第5話 悩める雄山羊たち
正午を過ぎ、今日の練習を終えた伊達はゆったりと道を歩いていた。
約二時間程度の休憩時間だ。夕方にはライブハウスで集合し、演奏をして、夜が深まる前に帰る。
そんな日々が早くも一週間を過ぎていた。
かつての自分は本気で音楽に取り組んでいたのだろうかと思うほど、毎日くたくたになってベッドに飛び込む。
なにも本当に努力していなかったわけではない。
格上の演奏者に囲まれて、無理矢理にでも底力を引き出させられているだけだとはわかっていた。
心地よい疲れではあったが、実力差が埋まったわけではない。
その事実は明確に心をすり減らす。
「寂しくなるなあ、はあ」
彼らは演奏以外では容赦も情けもある。
だからこそ、実力が足りないから輪に加わりきれないことがより如実になってしまう。
バンドのメンバーといってもまだ名前だけだ。
「お兄さん、暗い顔してどうしたの?」
やりきれないため息をもらす伊達に、甘い声がかかる。
洒落た派手な模様、まるみを帯びた腰を強調する服を着た女が寄り添うように立っていた。
娼婦である。
にぎやかな表通りからは逸れた道だ。そう珍しいことではない。
伊達はなるべくにこやかに笑って、左右に手を振った。
「ああ、いや違うよ。自分のことさ。悪いね、お嬢さん」
「アラ、謝ることなんてないのに」
くすくす娼婦は悪戯な笑い声を残し、自分がやってきた路地裏に戻っていく。
動くものを無意識に目で追う。路地裏には同じ娼婦と思わしき女が数人、地面に直に座る浮浪者が数人、建物の影、昼間の暗闇に潜んでいた。
一見華やかになっていく街の裏にある生臭いコントラストに何とも言えない気分になる。
倫理や道徳に押し込めれば、あまりよろしくないのだろう。
浮浪者には薬物でもやっているのか、酷く目つきが怪しいものもいる。
不思議なことに、伊達はその空間が黄昏色のライブハウスに似ているように思えて、割と嫌いではなかった。
――ああいうたくましい生き方をするものもいるのだから、おれだっていつかどうにかなるだろう。
そう、一種泥臭い生命力をわけてもらえるような気がするのだ。
だからついこの道に足を運ぶ。
目をつけられる前に路地裏から目を逸らし、本来の目的地に向かう。
《喫茶:ミモザ》だ。
「こんにちは」
伊達はベルを鳴らして店内に入り、気やすい声をかけた。
すると女給の娘さんが、しゃっきりと芯の通った返答をくれる。
当然、喜代である。
「いらっしゃいませ!」
どこぞの有名喫茶を真似したのだそうで、女給たちは色友禅の単衣に赤い帯を締め、白いエプロンを着ていた。
刺激的過ぎる、はしたないというものもいるが、伊達は大変よい文化だと歓迎したい。
「あ、伊達さん。今日もお疲れですか?」
「いやあ、まあ」
「でもこの前よりはずっとイイ顔してますよ、色男までもう一歩ですね! あの時はあんなこといっちゃいましたが、疲れたときはぜひウチでごゆっくり~」
喜代は相手が伊達だと気づくと、小動物のような愛らしい顔をほころばせた。
そして愛嬌たっぷりのウィンクをして、テーブルまでの案内のために伊達の前までやってくる。
燦々と照る陽光と電気を浴びた喜代とモダンガール達の表情は、ビジネススマイルなのだとしても晴れやかだ。
見ているだけでよい気持ちになるのは、男のさがであろうか。
全身に意欲と明るさをみなぎらせて働く娘さんを見ながら飲む
底意地を奮起させられる元気だけでなく、こういった溌剌とした若い美を愛でられる。
いつだってこの道は伊達にとって隠れたオアシス――だったのだ。
「今日はご友人も一緒に連れてきてくださったんですね! ありがとうございます!」
「えっ」
今日も一人で来たはずだ。
だが背後でなった扉に備え付けられた鈴の音色が、喜代の言葉を肯定する。
「すみません。様子が気になったもので」
「へえ、純喫茶ってやつだね。いやアルコールは出してるの? じゃあ喫茶? なんにせよキモノはやっぱりいいなー」
チョコレート色の木製扉から、二人の男性が入ってくる。
いずれもこの時代この国においては長身といえる。特に黒い肌の男は、迷信深い人物ならば巨人の血をひくといっても信じるかもしれない。
氷の妖精の如く鋭利な色を宿す容貌に、なつっこい犬のような表情を浮かべた青年は、男の後ろで青い瞳を輝かせている。
ロングコートを着て紳士然としたリロイは、多少申し訳なさそうに頭を下げた。
一方、となりできょろきょろ店内を見渡すエーリッヒは極東のアレンジに興味津々だ。
