こどもたちのエデン

雛田安胡

こどもたちのエデン

 朽ちて蔦や苔に侵された、灰色と緑色の混じった廃ビルの群れ。自らより遥かに高いそれらを、その少女は左右で色の違う瞳で見上げると、今度は目の前の『それ』に視線を降ろし、手を合わせた。

『それ』は、ひび割れたコンクリートを剥がした地面に、薄いがれきを突き立てただけの、墓標だった。

 そして墓標は月明かりに照らされ、少女の目の前に、幾つも幾つも突き立っていた。

「……リュミ、まだ祈ってるの?」

 掛けられた声に、右に黒、左に青の瞳を持ったその少女――リュミが振り返ると、後ろに、左目に眼帯をした少女が、短機関銃を提げて立っていた。

「ごめん。あと少しだけ」

 リュミはまた、墓標の方へ向いた。

 眼帯をした少女は手持ち無沙汰なようで、しばらくは短機関銃の埃を袖で拭っていた。だが、リュミがいつまで経っても祈るのを止めないので、耐え切れなくなって再び声を掛けた。

「リュミ、いい加減にしなと風邪ひくよ! ここは年中暖かいところだけど、夜風は冷たいんだから」

 言われ、リュミはやっと祈るのを止めた。

「……ごめん。トゥーシア、待ってくれてたんだね」

 右に黒い瞳、左に眼帯の少女――トゥーシアは唇をとがらせながらも、リュミの冷えた手を握った。

「また謝る。その癖、早く直しなって言ってるのに」

「……ごめんね」

「もう」

 そして二人は手を繋いだまま、コンクリートと蔦と苔で出来たビルの森を歩き始める。

「ねえリュミ」

「うん?」

「大人になったら、何したい?」

 リュミは黙った。そんなこと考えてこなかった。いや、考えないようにしていた。

「……わかんない」

「私も」

 そもそも二人とも、大人というのが何なのか、殆ど知らなかった。

「ここで眠ってる人達は、みんな十六とか十七で死んじゃったんだよ。それに、ヘンリーさんなんて十五で……。やっぱり大人なんて、本の中にしかないんだよ」

 リュミが、下を向いて言った。しかしそれが、トゥーシアは気に入らなかったらしい。

「夢がないのも、直した方がいいんじゃないの? 楽しいことを考えないと。どこかに大人がいる場所があるのかもしれないし」

「トゥーシアは、探しに行きたいの? 大人がいる場所」

「うん。いつか。下の子たちだけで、食べていけるようになったら」

「なんでそんなことするの? ここなら、屋根のある寝床も、狩りに使う弾丸も、沢山あるのに」

「あー、もう!」

 突然大声を上げたトゥーシアに、リュミはびくりと肩を跳ねさせる。

「な、なに?」

「リュミは、いっつも夢のないことばっかり! それで楽しいの?」

 トゥーシアに真っ直ぐ見つめられて、リュミはたじろいだ。

「だって、夢なんて持てないよ……。わたし達、もう十四だよ? いつ死んだっておかしくないのに……」

 自分で言ったことなのに、リュミは悲しくなってしまった。じんわりと目頭が熱くなる。

 しかしそれは見たトゥーシアは、なんでか笑い始めた。

「ほ、ほんとになんなの? わたし、真面目に答えたのに……!」

 リュミがむきになると、トゥーシアはさらに嬉しそうにして、リュミを抱きしめた。

「ちょっと!?」

「やー、シシュンキってやつだね! リュミはいじらしくって可愛いなー」

「え……。どういうこと?」

 むふふ、とトゥーシアは自慢げに笑う。

「だって、そうでしょ? 自分の心が、独りでに喧嘩しちゃうのが、シシュンキ。リュミは夢を持ちたいけど、辛いから持ちたくない。どっちかにすればいいのに、決められないから、心が喧嘩しちゃう。……みたいな?」

 ……その通りかもしれない。

 ここの廃墟に住んでいるリュミ達は、全員が子供で、大人なんてものは知識でしか知らないのだ。

 廃墟の中から見つけたいろいろな本を読んでいると、この世界はとても広くて知らないことだらけで、自分たちにとっての世界はこの廃墟と周りの森だけで出来ていて、自分たちは本当に無知なんだと思い知らされる。

 親の顔も、今自分たちが立っている大地のことも、何も知らない。

 そんなまま、死んでいく。

 リュミも、心の底ではそんなの嫌だった。

「そう、かも。わたし、もっと知りたいこととか、やってみたいこととか、ある」

「でしょ?」

「でも、それを探しに行くなんて、出来ないよ。わたしには」

 しかし、リュミはそう言った。

「他の子たちを、置いていけない」

「リュミ……」

「トゥーシアはいいかもしれないよ、銃が使えて、一番狩りが上手で、今までみんなの役に立ってきたんだから。でも、わたしは違うの。銃だって使えない、出来るのはお祈りぐらいなの。そんなわたしが、わがまま言えるわけないじゃない……!」

 これは僻みだと、リュミは分かっていた。分かっていても、その淀んだ気持ちを、その僻みの原因にぶつけなければ、気が済まなかった。

「落ち着きなって、リュミ。らしくないよ」

「だ、だって」

「……もしかして、置いてかれる、とか思った?」

 どくんと心臓が跳ねた。

「……うん」

 落ち着いて考えてみれば、トゥーシアが大人のいる場所を探しに行くことを、リュミが怒る権利なんてない。

 なのに、リュミは僻んだし、怒った。

 なんで自分を置いていくの、置いて行かないで、と。リュミは、本当はそう言いたかったのだ。

「ごめん。わがまま言えないなんて言っておいて、わたしがわがままだった」

「わがまま言わない人なんていないよ。あと、謝る癖治しなよ」

 理不尽なことにも態度を変えないトゥーシアに、リュミは泣きたくなった。

 自分はこんなにちっぽけなのに、トゥーシアはいつだってそうだった。リュミがいくら怒っても、泣いても、ゆったりと構えてリュミの心を見透かしていく。

 なんて、自分は情けない。

「ほらリュミ、帰って寝るよ。ほっぺただけでも濡れてたら風邪引いちゃうんだから。地下治療室なんて入りたくないでしょ?」

 まだ泣いてない。まだ。

「うるさい……。へたっぴポエマー」

 こんな返し方しかできないから、自分はいつまでもちっぽけだと分かっているのに、どうしてもリュミは素直になれなかった。

「ぽえまー? ……なに、ソレ」

 きょとんと首を傾げるトゥーシア。嘘をつくなんて考えをトゥーシアは持たない。本当に知らないのだろう。

 でも、だからこそ、精一杯の反抗を完全に受け流されたリュミは、一層むくれた。

「もう、知らない」

「分かりやすいなー、リュミってば」

 リュミは、またトゥーシアに抱きしめられた。

「ねえ、わたしをぬいぐるみか何かと思ってない? わたしより背が高いからって……」

「んー……、そんなことないよ?」

「今、口ごもった」

「本当にそんなことないって。こんな温かいぬいぐるみ、あるわけないでしょ」

 嘘はつかないけど、白は切るから、質が悪い。しかも、それがへたっぴなポエムと一緒に飛んでくるものだから、

「……ばか」

 大好きだ。



 リュミとトゥーシアが、みんなが寝床にしているビルの廃墟に戻ると、入口に人影があった。

「ルアンナさん?」

 気づいたリュミが声を掛ける。

 ルアンナとは、リュミとトゥーシアの二つ上の女の子で、この廃墟群に暮らす子供たちの、まとめ役の一人だ。右に茶、左に紫の瞳を持ち、日向を漂う綿毛のように、ゆったりしていて優しいが掴みどころのない人だと、リュミは思っている。

