第4話 朝が一番きついから
音楽というのはひとがみるほど自由なものではない。
適当に音を鳴らして並べるのは音楽家として、メロディを理解しているとはいえないだろう。
編み上げたメロディにも人によって好みというものがある。
だが、まずなにより厄介なのが、場所だ。
「意外と遠いもんだな」
伊達は一人ごちて、貰った手書きの地図を片手に右往左往した。
《オーリム》の練習場所を探しているのだ。
楽器の音はよく響く。自分たちにとっては心地よくても、それを騒音ととらえるものは多い。
彼らは街外れの一軒家の一室を使って練習しているとのことだった。
隣家は音楽をやっている金持ちが住んでおり、反対側は畑。時間帯を決めて使用し、各々使用料代わりに家賃を割って払っているのだという。
今まで場所や時間を念入りに選ばねばならなかった名もない音楽家には、非常に魅力的な話だ。
しかし、このままでは初日から遅刻してしまう。
余裕をもって家を出た。だが、道を行っては本当にあっているか不安になって見直しているうち、大変な時間がかかっていた。
焦る伊達は、地図と道ばかり気にして、後ろから近づいてくる人間がいるとわからなかった。
「お、ダンテくんだっけ。こんなとこまでお疲れ様ー、迷わず来れた?」
聞き覚えのある声に振り向けば、明るい金髪が太陽の光を受けてきらきら輝く。
道を通る人は二、三人しかいなかったが、その誰もがぎょっとして彼を見返す。
――こっちじゃまだまだ目立つっていうのに、帽子さえかぶらないのか。
それは生まれに恥じるものなどないという誇りなのか、それとも単に考えていないだけなのか。
《オーリム》のフルート演奏者、エーリッヒは刺々しい視線をものともせず、満面の笑みで伊達の隣に立つ。
「どう、調子は? 弾けそうかい?」
エーリッヒは挨拶もそこそこ、早速問うてくる。
あるいは純粋に、彼にとっては挨拶なのかもしれない。
他の話題の余地もなく、開口一番に音楽について話し出すエーリッヒに、伊達は苦笑する。
実力があるからこそ、堂々と好むものに没頭できるのだろう。いっそ清々しい。
「場所はおかげさまで。音の方は、えっと」
「難しく考えなくっていいんだぜ。僕たち、技術はそんな気にしないから」
緊張を和らげるようにエーリッヒは伊達の肩を叩く。
優男じみた容貌に反し、意外とちからが強い。
よろめく間に、エーリッヒは練習場所と思われる建物の前に行き、扉を開いた。
「ありがとうございます」
おかげで迷うことなく場所がわかった。彼は伊達が入るまで扉をおさえ、申し訳なさそうに伊達が潜りぬけるのを見守ってから己もなかに入る。
ちりん、と古くなって明瞭さを失った鈴の音が響く。
さびれた音色は、建物内のゆったりとした時の流れを示すようで心地がいい。
水で濡らしたようなこげ茶の木の壁はひとめでボロとわかる。
訪れるものを貴賤なく歓迎する、気取らない
「練習するのはこっちね。まあ多分、君が思うほどつらくはないと思う。午後は」
「午後は?」
「うん。正直、一番きついのは朝だから。色んな意味でね」
建物は玄関に入るとすぐに階段があり、左右に二つずつ部屋がある。
三階あるうち概ね同じつくりをしているそうで、彼がここといったのは一階の右奥だった。
そこからは既に軽やかなピアノ、深く重いコントラバス、抑えて弾けるのを待つようなサックスの音色が響く。
ピアノといえば、あの神秘的な黒曜石の瞳を持った少女である。
先日のメンバー募集を思い出し、思わず伊達の口から疑問が飛び出す。
「あれ、ルシィさんもう来てるんですね」
「ああーこの間の覚えてたのね。ルシィが遅刻するのはああいう面接だとか挨拶だとかだけだよ。むしろ弾けるっていうなら誰より早く来るんだ」
伊達の失礼な質問にもエーリッヒは人の好い笑みを崩さない。
二人は余計な音で邪魔するのを恐れて、片手で扉を抑え、ゆっくりと入った。
少しあけただけで、ぶわりと花開くような音があふれてくる。
紅茶のポットを開いたかのような、いきなりの芳香にたじろぐ。
しかし幸いにも新たな乱入者に気づいた面々は、演奏を止めた。ピアノ以外は。
「違う、違う……ぼくの鳴き声はこんなんじゃない」
高熱にうわつく患者のようにぶつぶつつぶやきながら、からだを揺らして鍵盤をたたいている。
今まで他に聴いたことがないほど透明で、澄んだ音。
それでいてしっかりと耳に入り込み、とらえようとした瞬間離れていく。
「重み深みはあっていい。でも地面の汚れを残しちゃいけない、指の腹で弾くんじゃない、からだで弾け、考えるより先に響くくらいじゃなきゃあ」
トゥシューズで草原を駆けるプリマドンナのように、ピアノの音色は跳ねて飛んで突いて回ってを繰り返す。
何にもとらわれず、誰よりも艶やかに踊る存在があった。
「ぼくが踊るんじゃないんだぞォ、音が、音がさァ!」
「ルシィ」
後頭部でまとめた黒髪をしっぽのように動かして、自分の世界に没頭する背中に声がかかる。
呆れた調子のリロイが、何度も声をかけ、ようやくピアノも停止した。
「……なに?」
「揃いました」
「ああ、なるほどね!」
不機嫌に歪んだ顔は一瞬で明るいものになり、ぱっと席をたつ。
はっとして伊達は軽く頭を下げた。
ピアノを弾く姿には圧倒されたが、こうして向き合うと至って素敵な少女だ。
華奢で少年にも見えるスレンダーな体型は、中性的な妖しい色気すら感じる。
見ているとベアトリーチェがすっとルシィに寄りそった。
ルシィと対照的な銀髪に青い瞳、高い身長、凛として冴えた表情は冬の女神のようだ。
改めてみると実に眼福といっていい光景である。
実力差に荒みかけた心が癒されていく。
「いやあ、待ってたんだよダンテくん。新しいメンバーが入る時っていうのはいつだってどきどきしちゃうね。きみはなに、ギター、ギターだっけ?」
無邪気に笑ってルシィは手を合わせる。
どうやら名前はダンテで決定しているらしい。
別段こだわるところでもないので、適当に愛想笑いを浮かべた。
正確に覚えられていないことはともかく歓迎されている、というのは悪くない。むしろ嬉しいことだ。
「まあアレ、自己紹介したっていいんだけれどさ、ぼく達音楽をしようとしてるわけ。どこで生まれた誰かなんて必要ないんだ、要るのは音。きみという音が知りたいし、ぼく達という音をわかってもらえればいい」
そういってすぐにピアノ前の椅子に戻る。
「さあ来たぞぉ」
エーリッヒが伊達だけに聞こえるようにささやき、彼のものらしきポジションにつく。
戸惑って視線を向ければ、リロイと目があった。
彼はやれやれといった調子で首を振り、申し訳なさそうに楽器を持ち上げる。
ベアトリーチェは弦に触れて目をつむり、集中している様子だ。
習って空いた席に座り、自らの愛器を取り出す。
――まさか、毎日これをやるってわけじゃないよな?
