白痴のダンテ
室木 柴
第1話 悲鳴のような歌声を
腹の底に響く低音が小さなライブハウスいっぱいに響く。
首を振る動作すら音色を崩しそうで、伊達はこっそりと周囲を見渡した。
裏通りから地下に入った場所にある、知る人ぞ知るライブハウス:《カレエド》。
ステージには暖色の色つき照明がさし、室内は沈みかけの黄昏を閉じ込めたようだ。
いつもは人が少ないのに、今日は慌ただしい活気が床の底に漂っている。
笑顔なのは観客、頬をひきつらせているのは音楽家を名乗る同志だろう。
――気持ちはわかるよ、海の向こうはやっぱりレベルが違うよなぁ。
苦笑しながら視線をステージに戻す。
紳士の心地よいテノールを思わせる暖かな音だ。
ヴェールで顔を覆い隠した女性が、愛おしそうにコントラバスの弦を撫でるたび、うっとりしてしまう。
「これが悪魔の音楽か……」
せっかく陶酔していたのに、隣の男が発した呟きにぶち壊される。
これが悪魔の音楽なわけがない。
そう思うのに、彼女もまた悪魔の一人なのだと思うと忠告を送れなかった。
悪魔の音楽。人を殺すメロディ。
つい先日、このバンドが奏でた音楽を聴いた音楽家が狂死したという。
世間では名もなきトランペッターだったが、伊達はライブハウスに来るたび彼の演奏予定がないか楽しみにしていたものだった。
あくまで自殺だ。彼らに怒りを抱いてもどうしようもない。
それでも意地のようなものはある。質は違えど、ここに来た音楽仲間はおおむね同じ意図を持ってきたのであろう。
――彼を絶望させ、死に至らしめた音楽とはいかなるものか聞いてやろう。
その思いでここに来たのに、前座の演奏で既に取り込まれかけていた。
手を握りしめ、いよいよ演奏を終わらせようとしている女性を見る。
長い髪、女性にしては高いからだはおうとつがはっきりとして、いかにも西洋の女だ。
入る前にみた演目を思い出す。
確か彼女の名は、ベアトリーチェだったか。
瞳は全く見えないものの、時折覗く顎と唇のラインはすっきりとして、怜悧な美女であると思われる。
この国ではまだまだ異質な姿だ。あるいはその容貌が悪魔などという不名誉な噂を流しているのかもしれない。
見つめているうちに演奏が終わる。
ベアトリーチェは優美にドレスのすそをひるがえし、音もなく一礼した。
同時に観客の一部がこわばるのがわかった。
遂に本番だ。
ベアトリーチェは一度舞台のそでに下がり、すぐに他のメンバーを携えて戻る。
それぞれの楽器を抱えたメンバーがひっそりと並ぶ。
コントラバスのベアトリーチェ。フルートのエーリッヒ。サックスのリロイ。
そして実質的なリーダー、ピアノのルシィ。
「――――」
本日の目玉が現れ、観客たちは息を呑む。
ベアトリーチェも十分異質な存在であるが、それが四人集まると現実離れしたものを感じる。
エーリッヒは氷の精の如き白人で、リロイは穏やかで精悍な黒人だ。
そしてルシィは最も東洋人らしい女性だが、中東の血が混じっているのか肌は褐色で、黒曜石の瞳が悪戯っぽく輝いていた。
「本日はぼくたちのライブにお越しくださり、ありがとうございます」
ルシィの挨拶に何人かが失笑をもらす。
ベストで隠れているがルシィにはささやかなふくらみがある。
異物への忌避と女性への侮蔑があった。
――そんな恥ずかしいことをしないでくれ。
同じく音楽を嗜たしなむものとして許せない。
雰囲気が悪くなる。その時、澄んだ「ド」の音が空気を切り裂いた。
「さ、前置きもなんです。さっさと初めてしまいましょう」
ルシィだった。
彼女はピアノの前に座って、緩やかに腕をのばしている。
礼儀を取っ払って己の目的に従事しようとする姿に、また誰かがざわめく。
他のメンバーも突然の始まりに動じることなく、己の楽器をとった。
それは、悪魔の音楽だった。
ピアノを主軸に他の音が重なる。
その曲調はどこまでも楽しそうで、しかし一定のリズムに留まることがない。
麻薬に狂った敬虔なシスターが、讃美歌で踊り狂っているようだ。
ひたすらに純粋なくせに、節操というものがない。
すべての楽器、特にフルートは歪な不協和音を無理矢理メロディと交まぐわう。
圧倒的な技量と熱量を叩きつけて一瞬の音楽をものにする。
もう我慢ならないというところで酷く愛おしげにリズムを落として、柔らかく感性を撫でてくる。
「悪魔の音楽だ」
いつのまにか伊達は嫌悪したはずの呼び名を賛美していた。
誰も咎めるものはいない。
いつのまにか演奏は終わり、彼らは幕から下がっていった。
観客の興奮は冷めやらず。噂の異国人バンドをからかってやろうと意気込んでいた音楽仲間は皆うつむいている。
その後も何人かが演奏したが、誰もが青ざめ脂汗を浮かべていた。
「虫の羽音が聞こえる」
誰かがいった。その通りだった。
あの演奏の後では、どんな音楽も虫の羽音に過ぎない。
最後の一人まで聞き終えることなく、伊達はライブハウスを出た。
――おれにはあんな演奏はできない!