「あ、リュミちゃん。今日も遅かったわね。またお祈り?」

「はい。ルアンナさんは?」

「寝る前に、リュミちゃんに話をしようと思ったんだけど、中を探してもいなかったから、待ってたの」

 特に不機嫌な様子もなく、淡々と話すルアンナ。

 自分なら、こういうときに待たされた側だったなら、むくれて誰かに当たり散らしてしまうだろう。

 リュミは、自分の至らなさとルアンナの寛容さを比べてしまい、少し落ち込みながらも、会話を続けた。

「話、ですか?」

「そう。リュミちゃんが眠たいなら明日でもいいけど」

「あ、大丈夫です。今で」

 ルアンナが勝手に待っていただけだが、何にせよ待たせたのだから、と。リュミは罪悪感を抱いていた。

「じゃあ、上に行きましょ。こんなところで話すことでもないから」

「あのー、あたしは?」

 今まで空気だったトゥーシアが、間の抜けた声を出した。

 このままでは置いてけぼりをくらいかねないと思ったのだろう。

「ごめんね。この話は、リュミちゃんのこれからに関わることだから、リュミちゃんだけが決められるの」

「口出したりしませんよ」

「でも、あなたがいたら、リュミちゃんはあなたを頼っちゃうでしょ?」

 ルアンナの言葉がリュミの心に突き刺さった。そして、できた傷がじくじくと痛み始める。

 トゥーシアがいなければ何もできない。自分はそんな弱いものなんだとリュミは思っていたし、実際今までそうだった。

 でも、それをいざ言葉にされると、どうしてこんなに悔しいのだろう。辛いのだろう。

 少しだけ、隣の、トゥーシアの方を見る。

 トゥーシアは黒い右眼には、「そうなの?」という純粋な疑問だけが浮かんでいた。

「……大丈夫です」

 リュミは、精一杯の強がりでそう言った。

「わたしだって、自分のことぐらい自分で決められます。だけど、トゥーシアは私の親友です。わたしのことはトゥーシアにも知っていてもらいたいんです」

 するとルアンナは小さく溜め息をついた。

「分かった。いいわよ。二人とも付いてきて」

 ルアンナは灰ビルの中へ入っていく。リュミとトゥーシアもそれに続いた。

 狩りに使う銃や弾倉、それに畑で使う桑なんかが置かれた一階。地下治療室へつながる真っ暗な下り階段を素通りして、別の階段を上がる。もうすっかり寝付いている小さい子たちや、哨戒をしている少年たちがいる二、三階、倉庫として使われて人気のない四階。

 そうやって階段を上がっていき、ルアンナが立ち止まったのは五階だった。図書館とみんなが呼んでいる、本がたくさん仕舞われているところだった。

 古びてところどころ壊れた本棚に、これまた古びた本がしまってある、下の倉庫程ではないが、人の来ないところだ。

 リュミは暇な時間によく来ているが、いつも狩りに出ているトゥーシアは物珍しいようで、しきりに周りを見回していた。

「二人とも、この前十四になったのよね」

 ルアンナが、不意に二人に訊ねた。

「……はい」

 二人は顔を見合わせ、リュミが答えた。

「なら、子どもがどうやってできるか知ってる?」

 突然ルアンナが言ったことに、二人は一瞬黙る。

「……コウノトリが運んでくる、なんて言う歳じゃないですよ」

 気まずくなったのか、トゥーシアが冗談めかしていうと、ルアンナは小さく笑った。

「そうね。小さい子たちに読ませられないような本は、奥の方に仕舞ってあるけど、みんな知っているものよね」

「それで、お話ってなんでしょうか。わたしのこれからに関わるって言ってましたけど」

 ルアンナは、意味ありげに少し間を置いて、言った。

「あなたに、母になってもらいたいの」

「……え?」

 意味が分からなかった。

「ルアンナさん、どういう意味なんですか、今の!」

 リュミはてっきり、自分が言ったのかと思った。しかし、自分はまだ呆然としたままで、怒っているのはトゥーシアだった。

「人に頼まれてお母さんになるなんて、おかしいです!」

「トゥーシア……」

 リュミはやっと自分が何を言われたか理解して、でも隣でトゥーシアが怒っているせいで自分が怒る気もなれず、取り敢えずトゥーシアを止めることにした。

「ルアンナさんだって、何か理由があるんだよ。だから取りあえず話を聞かない?」

「リュミは嫌じゃないの? あんなこと言われて」

「確かに嫌だけど、理由は知りたいよ」

「……そっか」

 一度食い下がっただけで、トゥーシアはあっさり怒るのを止めた。

 この切り替えの早さも、自分がダメで、トゥーシアが優秀な理由なんだろう。

「ルアンナさん。なんでそんな突飛なことを言うんですか?」

 ルアンナはトゥーシアが起こったのも全く気にしていないようで、ゆったりしたままの口調で言った。

「わたし達の平均寿命って、知ってるでしょ?」

「……はい。十七ぐらいですよね」

「じゃあ、お腹に子どもが出来て、生まれるまでいくらかかるかは?」

 リュミは首を横に振った。

「大昔だと、十月十日って言ったらしいわ。だけど、赤ちゃんを産んですぐは休まなきゃだし、もしものこともあるわ。だから、赤ちゃんを二人産んで貰うとすると、平均寿命の十七歳まで、三年は欲しい。だから、今伝えたの」

「そういうことを訊いてるんじゃないです!」

 余りに身勝手な言い分だと思った。それに、リュミが聞きたいのはそんなことではなかった。

「どうしてわたしが、子どもを産まなくちゃいけないんですか」

 ルアンナは不思議そうな顔をした。

「リュミちゃん。わたし達は新しい子供を残さなくちゃいけないの。分かるでしょ?」

「分かりません、そんなこと! 男の子なんて嫌いです!」

 背筋を這い上がるような嫌悪感に、リュミは叫んだ。

 こんな年齢で子どもを持たなければいけないということ。それを当たり前だと感じていること。そして、それを平然と押し付けてくることが、何より気持ち悪かった。

「ねえ、リュミちゃん。あなたはいつも、小さな子たちの世話をしてくれているわよね」

「……それが、何ですか」

 何を言っても自分の調子を変えないルアンナが、リュミはだんだん怖くなってきた。

「もし仮に、わたし達が新しい子どもを残さなくなったとすると、どうなると思う?」

「…………」

 どうなると言われても、近い未来にみんな死んでしまって、ここには誰もいなくなるとか、そんなことしか思いつかない。

 でもそんなの、リュミには関係ないのだ。自分が死んでしまった後の話なんて。

 リュミが答えに窮していると、不意にトゥーシアが口を開いた。

「今の赤ちゃん達が、死ぬ間際に寂しい思いをしますね」

「ええ。トゥーシアが正解ね」

 リュミは唖然とした。

 そんなところまで、考えられなかった。自分の死んだ後の話なんて知らない、の一点張りで、残される子たちのことなんて、思いやろうとも思えなかった。

 なんて、自分は浅ましいのか。

「もう他の子たちは、決断してくれているわ。小さな子たちのためだとか、死ぬ前に好きな人と生きた証を残したいだとが、それぞれだけど」

 他の子たちは、と聞いて、リュミの脳裏には自分の隣にいる親友のことがよぎった、

「それじゃあ、トゥーシアもそうしなくちゃいけないんですか」

 ルアンナは首を横に振った。

「いいえ。トゥーシアが狩りに参加しなくなったら、食べ物が足りなくなるわ。彼女は特別なの」

 やっぱり、と思った。

 自分なんかとトゥーシアが、同じ場所に立っているわけはない。

 でも、トゥーシアは、

「そんなの、えこひいきじゃないですか」

 自分が特別扱いされているということに、怒っていた。

「ええ、そうね。でも、そのえこひいきをしなかったら、みんながお腹を空かせてしまうわ。あなたは強いんだから、それ相応の責任があるの」

 ルアンナの言うことは、リュミからしてみても正しかった。

 えこひいきだ、平等じゃないとだめだ、なんて言ってても結局、お腹が空いて倒れてしまったらお終いなのだから。

「それに、そんな怖いことじゃないのよ。自分の子どもって、びっくりするぐらい可愛いものだから」

 言うと、ルアンナは自分のお腹に、優しく手を当てた。

「ここには、二人目の子がいるわ。まだあんまりお腹は出てないから、分かりにくいけど」

 リュミは、もう驚きはしなかった。ここまで言う人が、自分だけ子どもを持っていないなんてことはなさそうだったし、何より、ルアンナの雰囲気が、リュミの思っている「お母さん」に近かったからだ。

