第8話 雨に願えば

 その朝は、素晴らしく澄んだ朝だった。

 昨夜から雨が降っていたのだが、眠っている間に小雨に落ち着いたらしい。

 霧のような白い靄が街をおおっている。宙の汚れが落ちて、何にも邪魔されずに音が響く。

 靴が地面を叩くのさえカツンと小気味いい。

 目覚めたばかりの人々のささやき声が重なって、これ以上ないほど薄く細やかなレースのようなコーラスに思える。

 電気かガスのスイッチを押すカチッという生活音まで聞こえてきそうだった。


――こういう朝はすごく調子がいい。自分の感覚まで霧雨に乗って飛んでいくみたいだ。


 雨と晴。どちらも違って、どちらもよい。

 昨日は熱が出て一日寝込んでいたのも、体調がいい要因かもしれない。

 ルシィの家を訪ねたあと、彼らは延々と演奏し続けて疲れが出てしまった。

 昼を過ぎ夕日が沈んでもたまに水分や食事をとって、あの音がよかったこうすればどうかと話し、また楽器を鳴らす。

 熱狂に任せて当日はあっという間に時間が過ぎたが、家に帰ったとたん倒れるように眠り、次の火から熱が出て二日。練習に顔を出すのは三日ぶりになる。

 体中の毒素が吐き出されたようだった。


――一応リロイさんに連絡したけど、怒ってないかなあ。腕も鈍ってないか気になる。


 猫の手の形にして、自分の爪を見やる。

 たかが三日、されど三日。実感として、一日練習を欠かすとその分を取り戻すのに三日かかる。習慣と積み上げというものはばかにならない。

 思い出すと気分が落ち込む。せっかくの好調を崩す理由もない。伊達は首を振って余計な暗雲を振り払う。


「こんにちはー」


 いつもよりかなり早めに練習場所につく。遅れを取り戻すためだった。

 疲れはしたが、あの日ひたすらに、無我夢中で奏でて、何かつかんだ気がしたのだ。それをものにするにもやはり実践が一番いい。

 まさか誰もいないだろうと思いながら挨拶をすると、練習場所で誰かが動く気配がした。


「あら。随分早いのね、からだは平気なの」


 そっけない口調で、しかし明確に伊達を心配する旨の言葉をかけたのは、ベアトリーチェだった。

 今日も品のいい青いスカートをはいて怜悧な鋭気を放ち、弓を持つ姿は一本の剣のようだ。


「ぐっすり眠ったのですっかり! その分練習しようと思って」


 どきどきと波打つ心臓を隠し、さわやかな笑みで意気込みぶりを見せた。

 なぜか冷たいとはいえ、伊達のなかには、あのトランペッターの家の前で弦楽器を携えた姿と音を覚えている。

 悲しい旋律、美しい立ち姿、慈愛に満ちた口調。どれも嘘とは思えない。

 伊達にだって、ものを感じるための五感、特に聴覚には、それなりの実力があるつもりだった。

 ベアトリーチェの前に立つと幼子の伊達が顔を出す。

 小さなコミュニティのマドンナに話しかけられたような緊張を覚えるのだ。

 今、目の前のベアトリーチェは伊達の内心を知ってか知らず香。

 もう敬語が取り払われた淡白な物言いを返す。


「そう。立派ですこと。ルシィに付き合わされたんですって? 疲れたら断らないと丸一日ぐらいは延々続けるわよ」

「いやあ、とっても楽しくて疲れているのに気づかなかったんです」

「へえ」


 伊達の返事にベアトリーチェは静かにまつ毛を伏せ、ヴァイオリンを構える。


「本番以外でエーリッヒにあまり聞かせたくないから。今のうちに練習したいの」

「あ、記憶喪失なんでしたっけ」

「ええ。あまり思い出させるようなことはしたくない。あなたも構わず練習してちょうだい」


 いい終わるやいなや彼女は早速弓を動かす。

 なめらかな毛皮をもつ小鹿のような軽やかさだ。華麗に、とらわれることなく、遠いところで森を自由に奔る。

 決して追従することも、かといって無様にむやみやたらと反骨することもない。

 彼女の音色はいつだって、西洋の深き森の奥にたたずむ貴族の令嬢を思わせる気高さだ。

 耳を傾けるだけで研ぎ澄まされた美に陶酔してしまう。


――それが彼女の音の素敵なところ、なのはわかる。


 しかし、その気高さ、いいかえれば孤高さが伊達には哀しくなる時がある。

 彼女の音楽という令嬢は人に心を許さない。そして彼女の音という小鹿はいつも他人と距離をとる。

 あくまで一方的に聴くことだけを観客に認めさせてやるのだ。

 ライブの演奏のなかでだけ、バンドのメンバーのみに彼女は寄り添う。


――そうだ、今日は調子がいいんだ。やってやろう!


 ベアトリーチェの音色に聞きほれているうち、大胆な欲望が鎌首をもたげる。

 いつもなら己に謙虚を義務付け――あるいは卑下ともいう――、理知で抑え込む音楽家の欲望。

 だがこの日は絶好調だった。病み上がりで変に気分が高揚してもいた。

 たまに調子に乗るぐらいは自分に許す。他のメンバーにだってもっとやっていいと言われたのだから。そう自分に許してしまう。


 幼い頃の悪戯に明け暮れた悪ガキの気分で、ギターの弦をはじく。

 まだ一音だというのに、ぴくりとベアトリーチェの麗しい眉がはねる。

 なるべく明るいメロディをベアトリーチェのヴァイオリンに合うように重ねようとしたのだ。


――無邪気に一番楽しかった頃ってどんなだったっけ。


 大人になると生活するために金を稼ぐことや恥を耐えることを考えることが多くなった。

 なにも構わず、どうしてかも考えないで当たり前に信じることをしていた幼子の頃に思いをはせる。

 自分が悲しむことなんてなにもないのだと、ベアトリーチェもまたのんきに楽しんでくれないかと願ってのことだった。


 平和な日常。心のなぐ縁側の日当たり。苦しみがほどけるまどろみのなか。


 朝に急いでごはんをかきこんで、乱暴に靴を履いて家を飛び出す感覚。何もわからないが次に何が起こるか楽しみでならなくて、家をでれば何か楽しいことが待っているという感覚。