演奏を要求されているのはわかった。
だが打ち合わせなしに演奏へのやる気に満ちている空気にぞっとしない。
いやな予感に打ち震え、なおギターを構える。
途端、演奏が始まった。
――いきなり!?
指示もテーマもない。
始まった瞬間の「感覚」頼りに指を動かす。
ゆったりと、夜をのぼっていく月のようにはじまったピアノに真っ先に音を加えたのはサックスだった。
噴出しかける感情を抑えに抑え、獣に襲われないかと地の道を進む旅人の如く伏せた音色を奏でる。
その恐怖を煽ってコントラバスが不穏な風を吹かす。
気が急きそうになるなかで、急にピアノが音を跳ね上げた。
フルートが走り出す。一音一音を飛び出させ、追ってくるものの存在を旅人にどうしようもなく意識させる。
ここしかないと伊達は遂にギターを鳴かせた。
――止まれば想像を絶する何かが襲う。だがもしかしたら恐れがみせた勘違いかもしれないという希望もあった。
希望は「だがもし本当だったら?」という疑いを生み、混乱を深める。
そう思って加わったはいいが、いや、加わったからこそより如実に実感する。
音が鈍い。他のものを感じさせない音色を放つ面々のなかで、伊達だけが時折存在を表してしまう。
それは違和感であり、己を音に埋没させきれていない証拠だった。
――それでも、弾くのをやめたらはじかれる。
一度加わったからには生半可に抜けることは許さない。そう思う緊迫は、伊達が音楽を愛するものだからこそのプライドである。
音楽家であるには、ここで諦めてはいけないのだ。彼の忍耐と執着が試されていた。
――演奏を始めて何分経った、あとどのくらい続く?
極限まで振り絞った集中力と精神が摩擦を起こして、焼き切れていく。
救いを求めて一瞬見渡しても、誰も合図ひとつ出そうとしない。
あるのは全力で打ち込む姿勢と、時折交わされる視線だけだ。
様子をうかがおうとちからをぬけば、あっという間に移り変わるリズムに置いていかれて戻れなくなる。
冷や汗が伝う。
だんだんと目の前がちかちかとまたたき、黒いものを映し出す。
――もうだめだ!
そう弦を離そうか、数十回ほど悩んだところで、唐突に音が収縮しだす。
楽器がひとつずつメロディから去り、草むらに一滴の重い水を垂らしたようなピアノで、終わりを迎えた。
「……うん、まあ、ギリギリ悪くないかなあ」
いじけた子どものようにルシィがつぶやき、鍵盤から手を離す。
本当に終わったのだ!
安堵とともにどっと汗がふきだす。全力で疾走した後のように心臓がばくばくと血液を送り出していた。
こっそり懐中時計を取り出して盤を見てみると、まだ八分しか経っていない。
驚愕し、座っていなければ膝から崩れ落ちそうになるダンテに、ベアトリーチェが近づいてきた。
「いっておくけれど、慣れたらこれを毎朝三十分やることになるわ」
「さんじゅっぷん」
ベアトリーチェが声をかけてくれた喜びを味わうこともできず、どっと疲れが押し寄せる。
「即興でやる演奏の練習よ。本当に、毎日やるから」
とどめを刺すように、ひとつずつしっかり言い聞かす。
青ざめるのが自分でもわかったが、それでも伊達はギターを手放さなかった。
その様子を見たベアトリーチェは唇を噛む。
「まったく、これだから音楽家ってやつは」
喜びと嘆きが入り混じった奇妙な響きだった。
首を傾げると、ベアトリーチェは一歩伊達から距離をとる。
「これが終わったら、あとは普通の練習。序列なんて何もないから、好きにいってくれればいい。弾き方でも、やりたい曲のリクエストでも」
「……それっておれもここにいていい、ってことでいいのかな?」
「お好きにどうぞ。ああ、水はあっちで飲めるから」
素っ気ない口調で、だが伊達を気遣うように、乾いた喉とからだを癒すようねぎらう。
どうしてかベアトリーチェは伊達がここにいることを好ましく思っていないようだ。それでもこうして接してくれることに、まだ名前もない期待をしてしまうのだった。
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