 でも、首筋に冷たいものが当たっている気がしてならなかった。

「……それじゃあ、リュミちゃん。もう一度言うわ。母になってくれないかしら」

 ぎゅっ、と。心が縛り付けられて、軋んだ音を立てた。

 やらなきゃいけないんだ、頭では分かってる。

 リュミは体力がなくて狩りや農作業で役に立てない分、炊事や洗濯や子ども達の世話をしていた。だから、小さな子ども達への思い入れも人一倍あった。

 それに、自分たちがこの大地で、いかに儚い存在かというのも、リュミは十分知っていた。二十年と生きられない自分たちは、ふとした拍子に、完全に死に絶えてしまうかもしれない。

 だけど、どうしても嫌なものは嫌だった。そもそも、好きな男の子なんてリュミにはいないのだ。

「ごめんなさい……。考えさせて下さい……っ」

 行くことも戻ることも叶わないと知って、リュミはその場から逃げ出してしまった。

「あ、ちょっと。リュミ!」

 トゥーシアが咄嗟に呼び止める。しかし帰って来たのは、階段を下るリュミの軽い足音だけだった。

「……さっきの言い方、卑怯なんじゃないですか?」

 トゥーシアは、ルアンナの方に向き直った。

「卑怯と言うなら、口を出さないと言っていたのはどこの誰だったかしら」

「あ、忘れてました」

 しれっと答えるトゥーシアに、ルアンナは深々と溜め息を吐いた。

「あなたがこんな調子で大丈夫なのかしら……。あなたは例の『大人』に対する、反抗の象徴なのに」

「大丈夫ですよ。闘うときはちゃんと考えてますから」

「だから、あなたの役目は矢面に立って闘うことじゃないのだけど……」

 ルアンナまた、深く溜め息をついた。

「その眼帯に、わたし達全員の希望が詰まっているのよ。本当に分かってる?」

「頭では。そんな御大層な責任、大きすぎて感じれやしません」

 トゥーシアがおためごかして言うと、ルアンナは少し笑った。

「そうね。その方が、あなたらしくて安心するわ」

 あなたらしくて、か。そう、トゥーシアはふと考えた。

 よく、そういう言葉をかけられる。そんなに自分は個性的だろうか。トゥーシアからすれば、リュミの方がよっぽど個性的なのだけど。

「そういえばルアンナさん。『大人』が来るのって、近いんですよね」

 突然の質問に、ルアンナは少し首を傾げる。

「……らしいわね。歩哨の数も多くしているし、対策もしてるわ。けど、それがどうしたの?」

「みんなの寿命、どうにかできないかなって」

「……仮説だけど『大人』はその方法を持ってるらしいわね。わたし達を懐柔するためだそうよ」

「なら、それを奪えばいいんですね」

 トゥーシアが不敵に笑った。だが、ルアンナにはそのわけが分からなかったようで、首を傾げた。

「どうして、そんなことをするの?」

「だって、当たり前じゃないですか。好きな人とは、長い間一緒にいたいですよ」



 一方、図書館から逃げ出してしまったリュミは、今一番会いたくない人物に声を掛けられていた。

「……あれ、リュミか? 何してんだ、こんなとこで」

 発端は、リュミがどこに行く気も誰と会う気も起きずに、倉庫の隅っこで蹲っていたことだった。そこを、短機関銃を提げて歩哨をしていた少年に見つかった。

 その少年の名前はバルド。リュミの一つ上の歳で、トゥーシアと同じく運動が出来て、力持ちで太陽みたいに明るくてみんなの人気者。

 たまに話しかけてくるけど、正直リュミは苦手だった。

「怪我でもしたのか?」

 そう言ってバルドは、月明かりの届かない暗がりに蹲っているリュミに手を差し出す。

「……放っておいて下さい」

 しかし、リュミはすげなく断った。

 そもそも、男というものが嫌いなのだ。あんなに明るくてみんなの役に立てる人は、みんな自分を憐れんでいるようで、もっと嫌いだった。

「放っておいて、って……」

 バルドは頭を掻く。リュミの場所からだと、月の逆光で分からないけど、きっと彼は困った顔をしているんだろう。

 本当に、放っておいて欲しいのに。どうしてバルドが自分を構うのか、リュミには分からなかった。 

「いや、だめだ。ほっとけるかよ」

 しかし、バルドはそんなリュミの感情に反して、強引にリュミの手を取った。

「ほんとに、なんでもないですから」

「そっか。じゃあ、何でもないのにこんなとこにいる奴は、不審者だよな」

 バルドは悪戯っぽく言うと、リュミの手を力強く、しかし優しく引っ張った。

 リュミには、いつも狩りや力仕事を任されているバルドに抗えるほどの力はない。されるがまま、ふらふらと月明かりの中に躍り出た。

 途端、バルドが息を呑む音がした。

「お前、泣いてたのか」

「え……」

 言われて初めて気付いた。

 泣いていることに気付かないなんて、自分はどうしてしまったんだろう。リュミは今更な不安を覚えた。

 しかし、それよりも、

「み、見ないで下さい……!」

 この泣き顔を、親しくもないバルドに見られたくなかった。

「あ、ごめん」

 当のバルドは流石に焦ったのか、握っていたリュミの手をぱっと放した。

 その手も使って、リュミは泣き痕の残っているであろう顔をごしごしと両手で擦った。多分、目元はもっと赤くなってしまっただろうけど。

 すると、また手を取られた。

「……俺で良ければ、相談に乗るよ」

 何を言っているんだろう、とリュミは内心怒った。

 一人になりたいからここにいたのに、勝手に心配して寄ってきて、勝手に相談に乗ると言う。

 もう、勝手な言い分は聞きたくないのに。

「……勝手なこと、言わないで下さい」

「でも」

 我慢の限界だった。

「もう、止めて……!」

 リュミは、思いっきり怒鳴るつもりだった。でも、どうしようもないくらいに涙が溢れて、嗚咽が喉を締め付けて、搾りかすみたいな声しか出なかった。

「リュミ……」

「ルアンナさんも、バルドさんも、なんでわたしに、自分の意見を押し付けようとするんですか! わたしが弱いからですか、役に立たないからですか!」

 すると、バルドは急に険しい顔になった。

「そんな風に僻んだらダメだ。そしたら、リュミは本当にそうなってしまう」

「バルドさんは、みんなに必要とされているから、そんなことが言えるんです! わたしの気持ちなんか、わかりっこない……!」

 リュミはふと、なんでバルドに、これほど気持ちをぶつけてしまっているんだろう、と心の端っこで考えた。よりによってほとんど話したこともない、男の人なんかと。

「いや、分かる。どうやっても越えられない誰かっていうのは、俺にだってある。だけど、僻んだって、自分を傷つけるだけだ」

 リュミは不思議と、言い返せなかった。バルドの言葉の中に、自分も感じたような、辛さや悔しさを感じたからだ。

「なんでですか……! なんで、分かってしまうんですか!」

 自分より優秀なはずのバルドなんかに、分かって欲しくなかった。自分が、ただ小さい人間だと、知られてしまうから。

 リュミはもう、涙を流して泣きじゃくることしか出来なかった。

 そんなリュミに、バルドはまた懲りずに声を掛けた。

「……なあ、リュミ。意見の押し付けっていうなら、お前もじゃないのか」

「……どういう意味ですか」

「こんなところで泣いてる女の子ほっとけるわけはないのに、その当人は放っておいてって、もっと泣いてる。無茶苦茶だよ」

「泣かせたのはバルドさんじゃないですか」

「……なら、責任を取らなきゃな」

 バルドいきなりそう言うと、リュミの手を引いた。

 なんで男の人って、こんな身勝手なのだろう。だから、嫌いだっていうのに。

 バルドが向かったのは、ビルの外壁に縫い付けられた非常階段だった。

 四階とは言っても、ビルの中から外の景色を見ることが少ないリュミには、地面までが酷く遠くに思えた。

「……怖い?」

 バルドに訊かれて、リュミは首を横に振った。

 でもそれは精一杯の強がりでしかなくて、本当は怖くて堪らなかった。幸いというか不幸というか、バルドはリュミの手を握ったままだったので、それだけが心の支えだった。

 二人はカン、カンと音を立てて、非常階段を下っていく。

「……ごめんな。中の階段使ったら、サボってるのがばれるからさ」

「謝るくらいなら、どうして連れてきたんですか」

「言っただろ。ほっとけないって。俺たちは協力しなくちゃ、すぐに死んでしまう。狩りをしてると分かるんだよ。俺たちなんかより、鹿とか猪とかの方がよっぽど強い。俺たちがあいつらを狩れるのは、銃のおかげもあるけど、みんなで協力してるからなんだ」