「な、なんでここに?」
聞かずとも先の言葉で大体わかる。
恐らく伊達の元気がないのを案じて、どこかで話ができないかとあとをつけてきたのだろう。
自分を心配してくれたのだと思うと怒りはわかない。
ただ自分のこっそりした部分を知られたのだという気恥ずかしさがあるばかりだ。
「あの、お客様。席にご案内します」
店の前で立ち話をされては困ると喜代が声をかける。
男の会話に口を挟むほどの思い切りがある喜代だが、さすがに見上げるほどに大きいリロイは本能的におびえるものがあるらしい。
こうして東洋人の少女と並ぶのを見ると、その偉丈夫ぶりがよくわかる。
身長は180センチ以上はありそうだし、肩幅もがっしり広い。黒い肌もここでは異物だ。
「ああ、すみません。お願いします」
リロイ自身、己がどうみられるか自覚があるらしく、人好きがしそうな穏やかな笑顔になる。
柔らかな物腰に少し安心した喜代は意気を取り戻して、テーブル席に三人を導く。
各々珈琲と軽食を頼めば、意気揚々とキッチンに向かっていった。
その背中を見て、リロイも今度は作ったものでない笑みをこぼす。
「素敵なお嬢さんですね。正直、容貌で露骨に態度を変えられることも少なくはないのです。しかしもうすっかりお手の物といった様子でいらっしゃる」
「リロイはああいうしたたかな女の子が好きなんだよ」
「お前は黙っていろ」
これだ。付き合いの年季の違いは仕方がない。それでもこうした言葉遣いの違いに溝を感じてしまう。
「はいはいごめんなさいね、そうだったそうだった。今回はダンテくんの相談に乗りに来たんだった」
「おれの、ですか?」
「もう、敬語いらない! 同じバンドメンバーなんだから変な気遣いは無用だって。リロイも丁寧なのはいいけどさ、敬語やめようぜ。僕はダンテくん結構いいと思うんだ」
「そうはいっても、まだ決まってはいないのに」
「ていうか言葉遣い違うと僕が混乱する」
「…………」
あえて道化ぶるエーリッヒにリロイは言葉を失う。
どうしてかはわからないが、エーリッヒは随分伊達を買っているようだった。
おどけても彼もまた卓越したフルート演奏者である。
その音色は湖面で遊ぶ妖精のように神秘的で歓喜に満ち、坂道へ一斉にガラス玉を転がすが如く繊細に跳ね回る。
特に一瞬も止まらず奏で続けることにおいては追随を許さないものがあり、見た目に寄らない肺活量と指遣いの巧みさに戦慄してしまう。
目を白黒させる伊達にじれったそうに唇をとがらす。
「前にもいったよね、技術は気にしないって。ルシィが言う通り大事なのは音なわけ」
――その音が鈍いせいで目立つのも嫌なんだよなあ。
合った息を乱す雑音は、もし聴く側であったら耐えられない。
「そうじゃないんだよなぁ。うーん、例えばこの間の募集のときさ、単純に考えれば一番欲しかったのはドラムだったんだよ」
確かにそういっていた。
ジャズであればドラムは当然欲しい。その点を考慮すれば、途中で切って落とされた一番目の彼が選ばれたはずなのだ。
「でもさ、彼は悪魔の音楽っていうみんなが評価するものについてきたがったわけ。まあ、評価が大事っていうのはわからなくもないの。でもさ、僕達の理想って、目をつぶったときと目を開けているときが同じ音楽なんだよ」
彼自身うまく言えないのだろう。
普段彼は音楽で伝える側の人間だ。わざわざ言葉という形を与えることに難儀なんぎしている様子である。
面白いぐらいに顔面の筋肉を動かし、形容をひねり出そうとするエーリッヒにリロイも口を挟む。
「舞台に近づいて、楽器をかき鳴らすからだのゆらめきや指に酔い、吐息をひそめて暗がりを楽しむ。静かな熱狂を他の観客と共有する……それもまた音楽の楽しみ方でしょうが、音楽そのものではありません。それはライブの楽しみ方です」
様々な形で存在する音楽を、よりシンプルに、より伝わるように、より洗練した形にするならば。
彼らはそれをそのまま『聴くこと』だと結論づけた。
明かされる彼らの思想。下手に質問を挟めなくて、手慰みのように手元のアイスコーヒーをストローでかき混ぜる。
「耳で聴く。心で感じる。音の響く空気に触れる。たとえ目をつむっても、本当に生きた音なら満ちる空気を叩いて隅から隅まで届くはず」
「そう、そうなんだよ。そしてあくまで本体は『音』なんだ、聞いていて演奏者の顔がちらついて、目を開けたいだなんて余計な誘惑にとらわれるようなのは嫌なんだ」
メロディが始まった瞬間に、自分たちがいる場所を張り詰めた糸がめぐらされた巣のようにして、音を伝達し、受け取るためだけの場所にしたいのだと彼らは語る。