 伊達にとっての穏やかな幸福の光景を胸に浮かべ、音色に込めていく。

 伊達の故郷。ベアトリーチェには、いったい何が見えただろう。

 混ざり合う音色から、ベアトリーチェの動揺が伊達へ流れ込む。


 ベアトリーチェの心の深奥、がっしりと根付いた原風景は、とても落ち着いたものだった。

 伊達は長い時を経た巨木、背が高く荒々しい幹をした場所に、一人でかけていくような感覚を味わう。

 ひとりぼっちで。だからこそ何もかもが自由で。こじんまりとした、冬の森の美観。

 いつもはベアトリーチェは、そうして自らの世界に沈み込む。

 純粋で豊かな音色を弦におろしていく。

 ベアトリーチェは森となり、かかわることはなく、訪れるものを優しい放置で包み込む。


 その作業に乱入した伊達は、ベアトリーチェにとって、己の支配する小さな楽園に現れた闖入者であった。


 朝露も落ちきらない草木へいきなり子どもが駆けこんで、森が戸惑う。

 しかしたかが子どもに意地でも引いてなるものか。追い返してやろうと牙をむく。


――いいや、なにがなんでもここにいてやるぞ。


 秘密基地を見つけた子どもが水の冷たさや草木のくすぐり、風の吠え声程度で帰るわけがない。怯えこそするがますます踏み込む。

 呆れたようにヴァイオリンが大きく渦を巻く。

 大きな存在のため息にもてあそばれて、足元が揺らぐ。

 すくわれそうになったところを意地で踏みとどまる。

 風を避けるように木々と枝のなかに潜り込み、不格好だが頑丈な簡単な家を組む。

 ぱきぱきとたき火がはじけるのにも似たメロディは高貴なヴァイオリンのなかでも気楽に存在を主張する。

 これでもう安心したとばかりに、駆けまわっていた足をとめて、膝を抱え、周囲の音に耳をすます。森のなかに居場所をつくって時折からだをゆらし、鼻歌さえ挟む。自然を味わい、互いの楽しさをわかちあおうと。

 遂に森の側も降参して、若い子どもの音色を許容した。森本来の寛容さでどこへ行くのも好きにしろと暖かな日差しすらくれてやる。

 二つのメロディは交じり合い、全く違うはずの故郷の思い出を穏やかに表す。

 そのまま夕日を超えて帰る時間がやってくる。

 たっぷり遊んだ幼子は暖かな家に向かい、優しい森に感謝して。森は幼子の健やかさを願って見送る。

 静かに沈んでいく音色が、やがて完全に無音になった。


 そして、ベアトリーチェが笑う。


「ここ数日で随分生意気になったわね」


 困ったように眉を八の字にして、それでもこらえきれないように口元が吊り上がっていた。

 苦悩と喜びが入り混じる奇妙な表情。どうして彼女はいつもそんな顔をするのだろう。

 初めて自分の音楽がベアトリーチェを喜ばせるものになったことの歓喜を、その一点が曇らせる。


「ルシィの無謀さがこういうところで働くところがあるから、新顔っていうのは油断ならない。なんであんなむちゃくちゃなのでのびてしまうのかしら」

「こっちだって必死ですから」

「今度はエーリッヒ? みんなしてまったく、ほんとうに、まったくもって!」


 壁にかけられた時計をみて、他のメンバーも来る頃合いなのを確認し、ヴァイオリンをケースにしまう。


「ああいやよ、成長なんて」

「ひどいですよ、そんな。せっかく頑張ったのに」


 茶化して投げ返せば、振り向く。長い髪がひるがえり、彼女の横顔を半分隠す。

 見間違えでなければ、ちらりと見えた瞳は潤み、口元には憐れむような微笑みがたたえられていた。


「あまりにむごい成長は、生まれ変わるようなものだわ。生まれ変わりは神聖で素晴らしいことだけれど、もし、何度も何度も生まれ変わったら、本当にそこにはかつてのあなたの音楽はあるのかしら」

「それって、どういう意味なんです?」

「……わたしは、ここにしがみついた。音楽がわたしのすべてだったから。哀しくても決してここから離れない。あなたもそうなら、きっとここへ来るでしょう」


 言葉というものにも音色がある。感情は共通であるはずのものでも音色の違いが意味の違いになる。

 彼女のそれは、警告のように突き放した言葉でありながら、祈りの意味がこもっていた。

 いったいどういう祈りなのだろう。

 何故だか恐ろしくて、すぐに問いが出てこない。

 口内に満ちる重苦しい空気の塊を飲み込もうと喉を鳴らしたとき、扉が勢いよく開けられた。


「諸君! 最後の時だ! とっても楽しい、だいじな、だーいじなコンサートのお知らせだよ!」


 今日という今日は挨拶すらもない。ベアトリーチェはその話を全く聞いていなかったのか、いぶかしむ。


「コンサート?」

「そう! ついさっき決めてきたよ、あと二回、《カレエド》の演目を全部ぼく達で埋める。その一回目はダンテくんに演奏を! ソロで! やってもらう! フルコースでいう前菜だね!」

「……えっ!?」


 疑問がはるか遠くまで吹っ飛んだ瞬間だった。

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