 そのことは、リュミもトゥーシアから聞いて知っていた。

「それなのに、一人だけで泣いてるやつがいたら、ダメだろ」

「……わたしは狩りできないですよ」

 ずれた返し方をしたリュミに、バルドは困った顔をする。

「そういうことじゃなくてさ。狩り以外でも、俺たちは一人だったら生きていけないだろ」

 バルドの言うことは分からなくもなかったけど、今は一人でいたいのだ。

 でも、そんなことすらリュミは言えなかった。

 バルドは勝手だったけど、それでもリュミのことを案じてくれているのだから。

 非常階段を降り切ると、バルドはおもむろに、みんながいるビルから離れ始めた。

「あの……」

 どこへ行くのかと訊こうとしたら、バルドは笑顔で口に人差し指を立てた。

 しかし、バルドはほんの数十メートル歩いたところで足を止めた。ちなみにメートルというのは、大昔に使われていた長さを表す言葉らしい。

 そこは、空っぽの朽ちたビルに囲まれた、小さな原っぱだった。南のビルだけ背が低いおかげで、そこにだけ月明かりが差し込んでいる。

「綺麗だろ?」

 バルドが自慢げに言った。

 リュミは頷きかけて、慌ててそっぽを向いた。

「これだけの為に、連れてきたんですか」

 バルドは頷く。

「ああ。泣かせたんだから、楽しいこととか、感動するようなこととかで埋め合わせをしなきゃな」

「……あの」

「ん?」

「手、そろそろ放してもらえると」

「あ、悪い悪い」

 なんなのだろう、この人は。

 リュミにはバルドという人が、全く理解できなかった。

 どんなに突き放しても、一人にしてと言っても、バルドは聞き入れてくれない。本当に勝手なのに、何でだろう、悪い気はしなかったのだ。

 現に、こうして付いてきてしまった。本当に嫌だったら、非常階段を降りた時に手を振り払って逃げてしまえばよかったのに。

「……やっぱり、聞かせてくれないか。泣いてたわけ」

 そしてバルドは、また勝手に、リュミを助けようとする。

「……嫌です」

 どうせこの底なしに明るい人は、自分の話など聞き入れやしないのだ。

 でも、男の人に、ルアンナから言われたことで悩んでいる、などとリュミが言えるわけはなかった。

「男の人に、言えるようなことじゃ……」

 蚊の鳴くような、小さな呟き。

 しかし、リュミとバルドの周りには、何も、物音たてるようなものは存在しなかった。ここには、いつか人がいたであろう都市の遺骸しかないのだから。

「……赤ん坊の話か」

 びくりとリュミの肩が跳ねた。

「……知ってるんですか」

「噂で聞いただけ。女の子は十四になったら子どもを産んでくれと、まとめ役の連中から頼まれる、とか」

 リュミは、ゆっくり頷いた。

「やっぱり本当だったんだな。そうでもなきゃ、俺らはとっくにいなくなってるもんな」

「私は、知りませんでした。まさか、子どもを産むのが、やらなきゃいけないことだなんて」

「でも嫌なんだろ?」

 リュミはまた、頷く。

「そこまでみんなに合わせることないだろ。男が言うのもおかしいけど、それって凄い大変なことらしいし」

 でも、それはみんながしていることだ、しなければいけないことだ。自分だけが、なんて許されるのだろうか。

 リュミは自然と、俯いてしまう。

「わたしが悪いんです。役立たずなのに、覚悟を決めることもできなくて……」

「あー、もう!」

 バルドがいきなり大声を上げた。

「お前は役立たずなんかじゃないだろ! いつもみんなの為に頑張ってるし、子どもを持ちたくもないのに覚悟を決めるなんて間違ってる! もっと自分を大事にしろよ!」

 なんだろうか。この既視感は。

 そうだ。ついさっき、お墓から戻ってくるときにトゥーシアから、同じように怒られたんだっけ……。

 そんなことを、リュミはぼろぼろと涙を流しながら考えていた。

「あ……。ご、ごめん! いきなり怒鳴ったりして」

 さっきまでとは裏腹に、いきなり慌てだすバルド。

 リュミはそれが何だか滑稽に思えて、小さく吹き出した。

「あれ、笑ってる……? え?」

 リュミは、悲しくて泣いているわけではなかった。きっと、嬉しかったのだ。

「……ありがとうございます。トゥーシア以外でそんなこと言ってくれたの、バルドさんが初めてでした」

 するとバルドも笑い返した。

「……そっか。笑ってくれて良かった」

 その時初めて、リュミはバルドの顔を真っすぐに見ることが出来た。

 右に茶、左に金の瞳。特に左眼は、太陽みたいに綺麗だった。

「眼、綺麗ですね……」

 リュミが自然に口に出してしまうくらいに。

「へ?」

 素っ頓狂な声を上げて固まるバルド。

「わわっ!?」

 顔を真っ赤にするリュミ。

「えっと、あの、ごめんなさい……」

「いや、嬉しいよ。だって――」

 その先は、リュミには聞き取れなかった。

 乾いた音、血しぶき、苦しそうなバルドの顔。何が起きたのか、リュミには分からなかった。

 ただ、

「走れ!」

 バルドの怒声に反応できたのは、この短時間でそれだけ彼に心を開いていたということなのだろう。

 二人で、元来た方へ走り出す。

 その後方からまた乾いた音が響き、二人の近くのビルの外壁に小さな穴を穿った。

「な、なにが……」

「いいから、走れ! あのでかい瓦礫の裏だ!」

 力強くバルドに背中を押されて、リュミはみんなのいるビルの手前の、大きな瓦礫の裏に飛び込んだ。その後に、バルドも続く。

「バルドさん、血が……」

 バルドは、右の肩を後ろから撃たれていた。リュミは取り敢えず止血をしようと手を伸ばす。が、

「ほっといていい。止血する暇もなさそうだ」

 バルドは、伸ばされたリュミの手に、懐から取り出した拳銃を渡した。

 ずっしりとしたそれに、リュミの全身に鳥肌が立つ。

「ここが安全装置。外すと撃てるようになる。あと、撃つときは必ず撃鉄を起こすこと。そうじゃないと、リュミの腕じゃ銃がぶれる」

「あの、これは……」

 バルドは、力なく笑った。

「護身用。餞別だと思って。これから俺が、時間を稼ぐ。その間に、リュミはビルまで走るんだ。そして、みんなに伝えてくれ。『大人』が来た、って」

『大人』が来た? それは、どういうことなんだろうか。それに――。

「時間を稼ぐって、そんなことしたら!」

 リュミが声を荒げると、バルドは左腕でリュミを抱きしめた。

「いい? 向こうが持ってるのは狙撃銃の類だ。俺が囮になれば、リュミは安全に逃げられる」

「ダメです! それじゃあバルドさんが!」

「いや、これは俺の夢でもあるんだ。昔から、物語の中の、好きな人を守る戦士に憧れててさ」

「え……?」

 バルドは早口で、でもしっかりとリュミに聞かせるように、話を続けた。

