第3話


     



翌日、繰り返してきた『いつも』のために、美恵は昨日と同じ時間の電車に乗った。

一定間隔の揺れに身を任せて、最寄りの駅まで到着すると人の波に乗って学校まで歩く。

今日は珍しくも、雑音が聞こえない。

(頭が痛い……)

心なし身体全体が重だるい気がして、靴箱の前で美恵は額を押さえた。

「おっはよー」

「はよー。あれ、たはらんどうしたの?」

「……少し、気分が」

聞き流せたクラスメイトの声が、頭の芯に響いて気持ちが悪い。

靴を履き替えながらそう答えると、優しいようで優しくない彼女たちは、それぞれ大丈夫?薬ある?などと口々に言いながら美恵の周囲で騒ぎ出す。

「保健室行くから、先に行っててもらえるかしら」

「いーよいーよ。鞄、どうする?」

手の甲に触れかけた手を避けて、一歩の大きさを小さくした。彼女たちから程よく距離が開いて、息苦しさが和らぐ。

「気にしないで。先生にだけよろしく伝えて」

「おっけー。お大事に」

ひらひらと振られた粗末な手に小さく指を振って、美恵はすごすごと保健室へ行ったのだった。

「……おはようございます」

「はい、おはよう。体温計ならそこよ〜」

朝だというのにこの学校の生徒は負傷しやすいらしい。美恵がなけなしの力で開いた扉の向こうには、既に二人ほど先客が居た。なんともタイミングの悪い、と舌打ちをしたい気持ちを抑えて体温計を借りる。

ダークブラウンの髪を綺麗にカールさせ、耳にはイヤリング。お姉さん系として男子には人気の保健の教師は、美恵の方を一瞥した後、すぐに目の前の男子生徒の手当てに移った。

ひとり、ふたりと出て行き、体温計が音を鳴らす頃にはすっかり二人きり。

「三十六度八分……微熱かな。生理は?」

直球の質問に、頭痛がさらに酷くなる。彼女から華やかなニオイが漂ってきて、美恵の周囲の空気を濁す。

「……これからです」

「じゃあそれかもしれないわね。薬は?」

「飲まないので……」

「はい。じゃあこれ飲んで一時間だけやすみなさい。起きたら戻るのよ」

「…………はい」

指先だけでも触れたのが気持ち悪くて、コップの冷たさで温さを誤魔化す。薬を飲んで立ち上がると、鞄を片手に美恵はベッドへ向かった。

皺になるのが気になって、スカートの折り目を整えてから腰を落ち着かせる。清潔なだけのシーツの上に足を滑らせ、布団を被った。

制服のまま寝ることに気持ちの悪さは隠せなかったが、背に腹は変えられない。

ずきずきと頭が痛む。

目を閉じると、壁一枚隔てた向こうの喧騒が消える。

一時の静寂が、美恵の意識の中に訪れた。

「━━」

次に目を覚ましたとき、隣のベッドには人の気配があった。

粘着質な音。それがなんなのかは直ぐには悟れず、美恵は静かに身を起こす。革靴に足を通し、わざと音を立ててカーテンを開けた。

途端臭う、香水以外のモノ。

先生は不在らしく、扉には鍵がかかっているのが見て取れる。

内側からかけられた、鍵だ。

(……)

下腹部の熱さと相まって、目を覚ました思考が結論を出す。

「先生、」

カーテン越しに、熱を感じた。

「私、授業に戻ります」

「……わかったわ」

甘い響きの声は媚薬のようで、美恵の感情を一瞬でかき乱した。

冷静を装って、呼吸を堪えて扉に向かう。カタン、と鍵を外して扉を開けると、生温い風に迎えられる。

(気持ち悪い)

寒くもないのに悪寒が走って、美恵は駆け足で教室に戻った。





その日、萌子にしてはめずらしく、何もない穏やかな始まりだった。

心配された彼氏との関係は誤解を解くことで修復され、漫画喫茶で夜を明かした後の萌子の心を簡単に癒してくれた。一度帰宅してから姿をくらませた萌子は、この後両親どちらか──可能性としては母親のほう──の叱責ないし泣き言が待っているはずだが、そんなことはもう日常茶飯事となり、今更気にすることでもなくなっていた。

金切り声だけ堪えればいい。押し付けるだけの声に適当に頷いてやれば、話を聞いてやれば、彼らは勝手に萌子から離れる。親だから、などとどの口が言うのかわからないが、それが彼らのやり方で、それのために萌子は今のようになった。