――多分それは途方もなく遠くて、魔法のような奇跡。できるんだろうか。
《オーリム》がいっているのは時空を支配したいといっているようなものだ。生きた他人がいる時間と空間を。
あるいは彼らなら届くのかもしれない。
気が遠くなりかける伊達の肩にそっとエーリッヒが触れて、引き戻す。
「彼のドラムはきっと、聞いた人間に『顔を見ろ』といってしまう。僕が聞く限り、君の音は粗削りだが真っすぐだ。自分を出すより音を出すことに熱中してる。それこそが一番素晴らしいことだと思う」
あまりに熱心な説得に、伊達の方が照れてしまう。
目頭が火を灯したように熱くなって、声もなくこらえるはめになった。
「私も別にあなたが気に入らないわけではありません。本当に、そこまで気を重くしないことです」
「ありがとうございます。皆さん、すごく音が澄んでいるものだから、情けなくなって」
「最初からうまくできる人はいませんよ。エーリッヒだって途中でフルートに転向したくちです」
「えっ、そうなんですか!」
「あぁ……うん」
急に歯切れが悪くなったエーリッヒは、曖昧にごまかす。
笑顔を浮かべようとしたようだったが、口元がひきつっていた。
「僕ちょっとお手洗い借りてきまーす」
いたたまれないとばかりに席を離れて行ってしまう。
もしかして触れてはいけない話題だったのかとリロイを見れば、至って冷静な顔だ。
「聞かれても答えられないからでしょう。別段、気にしているわけではありません。あれだけ気に入った様子ですから文句はなくて当然。いずれ知ることです」
「答えられないが気にしていない、ってよくわからないのですが……」
「記憶喪失なんですよ。数年前に薬物摂取で障害を起こしたようで。《オーリム》に拾われる以前のことがわからないのです。元は優秀なヴィオラ奏者だった、と聞き及んでいますが、ヴィオラに触れると嘘のように手が震えるのだとか」
今は健康体にしか見えないエーリッヒの過去におののく。
まるでなんてことはない調子でいっても、実際の苦労は想像を絶するはずだ。
薬物は後遺症に苦しむものも多いときく。あの明るい青年がどうしてそんなものに手を出したのか。
リロイが軽い調子でいうのが信じられない。
忘れた方がいいのかと目を瞬かせていると柔く睨まれてしまった。
「何も悪戯で話したわけではありません。要は年季で決まるわけではないということです。死ぬ気でやればなんとかなる、というのは彼の体験談といってもいい」
「い、いやあ、それはそれで才能が」
「そんな言葉は聞きたくありません。別段無理にうちにしがみつこうとしなくてよろしい。相談があれば相談し、学びたい技術があれば学べばいい。盗む気で聴いて、見て、弾けば多少はのびもするでしょう」
努力をしないものには何もない。それをする気がないなら話にもならない。
そうリロイの話を解釈して、ふと気づく。
彼は伊達が諦めるとは微塵も考えていない様子なのだ。
そう素直に聞いてみると、彼はあの朗らかな笑みを取り戻す。
「ベアトリーチェがあなたはそういう音楽家だろうといっていましたから」
「ベアトリーチェさんが?」
「ええ。彼女のひとの目を見る目はなかなかです。そうだ、彼女に練習に付き合ってもらうのもいいのでは。私だっていいですし。ああでも、そうですね、」
どうして肝心のことに思い至らなかったのだろう、とでも言いたげな顔つきで急にメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書き込んでいく。
先日、練習場所の地図をもらった時も思ったが、慣れた手つきだ。
「これはルシィが借りている家の住所です」
「ルシィさんの? でも、いきなりリーダーにって、ご迷惑ではないのですか」
「よりよい音のためなら喜んで、と返すでしょうね」
さすがに四六時中一緒にいるのは嫌だ、と彼らは別々の場所を借りているとは聞いていた。
だがいざ地図を差し出されると受け取っていいものか迷う。個人情報ではなかろうか。
「東の人間の慎ましやかさは美徳だと思います。しかしいざとなると鬱陶しいですね」
さらりと毒づき、リロイはさらに地図を突き出してくる。
ここまではっきりいわれて断れるはずがなかった。
「ありがとうございます」
軽く頭をさげ、懐に地図をしまった。
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