地上は湿気が多い。胸を詰まらせたままさらされると、体内の水があふれて溺れてしまいそうなほど気持ちが悪くなった。
「……音だ」
耳に入った音に顔をあげる。
低く優しい、雨の降る森のように深い音色――誰かがコントラバスを演奏しているのだ。
空はもう薄暗い。夜が訪れようとしていた。
ひかれるまま音の鳴る方へ向かうと、だんだんよく知った道に入っていく。
たどり着いたのは、狂死した音楽家の家だった。
家といっても、音楽家が放火したせいで住処は焼け落ちている。
残っているのは炭と黒い土と草だけだ。
その前で、青いドレスを着た女性が演奏していた。
「ベアトリーチェ?」
「もう少し待って」
思わず声をかける。彼女はそれだけ返して、弦にのせた指を離さない。
演奏者がそういうのなら、とめることはできない。
趣味に毛が生えた程度とはいえ、一演奏家としてのなけなしの矜持だった。
「ありがとう」
無事演奏を終えたらしい。
家に向かって緩やかに頭を下げて、ベアトリーチェは伊達の方を向く。
先程の悪魔の音楽の演奏者とは思えない、哀悼の曲だった。
拍手を送ったが、そんなものではないと首をふられる。
「いや、素晴らしい演奏だったよ」
「そう? 騒音にならないか心配だったのだけれど。それならよかったわ」
東の果ての言葉を母国語のように扱う。
こうしていると普通の女性のようだ。
いったい自分には何が足りないのだろうと不躾に見つめてしまう。
「とんでもない。悪い酒に酔った奴らが騒ぐのに比べたら天使の歌声のようでした」
褒め方が悪かったかといってから気づく。
しかしベアトリーチェはうっすらとほほ笑む。
「ありがとう」
耳元でささやくような甘い声音に、かっと頬に血が集まる。
何か誤魔化そう。そう思ったはいい。
まずいことに、とっさに気になっていたことが口から飛び出してしまう。
「な、なんでこんなところで演奏を?」
「…………」
「アッ、すみません。無礼な質問をして、」
「お亡くなりになった、と聞きました」
「あ、え、はい?」
「ここに住んでいた方が亡くなられていたと。高音が特に素晴らしいトランペットで、将来有望だとルシィがとても気に入っていたのです」
そんなことを知らなかった。
てっきり今の自分と同じように、あまりの実力差に絶望したのかと思った。
「だから、コントラバスを。弦楽器は悲哀の音色に向いています。癒しを求めて悲しむならばコントラバス、激しく嘆くならヴァイオリンを。わたしにできることはそれしかありませんから」
見れば彼女の足元にはケースが二つ置かれている。大きなものと小さなものがあった。
まさか両方抱えてきたのだろうか。楽器は見た目よりずっと重い。
それを二つとは、見た目によらず随分ちからがある。
そこまでしてここに来てくれたのだ。
「ありがとうございます」
「どうして貴方がお礼を言うの?」
「おれ、この人のファンだったんです。だから、ありがとうございます」
「……優しい方ね。先程ライブハウスにいらっしゃったでしょう? それに音楽をなさっている」
「えぇっ、どうしておわかりに?」
ヴェールの向こうでクスッと少し意地の悪い笑い声が放たれる。
「わたし達の演奏を聴いてあんな顔をするのは、大抵音楽をなさっている方よ」
「…………」
「貴方、お名前は」
「伊達です」
「ダ……ダ、テ……ダンテさん?」
これほど言葉が流暢なのに、人名は難しいらしい。
微妙に彼女たちらしい名前に変えられて、自然と笑ってしまった。
「ダンテでいいですよ」
「ごめんなさいね。わたしは――もうご存知のようだけれど――ベアトリーチェ。ダンテさん、どうか貴方の音楽をやめないでね。死んでしまっては、おしまいよ」
はい、とも、いいえともいえない。
曖昧に口ごもる伊達に、それ以上ベアトリーチェは声をかけなかった。
両手にひとつずつ鞄を持って、背を向ける。
「ごきげんよう」
「あ……お気をつけて」
コルセットをつけたかのように麗しい背中を見送り、あげた片腕をそっと下げる。
やめないで、という単語を口内で転がす。
いうのは簡単だが、簡単に乗り越えられたら苦労はしない。
単純なもので、誰かと話すと少しだけ気分がよくなっていた。
代わりに別の複雑なものが混ざり込んで、どうしたらいいかわからない。
とりあえず一度ライブハウスに戻ってみることにした。
何もみず出てきてしまったが、演奏会の予定を聞くのを忘れていた。
店に戻り、細い階段をかけおりる。
人は減り、音楽をさかなに酒を飲みに来た人々が増え始める。
逆を目的にした人間も多いはずだが、今日の音楽家達はさっさと帰ってしまったようだ。
コルクボードにむかい、演奏の予約を入れているメンバーを調べる。
「……あ」
コルクボードには店のオススメや近くの店のチラシ、そしてメンバーの募集など実に様々なものが雑多にはられていた。
そのなかに一枚、地味だが流麗な文字で品よくつづられたものがある。
かの悪魔のバンドがメンバーを募集していることを知らせるものだった。
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