「ふんふんふ〜ん」

「ヘッタクソ」

「うるさい」

鼻歌を歌いながら爪の手入れをしていると、隣の席の都築つづきすぐるが感想を投げてきた。

真面目を絵に描いたような地味な男子だ。休み時間も友人たちとたむろすることもなく、そうやって宿題を終わらせることに必死になっている。

まるで誰かさんのようだと、萌子は頬杖をついた。

「なーにやってんの」

「課題。見て分かるだろ」

この手の堅物は、人が話しかけても手を止めないのが常だ。カリカリと数式の刻まれるノートに辟易して、萌子は肩をすくめる。

「やーだやだこれだから真面目ちゃんは。明後日までの課題でしょ、それ」

「次の数学、お前当たるよな?」

「ちょー賢いすぐるくーん!ノート見せてくれなーい?」

「お前な……」

「さんきゅ!」

机上に用意されたノートを奪い、ルーズリーフを用意する。

どんなにからかったとしても、彼らがいるから成り立つ部分があるわけで、萌子はその恩恵に預かっているので本気で彼らを馬鹿にはしない。

問題文すら読んでいないが、数の組み合わせでなんとなく問題を考える。写しながら計算し、最後の答えまできっちり計算ミスがないのを確認して、萌子はノートを閉じる。

「助かったわ〜」

「勝手に借りといてよく言うよお前……」

睨めつけるような視線を振り払うように手を振って、萌子は立ち上がる。休憩時間終了まであと五分程、お手洗いに行ってこようかとハンカチを取り出した。

「あ、たはらーん!大丈夫?」

顔を上げた萌子の隣を、誰かが通り過ぎる。

「……もう大丈夫。ありがとう」

黒髪が視界の端から消えて、遅れ香が萌子の鼻先をかすめた。

(これ……)

いやいやまさか、そんなわけない。咄嗟に否定が駆け巡って、考えてしまった自分に気付く。

「柏木、何してんの」

「あっ!ちょっとトイレ!」

「わざわざ報告しなくていーよ」

偀の言葉に慌てて現実感を取り戻し、萌子は急いだ。

用を済ませ、手洗い場で手を洗いながらぼんやりと考える。

アレは、間違いない。

(……まさかあんな子がそうとは誰も思わないわよね……)

鏡を見上げる自分が、瞳に映る。

萌子に対して彼女が反発する理由。それは、そういった意味での同族嫌悪や、対象が重なっているなどの、所謂萌子にとって身近な理由なのだ。

澄ました顔をしていながら、馬鹿らしい。彼女は単に、同じ土俵に立っていたくないだけだったのだ。

「覚悟してなさいよ、田原美恵……!」

萌子が蛇口を捻ったところで、呑気に授業開始のチャイムが鳴り響いた。





(……もう、全てがどうでもいい……いやそんなことはないけれど)

あれから数時間。薬の効き目でなんとか授業に出席することができたものの、美恵は未だ学校から帰れずにいた。

頭痛もなくなり、気怠さだけが身体に残っているだけだからと、委員会に顔を出したのが運の尽き。それからあれよあれよと言う間に書庫の掃除を押し付けられ、本の整理を頼まれ、気付けば外はすっかり夕暮れを迎えている。

残すところ書棚に戻すのは五冊、特に予約が入っているわけでもない図書ばかりで、正直に言って明日の仕事に割り振ってもいいくらいである。

それでも仕事をしているのは、書棚にしまうことで奇跡のような出逢いを果たすことが少なくないからだ。人の少ないこの時間の整理は、誰にも邪魔されず、見つけたまま静かに読み耽ることもできて、楽しい。

「おーい、大丈夫かー?」

「……なんとか」

「なんだよその顔」

中学の時からの知り合いが、ぱたぱたと駆け寄ってくる。その道は先程美恵が掃除したばかりだが、最早小言を言う気にもなれない。絨毯の上でもぱたぱたと音を立てながら、彼女は腰に手を当てる。

