第2話 蝶よ、とべとべ

 悪魔のバンド。《オーリム》。

 彼らがメンバーを募集しているときいた足で、伊達は夜の道を行っていた。


 自然と顔はうつむく。それでも二本の足は動く。日常に染み込んだ道筋は、考えずとも感覚で歩めた。

 既に夕闇も過ぎ去って、ほの暗い闇があたりを覆う。

 通いなれた道を進むには、月明かりがたよりになっていた。

 生臭い空気が見えない場所から鼻に向かって流れてくる。輪郭を失う闇の端で蠢く人の影がある。


 昼なら人の熱気に満ちた通りも、夜は今にも臓腑を痛めた吐息をふきかけられて、路地裏につれこまれそうな気配が漂う。

 いつもならば昼か夕方前に向かう場所なので、まったく異なる世界に迷い込んでしまったという錯覚すら覚えそうだった。


 では、目的地とはいったいどこなのか。

 それは《喫茶:ミモザ》。恐らく語呂だけで名付けた看板を掲げた、小さな喫茶店であった。

 このあたりではまだまだ珍しいモダンな店で、そこそこ客が多い。もちろん、開店中の昼間であるならばの話だ。

 たどり着いた頃には既に、扉に「くろーず」の看板がかけられていた。

 なかにはあかりがまだついているが、この店を営む親子が作業か団らんを楽しんでいるかしているのだろう。


「なかにはいっちゃあ、まあダメだよな」


 妙なところで妙に博識な店主がつくった看板は、客には意味がわからず開店とカン違いして入ってくることもある。

 店の気のいい看板娘から、常連との世間話がてらに愚痴られたことがあった。


「かわいい女の子に嫌われたら生きてけないから、やめとこうかね」


 独り言で己を鼓舞し、足早に立ち去ろうとする。

 頭をガシガシとかいて、背中を向けた。

 そのタイミングを見計らったかのように、カランカランと小気味よいベルの音色が響く。 

 ぬるい夜になお涼やかに響く、暖かな音。


「伊達さん? こんな時間にどうしましたか?」


 振り返れば、看板娘こと店主の実娘、喜代きよがいた。

 大きな栗色の瞳を転がして伊達を見つめている。

 店の扉を半分だけ開けて、小顔を覗かせる彼女に、伊達は頬をかく。ひどく気まずいところを見つかった気分だった。

 店内から漏れる光が、闇のなかに四角く浮かんで伊達を照らす。


「いやあ、気がついたら足が向かっちゃって。たまたま寄っただけなんだ、ごめんね!」


 なるべく明るく、軽薄に笑う。

 再び背中を向け、手を振って去ろうとした伊達を、しかし喜代が呼び止めた。


「伊達さん、中に入らないんですか?」

「え? でももう閉店だろ」

「そりゃあお客さまには? でも今日はお友達としていらっしゃったということでいいのでは。閉店後ですもの」


 突然の提案に、伊達は言葉を失う。

 笑顔のまま固まった伊達に次の行動を決めさせたのは、八の字を描いた喜代の眉と言葉だった。


「今日の伊達さん、なんだか泣きそうな顔してるんだもの。このまま返したら心配で、明日に寝不足で困っちゃう」


 喜代に手をひかれ、伊達は店に入る。

 予想通り、父親である店主が机や食器をふいて片付けているところであった。

 中に入ってきた家族以外の人間に気が付いた店主が顔をあげた。

 ややさびしくなってきた前髪はあげられており、すっきりとよく見える栗色の瞳と目がかち合う。 

 娘の喜代によく似たまっすぐな目は、いつもなら気分がよいのだが、今宵ばかりは胸に刺さる。


「うん? どうしたんだい、こんな時間に」


 そうつづけかけた店主の口も、伊達の顔をみて止まった。

 そして伊達を引き入れた喜代に視線をやって、納得した様子で頷く。

 

「ああ、うん。そうか。あんまり遅くならないようにしろよ」

「ありがとうございます」

「いいのさ。若い時は迷うものだよ」


 そんなにひどい顔をしていたのだろうか。

 申し訳ない気持ちもあったが、伊達は礼を述べる。

 店主は「ウン」とだけ言って、店の奥の方へ引っ込んでいった。


「別にキゲンを悪くしたわけじゃあないから、気にしないでいいからネ」


 焦る伊達の背中を喜代が叩く。

 気づけばいつものように席まで誘導され、すとんと座らされていた。


「それで? 何があったんです? お話するのは大好きですからね、なんでも気楽に話しちゃってくださいよ」

「別に大したことじゃあ」

「だから気楽に、っていってるじゃあないですか。伊達さんとミモザのなかなんだから。何よりチョッピリ憧れてたんですよね、帝都とかだと喫茶店って芸術家のサロンになってることもあるっていうし?」


 あくまで軽い調子で、喜代はペロリと舌を出す。

 年若い少女に甘やかすかの如く気遣われ、情けないと男の部分が思う。


 それでも口は勝手に動いていた。誰かに吐露したい、そう思ったからこそここにきてしまったのだ。

 喜代は時折、冷たい水の入ったコップを差し出しながらウンウンと話を促す。相槌がまた絶妙で、ぽろぽろ気持ちが漏れた。

 