「俺にも、越えられない奴がいるって言っただろ。あれ、トゥーシアなんだよ。俺がどんなに頑張っても、トゥーシアは俺の好きな人を、独り占めしちまう」

 リュミはもう、耳まで真っ赤になっていた。そしてバルドは、そんなリュミをみて晴れ晴れとした笑いを見せた。

「トゥーシアに会ったら、バルドとかいうバカが『ざまあみろ』と言ってたと伝えてくれ。

……これから、大人たちが俺らを殺しにやって来る。でも、お前だけは絶対に死ぬなよ」

 バルドは言うだけ言って、リュミを放すと、瓦礫の外へ飛び出した。

「じゃあな、リュミ! 最後に話せて、よかった」



 銃声を遠くに聞いたトゥーシアは、ビルの五階の窓に手を掛けたまま息を吐いた。

 よりにもよって、今来たの、と。

 少女はうんざりしたように、持っている装備を確認し始める。

 短機関銃は弾倉が四つ、腰のホルダーに入れたリボルバータイプの拳銃は六発。リュミを守るだけなら十分過ぎるけど、でもそれじゃ足りないのだ。

 トゥーシアは、左眼のあるべきところに巻かれた眼帯に、そっと手を当てた。

 もし、この世界を何も知らない誰かが見たら、どう思うだろう。

 汚され捨てられた地上、地下に隠れた大人達、そして、大人がもう一度地上へ出るための実験動物として放逐された、造られた子ども達。

 そして、トゥーシア達は、その造られた子ども達の末裔だった。

 これは、ルアンナのようなまとめ役とトゥーシアにしか知らされていない、この世界の秘密。

 その秘密に、ここ数年で新しいものが一つ加わった。トゥーシアの左眼だ。

 トゥーシアが左眼を失った経緯は至って普通で、狩りの最中に死に際の鹿の角で左眼を突かれてしまった、というものだった。だが、その後が問題だった。

 地下治療室。トゥーシア達がここを寝床にする一番の理由。トゥーシア達を生かし続ける、最も重要な大昔の遺物。それは、全ての怪我や病気に機械達が自動で対応してくれる、魔法のような場所だった。

 もちろん、左眼が潰れてしまったなんて大怪我、子ども達で治せる筈もなく、トゥーシアは地下治療室に運び込まれた。だが、トゥーシアにだけ、機械が反応しなかったのだ。

 その時は、今はもう死んでしまったヘンリーという男の子がトゥーシアに麻酔をかけ手術をしてくれたのだが、その事件で、当時のまとめ役達は大騒ぎになった。

 何せ、これまで自分たちの生命線だった地下治療室が故障したと思ったのだから、当たり前だろう。

 だが、地下治療室は故障してなどいなかった。他の子どもには至って普通に反応し、平常通り治療を行っていたのだ。

 そして、まとめ役たちは大昔のことを記してある本を読み漁り、一つの結論を出した。

 ここに住む子ども達の、左右非対称の瞳の色。その中で、大抵鮮やかな色をした左の眼こそが、自分たちを造られた者たらしめている可能性がある、と。

 恐らくあの地下治療室は、実験動物であるここの子ども達を生かすためにあるのだろうし、トゥーシアが左眼を失った途端に機械が反応しなくなった辺り、左眼が何かしらの意味を持つことは確かなんだろう。

 そして、靴の形をした大きな足跡が狩場の森で見つかって、大人がこのことに気付いて調べにやって来るということも、確かになった。

 いつか大人達がやって来る。そうと分かると、まとめ役達は『大人』の存在を一部の子どもに明かして、準備を始めた。

 やって来た『大人』を倒して、自分達が長く生きられるようにするために。

 それには勿論、トゥーシアも駆り出された。左眼という、大人達に造られたものである象徴を失ったトゥーシアは、世界の秘密を知っているまとめ役から見れば、大人の支配から逃れられた、何かきらびやかなものに見えたんだろう。

「まあ、担ぐなら勝手にしてして欲しいんだけど」

 しかし、トゥーシアそう吐き捨てた。

 自分が左眼を失った意味なんて知らないし、反抗の象徴だとか言われてもピンと来ない。

 トゥーシアが、どんな人たちかもしれない大人達に抗おうと思ったのは、単純にリュミが理由だった。

 物心つく前からの付き合いで、いつの間にかトゥーシアはリュミのことばかり考えていた。

 リュミは優し過ぎて、人の意見を聞きすぎて自分の気持ちを言えなくて、たまに卑屈で、でも根っこは誰より純粋で、そして、自分の弱さが分かっているからこそだれよりも強い。

 そんな子を、好きにならないわけはなくて、同じ性別を気にするなんてステップも、知らないうちに飛び越えていた。

「リュミが、早くに死ぬなんて、絶対いやだからね」

 今度は、小さく鋭く、気合いをいれるために息を吐く。『大人』がどんなものか分からないけど、リュミの命を延ばす方法を持っているなら、それを手に入れてみせる。

 まず、トゥーシアは下の階へ向かおうとした。だが、階段はさっきまで寝ていた子ども達でいっぱいで、意気込みに反して降りられる状況ではなかった。

 その中に、ついさっき「もう眠る」と言って下へ向かったルアンナの姿を見つけ、トゥーシアは声を掛けた。

「ルアンナさん! どうしたんですか、この子たち」

 トゥーシアの姿に気付いたルアンナが、近くにいた小さな子たちを注意深くかきわけて近寄って来た。

「大人達が来たのよ。だから、取り敢えずこの子達を上に逃がしてるの」

「上って、もう一階にまで大人が来ているんですか?」

 さっき聞いた銃声は、このビルからはそれなりに離れた場所だった筈だ。

「まだだけど、これだけの人数が外に逃げたら間違いなく大人に見つかるわ。そうしたら、何をされるか分からないじゃない」

 その言葉からは、大人への憎しみが現れていた。

 当たり前だろう。自分達を実験動物として扱う人達になど、憎む以外にどんな感情を向ければいいのか。

「トゥーシアも上に行きなさい。あなたに死なれたら困るの」

 まさか。そんなことするくらいなら、死んでやる。

「いいえ。リュミを捜してきます。見ませんでしたか?」

「リュミちゃんね……。ごめんなさい、見てないわ。今日あのことを話したりしなければ良かったんでしょうけど」

「そんなこと言ったって、始まりませんよ」

 トゥーシアは身を翻した。

「大人はまだ来てないんですよね。外の階段を使います」

「あ、気を付けてね!」

 心配するルアンナに、トゥーシアは軽く手を振った。

 軋むドアを開けて、ビルの外壁の非常階段を下る。多分、リュミは四階の隅っことかで考え込んでいる筈だ。もしかしたら泣いているかもしれないけど。

 こんなことなら、あのときルアンナさんと話なんかしないで、とっとと追いかければ良かった、とは後の祭りだ。

 リュミは真面目過ぎて現実を認識するのに時間がかかるから、しばらく一人で考え込ませて、その後に相談をしにいってあげようなんて、賢しい真似をしようとしたからだろうか。