「しんどそうだったから。後はやっとくし、先帰りな」

「……それならもう少し早く来てほしかった」

「うるせー、贅沢ものがあ」

美恵のこめかみを指先で小突いて、彼女は図書を奪う。

空になった手のひらを握りしめて、美恵はありがと、と小さな声を出した。

入り口まで見送られて、教室まで廊下を歩いていく。例の保健室の前を通る時は少し早足で、他クラスの教室の前では静かにと、遊ぶようにして自教室へとたどり着く。

人の気配はない。いるはずもない、と信じて扉を開けた。開けなければよかったと後悔をしたのは、言うまでもない。

「……あ」

萌子が年上らしき学生に抱きついた状態で、間抜けな声を出す。

少しだけ乱れた衣服。大きな手が触れている細い腰。

学ランに絡む、白い脚。

「……」

かろうじて、表情を変えずにいられた。目を伏せて無言のまま自席に向かい、鞄に荷物をまとめ始める。二人の位置からは遠い席でよかった。

「……じゃ、また明日な」

「あ、ちょっ」

舌打ちをして、男子学生の方が教室を出て行く。こんなところでしている方が悪い。舌打ちをされる筋合いなどない。

鞄の口を締めて、美恵もできる限りさっさと帰ろうとした。

彼女と二人きりなんて、この後どういう展開が起こりうるか嫌でもわかる。

「っあんた、なんなの!?」

それは、肌に突き刺さった。

ひどい剣幕、金切り声。唾が頬に飛んだ気がする。

気持ちの悪い、ついでに行儀の悪い彼女を、どうして自分が応えなければならないのか。

━━いや、違う、と自分の疑問に答えながら、美恵は彼女を見た。

今日はずっと気に食わないものを側に感じさせられてきた。

彼女には、常日頃から勘に障ることばかりされてきた。

一方的な受け止めだと理解していながら、美恵はそれら一切を受け流せなかった。

「こんな場所でそうしている自分たちの責任でしょう。言いがかりは止して」

鞄を机の上に置き、萌子を見下ろす。身長はこちらの方に分があった。

「はああ?!あんただって今朝保健室でやってたじゃない!?自分のことは棚上げするわけ?」

近付いてくる茶髪頭は、声だけでなく動きもうるさい。

「何を言っているのか分からないわ」

真正面に対峙して、美恵は無表情に応じる。

「だから!保健室から帰ってきたときよ!今日あんた保健室行ってたでしょ!」

「よく覚えているわね」

冷ややかな返答に窮して、萌子が語調を緩める。

「どーも。あのあとのあんた、アレの匂いばっかしてたわよ。……なんなの、私のこと嫌いみたいだけど、同族嫌悪なら他所でやってくれない?」

わけのわからないことを、と思って聞き流そうとして、美恵は戸惑った。

保健室にいたのは事実だが、彼女の言うにはーー美恵は彼女が先ほどしていたような行為をしていた、とそういう風に見えた、らしい。

「……匂い?」

「女性特有の」

「……私から?」

「そーよ。男の方はしなかったけど」

「…………寝てただけよ、」

その匂いの主が分かって、美恵は言葉に詰まった。

言って、どうする。

(……自分の弁護をすればいい、じゃない)

自分以外の誰かが保健室でそういうことをしていて、自分はただ、隣のベッドで寝ていただけだと、そういえば終わりそうな話なのに、そういうことを『知っている』彼女の前で、それは言えない気がした。

「どうしたの」

訝しんだ萌子が、美恵の顔を覗き込んでくる。

「━━貴女は、なんでそういうことができるの?」

「は?」

俯き、顔を隠す。それ以外には身体のどこも動かさず、美恵は尋ねる。

彼女が気になって仕方なかったのは、気にくわないからだ。

いつも笑って、同性を見返らず、異性ばかりを意識して、愛されたいと惜しげもなく示す、その無様な姿が、見ていて気持ち悪かったからだ。

「なんでって……愛されるの、嬉しいじゃん。恋とかも楽しいし、……気持ちいいし」

「へえ……そう。じゃあ、貴女にとって、愛ってなんなの?」

「は?そんなの、好きだって言って側にいて、いろいろ共有することじゃん」

単純明快な『受け売り』に、吐き気がした。

どんなものかも知らないで、それを信じ続けている純粋性。

彼女の見た目にそぐわないその素直さが、なによりも美恵のいやなところを刺激するのだ。

「キスをしたり、性行為に及ぶことが、そうなんだ?」

「そうよ」

「そう」

「……なによ」

単調になった返事、萌子が警戒する。

その程度で警戒するなら、もう少し自分のことも警戒すればいいのに、と美恵は思った。

手を伸ばす。美恵よりも少し大きな、異性を知っている柔らかい肌に指を這わし、掴んだ。

「は、なに」

引き寄せて、ついでに自分も身を屈める。

やり方など知らない。触れあわせれば『そう』なる。

それが、この世界の理になっている。

「……キスができれば、愛なんだ?」

可笑しくて可笑しくて、美恵ははじめて『意識して』笑った。

不思議なことに、呆けた顔が間抜けすぎていっそ可愛らしく見える。

(分からないでも、ないわ)

彼女の真っ直ぐな、迷いないこころ

否定されてもなお、それは崩れないらしい。

「それじゃ」

「えっ、ま、待ちなさいよ!」

笑ったまま背を向けると、今度は彼女から手を掴まれる。

おかしな話だ。互いに嫌っているのに、相手に手を伸ばすのを止めないなんて。

(滑稽)

自分すらもおかしくて、美恵は振り返る。

躊躇いもなにもなく晒した顔を、甘い香りが襲った。

「あんたは、いらないわけ?」

両頬を熱い手が包む。

(馬鹿な子。たかがキスの1つでここまで変わるなんて)

「いらないもなにも、そんなのは幻想よ。信じたいものにしか見えない代物」

「意味わかんない。つまり、愛なんて、あんたはいらないんでしょ?いらないから信じたくないんでしょう?」

「……だからなに?」

理解しようとしないのなら、勝手に信じさせておけばいい。早々に諦めて続きを促すと、萌子が甘ったるい笑みを浮かべて、美恵の爪先を踏みつけた。

「いらないなら、ちょうだい。あんたがそんなこと言えないくらいに奪ってあげる」

「もともとないものに、なにを言っているのかしらね。お馬鹿さん」

両頬を掴む手を力づくで剥がして、美恵は額を寄せた。

「後悔しても、知らないわよ」

「望むところ」

そうして、互いに噛み付くようにキスをして、そっと、背中を向けたのだった。

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