かし、鮮やかに響く。ぼくの故郷にも鳥がいたが、それはもう素晴らしい歌声でね、彼らが求愛の歌を歌うたび、激しく嫉妬したものさ」
「……しかし彼らは元々そういうものですよ?」
「そう、その通り! 彼らは生まれつき音と直結している! 音が命そのものとしてある。理屈も技術もないのにあれほど美しい、圧倒的とはあれのことだとも」
技術をもって鍵盤を叩き、知識をもって音色を紡ぐ。
センスや才能もあるだろうが音楽家とはそういうものだ。
「ぼくのうまれたところは名前も知られないような寒村だった。そういうとこのお決まりみたいに、土着の信仰のようなものがあった。
太鼓を叩いて神に平和と豊穣を願う。その太鼓はいつだって同じようなリズムで優れた技術なんてものはない。
でも、いわば原始的な、熱い何かがあった。きっと祈りなんだろう。遠い遠いところにいる神様に届きますようにって必死に、祈る以外を忘れて叩くんだ」
音が人を震わせるのはなぜなのか。確かなのは技術だけではないということだ。
その想いは人々に深く根付いている。そのはずだ。なのに、ひどく近しいのに手に取れない。
だから彼女は悔しがる。
「ぼくは神様を信じているわけじゃない。でも音楽という命への信仰があるんだ。きっと人間にだって命そのものの音色が奏でられる、ぼくの鳴き声がきっとある。音を奏でて楽しむんじゃない、楽しむことを音に!」
その目は飾られたまじないを通し、姿なき何かを望んでいた。
――ああ、これが彼女の信仰なのだ。
偶像はそれを忘れさせまいという誓いのしるしなのだ。
そういう音楽が存在するはずで、己に祈ればたどり着くという願い。
「考えるより先に音を。命を音に。そこに顔はいらない。音は音」
我を殺せっていっているんじゃないんだ、という。
むしろ逆のことをいっているんだ、と。
「音には個性がある。その個性を極める。我そのものを音にする。音という我にするの。ああ、伝わるかなあ。とにかくそういうことなんだ。きみはきみの音楽を見つければいいんだ。それがぼくの喜びとなる」
ルシィはピアノのある部屋をさす。
すっかりからになった皿をリロイが下げていく。
からんという無機物がぶつかり合う音が鳴った。
「ああそうだ、弾こう。ぼくたちの音楽を、ひたすらに。きっとぼくのなにかが伝わるだろう。そうすれば、いつかどこかに辿り着くだろう。この生活でさえそのためになる。あらゆるものをつぎ込もう、すべては素晴らしく幸福な音のために」
ただ音楽家としてあり続ければ、弾き続ければ。それだけができることだろうと彼女は部屋に伊達を招く。
彼女はどこまでも音楽家なのだ。
伊達にもあるだろうか。そんな命の音楽が。
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