「とても素晴らしい音楽に出会ったんだ」


 己もその道を志すからこそ、素晴らしさに打ちのめされたこと。

 であるのに、そこに行ってみたい衝動のようなものに苛まれていること。

 輝かしいから、苦しい。才能の違い、これまで技を鍛えるために注いできたものの格差を思い知らされるようで。


 話を最後まで引きだし、聞き終えた力強く頷く。


「そうか、わかった」

「ごめんよ、こんな面白くもない話しちゃって」

「そういうんじゃないよ。ただね、伊達のお兄サン。そう思うんなら、やっちゃっていいと思うよ、あたし」

「やっちゃって、って?」

「だから、なんだっけ、鬼のバンド? だっけ。そこへの応募!」


 語尾を切り捨てる勢いでハッキリ区切る喜代の話し方は、まるで伊達に刃を突きつけるようだ。もちろん、本人にその気はない。

 だが、あまりに迷いなく、まっすぐに向けられた提案に伊達はひるむ。

 そうしたいといったのは伊達自身でもあるので、曖昧に口をもごもごさせた。

 心おられかけたばかりの男から、少女はまっすぐな瞳をそらさない。


「あのね、これあたしの話で、伊達さんの話じゃないけどね。あたし、働きたかったんですよ」


 戸惑う伊達に、さらに喜代は語る。

 彼女が握っていたガラスのコップが微かに揺れ、水がこぼれる。

 木製の丸テーブルに円形の水滴ができた。

 すぐさま喜代はふきんを取り出して、手馴れた動作で自らの不始末をふき取る。

 どうにはいった動きは、その仕事に短くない間従事してきたものでなくてはできないものに思えた。


「きみは立派に働いてるじゃないか」

「でもお医者さまや電話交換手、音楽家にはなれません。父が開いた店の女給です」


 それは今まで聞いたことのない、彼女自身の「店」への不満(ともとれる)言葉であった。

 伊達は驚く。喜代は冗談交じりに悪口をいうことはあっても、本気で悪意を垣間見せたことは一度もない。

 今の喜代には笑いやからかいの気配はみじんもなかった。

 伊達以外には誰もいない、閑散としたテーブルとイスが並ぶ店のなかだからこぼれた独白であったと、伊達は後になって気がつく。


「うちの仕事もね、そんなきれいごとばっかじゃいかないですもの。純粋なものだけで生きるのがどれくらい大変かっていうのはわかるつもりです」


 真剣な喜代に無粋な物言いをしてはいけない。

 そうとだけ確信して、伊達は口をつぐんで先を促す。

 きっとそれは、伊達の悩みを真摯に受け取っての言葉なのだろうから。

 

 喜代は続ける。彼女が語るのは、急激に変化する世間、新しきに盛る世界の裏に存在するひずみであった。


 たとえば仕事と女である。

 田舎よりは華やかだが、大都市からも微妙に逸れたこの街では、喫茶店の数はそう多くない。

 新しい物好きな店主が思い切った転身を果たし、評判もよい。

 だが、帝都をはじめとした大きな都市ともなればそうもいかないと聞く。


 洒落た都市では圧倒的に喫茶店が多くなる。

 カフェの女給は満足のいく給与をとれず、また競争を生き残るため、遊女まがいのサーヴィスを行うものもあるという。

 店の外でのデートは当たり前、客の愛人になることすら。

 まだその波は街に届いていないとはいえ、店主は思うところあるのか、《ミモザ》を喫茶店を名乗っていた。

 アルコールと飲み物は提供する、しかし性風俗店ではないカフェである、というイメージの主張だ。


 それでも、本当は違う。

 新しいものに飛びつく客もいれば、慣れないものに忌避感や恐怖を覚え近寄らない客もいる。一度来て二度は来ない客もいる。

 生きていくためには収入が必要だ。好ましいものを作るだけでは難しい。

 そのため、店主はある役職の人々を店に座らせた。

 私娼である。


 私娼たちは客を捕まえる、モダンでロマンティックな舞台としてカフェーを利用する。客は何度か《モミザ》に通って疑似恋愛を楽しみ、彼女たちを買うのだ。

 遊郭より安く、手軽に。

 そして私娼は礼として店に金を――表向きは「飲食代」として――渡す。

 幾度か通った客であれば、他の客や私娼本人によって存在を知ってしまう。


「あたしはおかげさまで楽しく生きてますけどね、だからこそこれ以上のワガママ言えないなって」


女給が身に付けるフリルのエプロンから、「夜の蝶」とも呼ばれる彼女たち。

 喜代もたまにそういう風にみられるようだが、実際に喜代を抱いたなどという話は聞いたことがない。好色や口さがない客が少なくないなかでも、だ。


「でも伊達さんは伊達さんの夢を、自由に選べるんだから。せっかくなら、やっちゃっていいと思いますよ」

「そうかな?」


 守られて、しかし外へ飛び出すことのできない小さな蝶に伊達は見とれた。

 そして消沈しかけた想いが燃え出す。

 楽器を握ると決めたとき、愛器とともに泥船に沈んでも構わぬと決めた若い想いが。夢とともに溺れてこそのロマンと強がった自分が。


 ときは華麗と背徳の時代。

 一気に文明の華が咲き乱れ、その一方で落ちた花弁が甘ったるい腐臭を放つ。

 誰もが夢見るようで、その道は細く荒れている。 

 平穏を手に入れ、さらに進んでいくことはやめた少女は、まだ大きな夢へ挑む心を捨てていない伊達に、まぶしそうに目を細めた。


「うん。トーゼン、他人事だからこうやっていうんですからね。あとで責任とってっていっても知らない」

「ひどいなあ!」

「そりゃ、今はお客さんじゃないですもの?」


 調子を取り戻し始めたのを察して意地悪を言う喜代に、伊達はからからと笑った。

 今度は心底からの笑みであった。

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