 四階に入る。収穫した野菜とか、狩りに使う罠とかの仕舞われた木箱が積み上げられた部屋の中を捜しまわるが、どこにもリュミの姿がない。

「嘘でしょ……」

 だとしたら、あの後どこへ行ったのだろう。

 あり得なくはない可能性には、あのまま二階か三階に戻って寝てしまった、というのがある。だが、それならルアンナ達と上の階へ行っているはずで、リュミの安全はもう確保されていることになるから、この可能性は考えなくていい。

 なら、最悪の可能性とはなんだろう。そう考えたトゥーシアの脳裏に、あることが閃く。

「まさか外に!?」

 トゥーシアが窓に駆け寄る。瞬間、このビルの近くで、続けざまの銃声が鳴り響いた。

 反射的に身を屈め、窓の下へ隠れる。だが、今のはこの窓とは逆の方向、しかも下から聞こえた気がする。

 トゥーシアは四階の中を駆け抜けて、さっきとは反対方向の窓から外を見下ろした。

 同時に、再びの銃声と、悲鳴。

「バルドさんっ!!」

 今の、リュミの声? それに、バルドって……。

 トゥーシアの右眼に移ったのは、大量の血を流し倒れている、狩りで見慣れた仲間の姿だった。

「バルド……?」

 確かにその姿は、バルドだった。

 沸々と、トゥーシアは怒りがこみ上げてくるの感じた。

 獣が死ぬのは山ほど見てきた。自分を助けてくれた人や育ててくれた人が死ぬのも山ほど見てきた。でも、仲間が誰かに殺されるのは、初めてだったのだから。

 トゥーシアは非常階段へ走った。



 同時刻、ビルの一階。

「嫌です! バルドさんが!」

 リュミは撃たれたバルドを助けに行こうとしていた。

 彼に言われビルまで走って、振り返った瞬間、リュミはバルドが撃たれたのを、その両目で見ていたのだ。

「ダメだ。バルドはどうせ、絶対死ぬなとかクサいこと言ったんだろ。なら、その思いを無駄にするな」

 制止する少年も、辛い表情をしていた。

 彼も本心では助けに行きたいに決まっているのだ。だが、今そんなことをすれば、助けに行った人も撃たれてしまう。

「取り敢えず、ここにいる最年少のやつを護衛に付ける。君はそれで上に……」

 少年が言いかけた時、不意に銃声が鳴り響き、コンクリートの壁が弾けた。

「伏せろ!」

 少年に腕を引かれ、地面に倒される。

 銃弾の嵐はしばらく続いた。そして止んだ瞬間、異変が訪れた。

「お前、どうしたんだ、その眼」

 少年にいきなり肩を掴まれて、リュミは驚愕した。

 その少年の左眼が、はっきりと判るほどに光を放っていたのだ。

「え?」

 周りを見渡すと、銃弾が過ぎ去った後の埃の中で、他にも光が見えた。

 みんなの左眼が、光っている……? と、呑気に考えられたのはそこまでだった。

 リュミは突然、地面に倒れた。体がまるで人形になってしまったかのように、力が入らなくなってしまったのだ。

 どうにか視線を、一緒にいた少年に向けると、同じように地面に倒れている。

 そしてその少年の向こうに、リュミは『大人』の姿を見た。

 全身真っ白で顔一面にマスクをし、太い手足の大きなシルエット。それが、全身を覆うぶかぶかの服のようなものだと気付いたのは、少し経ってからだった。

 ぐん、と自分の視点が上がる。抱え上げられたのだ。

 そのまま、リュミを抱えた大人はどこかへ歩いていく。揺れ動く視界に、全く同じ姿の大人達が何人も映った。リュミを抱えている大人以外はみんな、トゥーシアなんかが使っているものより一回り大きい銃を持っていた。

 リュミは、死ぬのかな、と何となく思った。

 バルドはこの人達に撃たれたのだ。きっと自分も、同じような末路になるんだろう。

 大人達が向かったのは、なぜか地下治療室だった。

 ぎい、と重い扉を開け、中へ入っていく。中は壁も床も薄緑をしていて、広大な部屋にカーテンで仕切られたベッドが並んでおり、奥には治療をするための機械が備え付けられている。

 大人達は迷わずに地下治療室の奥に向かった。そこで、リュミを抱えていた大人は、冷たい床にリュミを無造作に投げ出すと、顔全てを覆っていたマスクを外した。

「諸君、ここは空気清浄機能が働いている。エアーを温存したまえ」

 大人の、男の声。リュミのような子どもにとって、その声はとても低く乾いたものに聴こえた。

 後ろにいた他の大人達もマスクを外したのが、リュミには音で分かった。

「さて、こちらの停止信号は受け付けてくれたようだが……」

 リュミを投げ出した大人は、リュミの顔を、正確には左眼を覗き込んだ。

 皺が寄り、髭の生えた顔。それは、化け物のようにも見えた。

「おお、きちんと光っているな。二百年経ってもここに問題はなかったようだ」

 その男は満足そうに笑うと、リュミから離れ、地下治療室の機械を弄り始めた。

「あ、そうだ。そこの君。こいつに手錠を嵌めてくれないか。生体義眼の権限を停止すると、停止信号も受け付けなくなるからな」

「はっ」

 男に言われた他の大人が、動けないリュミの腕に、どこからか取り出した手錠を嵌めた。

「……エギーユ先生、他の連中はどうしますか」

「どうするも何も、この実験グループは処分だと言っただろう。私たちの存在に勘付いて反抗するなんて、とんでもないエラーだ。この治療室の電力をデバイスにつないで、停止信号を出し続け餓死させるのが一番楽だ。そうしたまえ」

「承知しました」

 どうせ死ぬんだと諦めていたリュミの思考は、エギーユと呼ばれたその男の言葉で、一気に危機感を伴ったものに変わった。

 みんなを、餓死させる?

 トゥーシアもルアンナさんもみんな?

 リュミは、必死にもがいた。

 死なせたくない。みんな勝手だけど、あんなに頑張って生きようとしてるのに。

「おや、どうした。さっきまであんなに大人しかったというのに」

 それに気付いたエギーユが、リュミの肩を掴んだ。

「みんなを、ころさないで……」

 無理矢理喉を動かして、声を搾り出す。

 しかし、必死なリュミの思いを聞いたエギーユは、可笑しなものを見たような顔をした。

「解せないな。自分よりその他大勢が大事かね。それとも自分も殺されると思ったかね」

 エギーユは、嘲りの笑みを浮かべた。

「安心したまえ。君は殺さんよ。いくら処分とはいえ、こちらも収穫が零というのは避けたいからね。手近で、闘う力のなさそうな君を地下へ連れて帰るのだよ」

 この人は、何を言っているのか。リュミは心底鳥肌が立った。

 勝手に自分の思いを押し付けられることは、今までたくさんあった。でも、こんなにも嫌なのは、これが初めてだった。

 自分を勝手に決めつけられるなんて。それも、みんなを殺そうとする大人なんかに。

「……そら、眼を開けてじっとしていろ。怖いだろうが、痛くはない」

 エギーユは治療室の機械から、小さな細長い金属の塊を取り出した。それの先端には、指先ほどの大きさのごく薄いお椀のような機械が付いていた。

 そしてエギーユはそれを、リュミの顔に近づけた。

「いや……!」

 平然と、みんなを処分しようなんて言い出す大人の近付けるものなんて、怖くて堪らなかった。

「動くなと言っただろう」

 エギーユはリュミの顔を掴むと、左眼にその機械を押し付けた。

 リュミがもがいたからか、それとも単純にエギーユが嘘を吐いたのか。リュミの左眼に激痛が走り、リュミはたまらず悲鳴を上げた。

 しかし、その悲鳴は、結果的に状況を一転させる始まりになった。

 エギーユがリュミの左眼から機械を離すと同時に、治療室の中に短機関銃の銃声が鳴り響いた。

 各々に悲鳴を上げて倒れていく大人達。

「こんな室内で銃を使うだと!」

 叫ぶエギーユ。それに答えたのは、残った他の大人達に差し向けられた、拳銃の音だった。

「……跳弾の心配なら大丈夫だよ。全部当てたから」

 蜂の巣になった大人達の残骸を踏み越えて来たのは、リュミのよく知る眼帯の少女だった。

「トゥーシア……!」



 数十分前。

 非常階段で下まで降りてリュミを捜そうとしていたトゥーシアは、唐突に始まった一階部分への銃撃に、咄嗟の判断で非常階段の陰に身を潜めた。

 銃撃が止むのを待って、トゥーシアは一階を覗き込み、驚いた。

 舞った埃でよく分からなかったとはいえ、みんなの片目が光っていたのだ。その後、みんなは人形の糸が切れたように倒れて、真っ白な防護服を来た体の大きな連中が、誰かを連れ去って地下治療室に向かったのを見た。

 あの白い防護服を着たでかい連中がきっと『大人』なのだろう。自分達の先祖を造って放逐した奴ら。なら、奴らがトゥーシア達を管理する何らかの方法を持っていても、不思議じゃない。

 そして、それにはやはり左眼が関係していた。

「まさか、ルアンナの盲信がほんとになるなんてね」

 そう、トゥーシアは独りごちて、短機関銃を構える。

 一階の中には二人の大人が残っていた。見張りのつもりだろうが、子どもは全員ああして倒れていると思っているのだろう。

 防護服のマスクのせいで表情は分からないが、動作からは緊張は感じられない。

 奇襲を受けるなど、考えてもいないだろう。

「そっちだって殺したんだから……!」

 トゥーシアは小さくも力強く呟いて、窓から一階へ飛び込んだ。

 倒れた子どもたちを踏まないように走り抜けて、やっとトゥーシアに気付いた二人の大人に、短機関銃を撃ちまくる。あの防護服が頑強だったらと考えたら、不安で堪らなかったのだ。

 弾倉一つを使い切って、トゥーシアはやっと撃つのを止めた。

 酷く息が上がっている。防護服のせいではっきり人の姿をしているわけじゃないけど、人だと思って殺すだけで、こんなに疲れるのだろうか。

 防護服に開いた穴から、どくどくと赤いものが流れていく。人の血だと思うと、吐き気がこみ上げた。

 もしかしたら自分も、こんな風に誰かに撃たれて死んでしまうのか。そんな予感が頭をよぎる。

「……大人のくせに」

 子どもの自分達を利用している汚い存在のくせに、なんで、殺す側にこんな嫌な思いをさせるんだ、と。トゥーシアは身勝手な文句を口にした。

「……リュミを捜さないと」

 トゥーシアは近くに倒れていた少年を抱き起した。

「ねえ、大丈夫? 喋れる?」

 少年は完全に脱力していて、半開きになった左眼がまだ光を放っていた。

「あなた、は……」

 少年は弱々しい声を出した。

「リュミを見なかった? どこにもいないの」

「あいつらに、さらわれて……」

 トゥーシアは息を呑んだ。生きていてくれて良かったけど、想像以上に最悪の状況だった。

 攫われた、ということは、リュミは大人達がいるところにいるのだろう。つまり、

「地下治療室にいるんだね」

 少年は小さく頷いた。

「ありがと。無理させてゴメン」

 トゥーシアはその少年を寝かせると、短機関銃の弾倉を取り換え、地下治療室へ向かった。

 念のために、下り階段の前で様子を窺う。さっきの発砲音が聞こえていたなら、既に別の大人が差し向けられているはずだったから、それほど警戒はしなかった。

 階段を降りて地下治療室の重い扉をそっと開けて、トゥーシアは体を滑り込ませた。

 地下治療室の中はカーテンで仕切られているから、身を隠すのは簡単だ。

 だけど、そうはいかなかった。

 突然上がった、痛々しい悲鳴。

 間違えようもない。リュミのものだ。

 気付いた瞬間に、トゥーシアは走り始めていた。身を隠そうとしていたカーテンの陰から飛び出し、悲鳴の上がった地下治療室の最奥部、治療用の機械がある場所へと。

 そこには、十人ぐらいの大人達が背を向けて立っていた。彼らなぜか、背後からトゥーシアが走ってきているのに気付かない。

 リュミの悲鳴が、トゥーシアの足音をかき消しているのだ。

 誰よりも優しくて強い、大好きなリュミに、これ以上こんな悲鳴上げさせらない。

 トゥーシアは走りながら短機関銃を構える。その段階になってやっと、後ろの方にいた何人かがトゥーシアに気付くが、もうすでに遅い。

 引き金を引いたまま、群れる大人達の右端から左端まで、銃口を振り抜く。

 幼いころから狩りで銃を扱ってきたその腕は伊達ではなく、全弾が大人達の胴体へ命中した。しかしそれでも、三人は無傷だった。

 トゥーシアはすぐさま短機関銃を投げ捨てると、腰のホルダーから拳銃を引き抜いた。

「こんな室内で、銃を使うだと!」

 誰かが叫ぶが、トゥーシアは全く気に留めない。

 バン、バン、バン。

 一発ごとに撃鉄を起こしているにも関わらず、トゥーシアは一瞬で三人を仕留めて見せた。

「跳弾の心配なら大丈夫だよ。全部当てたから」

 さっき叫んだ誰かにトゥーシアは返答し、その誰かに容赦なく銃を向けた。理由は簡単だ。その誰か――髭面の男が、床に転がされているリュミを押さえつけていたからだ。

「トゥーシア……!」

「ねえ、リュミから離れてくれるかな?」

 男は、おどけたように両手を挙げ、リュミから離れた。

「君は、左眼を失くしているのか。道理で動けるわけだ」

「……その手の。なに」

 男の発言を無視し、トゥーシアは銃口で、その人物が持っている機械を示した。

「君たちが、本当の寿命を全うするためのものだ。感謝したまえ。私たちが来なければ、君たちは十七かそこらで死んでしまうところだったのだよ」

「バルドを殺しておきながら、よく言うよ」

「撃って来たのは向こうだ」

 トゥーシアは、リュミが小さく首を横に振ったのを確認した。

「他に用がないなら、さっさとそれを置いて帰って」

 男は、卑しい笑みを浮かべた。

「態度が大きいのではないかな、君は。君たち地上の子ども達を創造したのは、私たち地下に逃れた真性の人類だというのに」

 トゥーシアは撃鉄を起こした。

「だからなに? あんた達が、一度でもあたし達を助けてくれたことがあったの」

「おや、今助けたじゃないか。私の持っているこれがあれば、君たちは何十年でも生きられ……」

 バン。

 男は、血を流している自らの右太ももを見て、信じられないという顔をした。

「貴様……。何をしているのか分かっているのか!」

「ふざけたことしか言わない奴を黙らせた。それだけだよ」

 トゥーシアは、また撃鉄を起こす。

「それの使い方を教えて、そして置いていって。そうしたら、殺さないであげるから」

 男は、何か言おうとした。しかし、口よりも早く、目線が右に動いたのを、トゥーシアは見逃さなかった。

 トゥーシアは素早く右を向き、死に際に自分へ銃を向けていた大人へ、弾丸を放った。

 しかしそれが、隙になってしまった。

「トゥーシア!」

 リュミの悲鳴。反応する暇もなく、激しい痛みに胸を貫かれた。

「畜生どもが。やはり、貴様らは人間ではない。会話などした私が間違っていたようだ」

 トゥーシアは、隠し持っていた拳銃で自分を撃った男を睨みながら、膝を突いた。

 力が入らない、どんなに息をしても苦しい、痛い。肺を貫かれたのは確実だろう。

 男は、勝ち誇った顔でトゥーシアを見下した。

「貴様を殺せば、ここには人形と化したガキしかいない。真性の人類に、紛い物の子どもなどが勝てるわけないのだよ」

 男は再びトゥーシアへ銃を向けた。しかし、それが撃たれることはなかった。

 突然鳴り響いた、全く別の銃声。一瞬で男は胸を打ち抜かれ、その命を絶たれていた。

「リュミ……?」

 いつの間にか立ち上がり、手錠を掛けられた手で、トゥーシアには見覚えのある拳銃を構えた、泣き顔の少女によって。 

 


 トゥーシアを助けなければ。

 リュミには、その感情しかなかった。

 左眼に何かされたときから、なぜか体はいつも通りに動くようになっていて、バルドから貰った拳銃は幸運にも大人達に気付かれていなかった。

 それ手錠をされた手でなんとか取り出し、夢中でエギーユに向けて撃った。

 エギーユに弾丸が当たったのも、ほとんど奇跡に違いなかっただろう。

「トゥーシア!」

 バルドから貰った拳銃を取り落とし、リュミは胸から血を流すトゥーシアに駆け寄った。

「トゥーシア、早く治してもらわなきゃ……! 立てる? ここの機械なら……」

 しかしトゥーシアは空しそうに笑った。

「無理だよ……。リュミだって知ってるでしょ。あたしには左眼がない。だからここの機械は反応しないんだよ」

「でも!」

 そんなのやってみなくちゃ分からない。

 だって、トゥーシアが死んでしまったら。死んでしまったら……!

「リュミ、聞いて」

「……いやだ」

「リュミ」

 諭すようなトゥーシアの声に、リュミは駄々をこねるように叫ぶ。

「トゥーシアが死ぬなんて、絶対いやだ!」

 すると、トゥーシアは弱々しくリュミを抱きしめた。

「リュミは、とっても優しい女の子だよ。優し過ぎるくらいに。だからもっと、わがままになって。人って、自分の思いを別の人にも受け入れてもらいたい、そういう生き物なの。だから、リュミみたいな子は、いつか壊れちゃう」

 リュミは、トゥーシアのこんな言葉、聞きたくなかった。

 だって、これじゃ遺言みたいで、これからトゥーシアが死んでしまうみたいで。

「だけど、そんなリュミだから、あたしも思いを託せる。きっと、バルドもそうしたんでしょ」

 リュミは、声を殺して泣いていた。

 本当は大声で泣きたかったけど、そうしたら、トゥーシアの声が聞こえないから。

「リュミ。あたしの分まで、大人になって、子どもを産んで、おばあちゃんになるまで、生きて」

「わたしには無理だよ……。こんなに弱くて、トゥーシアやバルドさんがいなくちゃ、なにも」

「そうじゃないの。リュミは、自分が弱いことを知ってる。それが何より強いの。誰かが落ち込んで、悩んでいるときに、本当の意味で傍に寄り添えるのは、リュミみたいな人だけ」

「そんなこと言われたって……」

 リュミがいつまでもいじけていると、トゥーシアがくすりと笑った。

「あー、もう……。リュミは自身がないだけなんだよ。あたしは、リュミの全部が好きだよ。だから、自信を持って」

 リュミはもう、なにも言わなかった。

 トゥーシアの声がだんだんと小さくなって、リュミの肩にかかる重みも増してきていたのだ。

「リュミ、最後にお願いがあるの。……キスして」

 泣きたかった。やり直したかった。でも、泣いても何も起きないし、やり直しなんて夢の話だ。

「……わかった」

 リュミはそっと、トゥーシアと唇を重ねる。瞬間、トゥーシアの体から、完全に力が抜けた。

 命を、貰った。

 リュミはそんな気がした。



 ――わたしは、その後のことを憶えていたり、憶えていなかったりする。というのは、リュミはみんなが何をしていたかは憶えていたが、自分が何をしていたかはあまり憶えていないのだ。

 きっと、抜け殻のようになって、何もしていなかったんだろう。

 トゥーシアが息を引き取った後、わたしは何時間か呆然としていて、ふと思い出して、エギーユの言っていたデバイスというものを銃で撃って壊した。

 そのすぐ後に、ルアンナさんや他の子ども達が地下治療室に来て、わたしを介抱してくれた。その時に、わたしにも治療室の機械が反応しなくなっていることが分かり、ひと悶着あったと後で聞いた。これも後で聞いた話だけど、わたし達の左眼が、わたし達を短命にしたり、治療室の設備を動かしたりするの必要だったりしたらしい。

 バルドは、亡くなってしまっていた。でも、あの大人達の襲撃の犠牲者はバルドとトゥーシアだけで、他の子たちはみんな生きていた。

 その後は、わたしぐらいの子たちも、まだ小さな子たちもみんなで話し合って、で、その間にルアンナさんが「お腹に子どもを入れたまま死にたくない」と言ってあの機械を使って、始めて治療室を使わないで赤ちゃんを産んだ。

 何時間もかかる難産だったらしいけど、みんなで四苦八苦した挙句、元気な女の子が生まれた。そして、その子の瞳が両方ともルアンナさんの右眼と同じ茶色をしていて、その子にも治療室の機械が反応しなかったことで、みんなの話し合いは結論を得た。

 五年経った今、わたし達はあの廃墟と短い寿命を捨てて、狩場だった森で暮らしている。



 緑鮮やかな木々と草とささやかな木漏れ日の中に、石が二つ突き立っている、小さな広場にて。

「リュミ、まだいのってるのー?」

 石の前で手を合わせていたリュミは、舌足らずな声に苦笑いして振り向いた。

「トゥーシアちゃん、また一人で来ちゃったの?」

 リュミの後ろにいたのは、あの時ルアンナが生んだ子どもだった。

 名前はトゥーシア。リュミが頼んで、そう名付けて貰ったのだ。リュミ達が真に自分達で歩き出す、その証明の赤ちゃんなのだから、と言って。ちなみに、その後に別の人が生んだ男の子には、バルドという名前が付けられたらしい。

「ねえ、リュミー」

 幼いトゥーシアはまだ会話が拙くて、こうやって相手の言ったことを無視することがよくある。

「なに?」

「まえのトゥーシアって、どんなひと?」

 どくんと心臓が跳ねた。

「……どこで、そのことを聞いたの?」

「おかあさんが、ねごとでいってた」

 寝言を言うルアンナを想像して、リュミは小さく吹き出した。

「どーしたの?」

「ううん、なんでもないよ」

 言って、リュミはトゥーシアを抱え、二つの石の前に腰を降ろした。

「このいし、おはか?」

「うん。こっちはバルドさんの。で、こっちはトゥーシアの」

「わたししんでないよ?」

 リュミは、幼いトゥーシアの頭を撫でた。

「だから、前のトゥーシアのだよ」

「へえー。で、どんなひとだったの?」

「慌てないで。ちゃんと話すから。えっと、前のトゥーシアはね……」

 その後、リュミは五年前のトゥーシアのことを、幼いトゥーシアに語って聴かせた。ただ、途中で幼いトゥーシアは眠ってしまったけど。

 リュミは眠ってしまった幼いトゥーシアを草原に降ろして、自分も隣に寝転がった。

「バルドさん、わたしは生きてます。みんなと協力して、誰も一人で泣かないように」

 小さく呟く。

「トゥーシア、まだ子どもは産んでないけど、ちょっとわがままになれたよ」

 また、呟く。

 そして、リュミは木々のざわめきを聴きながら、少しだけ涙を零した。

「ずっと大好きだよ、トゥーシア」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こどもたちのエデン 雛田安胡 @asahina_an

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