第2話





 その日の始まりは良くなかったけれど、その後の授業も休み時間もいつも通りに終わり、最後の授業のチャイムが鳴ると同時に、美恵は知らず吐息していた。

 午前中に出された課題は、友人との雑談の間にほとんどやり終えてしまった。委員会の仕事も昼休憩中に終わったことだし、教科書を置いて荷物は軽くして、帰りにCDショップにでも立ち寄ろう。ギターでもドラムでも爆音でもなんでも、リズムが整えられた音楽は聴いててホッとする。人の話し声と比べたら、人の感情だけを理由に生まれた音の方が濁りが少なくて安心するのだ。

「終礼始めるぞー」

 担任が生徒を押しのけながら教卓の前に立つ。わらわらと蜘蛛の子を蹴散らすようにクラスメイトたちは散らばって、騒がしさを残したまま着席した。

「明日から衣替え期間は終了だ。男子は派手なシャツは控えて……」

 衣替え期間が終わると同時に、身だしなみ検査が入ることを付け足して、担任が終わりを告げる。前もって連絡を入れてくれるから、皆その時だけはきちんとして、1時間目が終わる頃には身だしなみを崩すので、ほとんど意味はない。

 意味はない、面倒だ、と思うけれど、それさえやっておけば何も言われないのなら、少しの面倒くらいは付き合ってやるのが学生としての義務だろう。

 鞄の中に荷物を片付け、クラスメイトに適当に挨拶をして玄関に向かう。

 帰りはウォークマンを聴きながらにしよう。持ち込み厳禁という校則はあるけれど、電車の中での行動なんて、教師もいちいち気にはすまい。

(そうだ、メールをしておかないといけないわね)

 CDショップか本屋に立ち寄ると、大抵いつもの一時間は帰りが遅くなる。

 わざわざ時間を合わせて夕飯を作ってもらっている手前、子供として報告はしておくものだと美恵は思うから、親の指示に忠実に従う。

下校する学生も多い時間帯だ、店に行ってから携帯の電源を入れよう。カタカタとプログラムを組むように行動予定を組み立て、メールの文章を考えながら靴に履き替える。

 今日もやっと終わった。校門を通り過ぎて、安堵の吐息をしかけたところで、美恵はその場で立ち止まった。

「嫌。私、帰らないから」

 電話相手に冷ややかな声で対応しているのは、今朝も見た茶髪頭のあの子だ。放課後姿を見ないのは当たり前だったものだから、今日も新しい恋人の元へ行ったのかと思っていた。

 道端で電話なんて、よくやれる。

 彼女が背中を見せているうちに道路を渡って、駅まで急ごうと思ったのに、視線が不意に、鮮やかな紫に引かれた。

 この辺りの住宅地には花が多く、風で種も吹き飛ばされやすい。きっと、そのせい。

 アスファルトとコンクリートの塀で区切られた小さな場所に根を張って、大きく育った紫陽花の花。よく見れば、割れたコンクリートの隙間から土がこぼれていて、その先に根を張っているのだと分かる。

 夕陽によってできた塀の影が、紫陽花も彼女ものみ込んでいる。

 その翳りの中でだけ、彼女の脚が白く映えていた。

「ったくもー!なんなのよ」

 三十秒にも満たない間だったけれど、その三十秒が命取りだった。

 萌子が振り返る。まさか後ろに人が立っているとは思ってもいなかったはずだ。

 一歩の距離を挟んで、二人して驚く。

「……」

「……なに」

「……何でもないわ」

「何でもないわけないでしょ」

 その一瞬が恥ずかしくて、目を逸らし立ち去ろうとさした美恵の手を、萌子が掴む。

 美恵の手首すら掴みきらない、小さな掌だった。

「今の聞いてた?」

「……最後だけよ。なにかを言うつもりもないわ」

「じゃあなんでこっち見ないのよ」

「見る必要なんて、あるのかしら」

「あんたね……っ」

 心臓の音が段々と大きくなっていく。今の一瞬は美恵にとっては命取りだったのに、彼女にとってはそうではないのだ。

 分かっているのに、見透かされてしまうような焦燥感に苛まれる。

 振り解こうと顔を隠したまま腕を振ると、抵抗なく解放されてまた驚いた。

「いいからこっち向けっての!」

 油断と、隙。

 なにもかもが、自分らしくない、と冷静なところから自分が囁く。

 小さな掌が両頬を掴んで、引き寄せる。痛くはない。

 痛くはないけど、頬に触れたかさついた他人の肌に、鳥肌が立つ。

 そしてその先を、美恵は見てしまった。

 知ってしまった。

「……なんて顔してんの?」

「っ離して」

 今度こそ勢いよく彼女の手を払い除けて、走り出す。らしくなさなど考えている場合ではない。

 心臓が煩い。呼吸が乱れる。体温の上昇、肌にべたつく汗の感覚、騒ぐ思考。

 帰ってお風呂に入って、さっさとこの感覚を洗い流したい。

 この記憶を、忘れてしまいたい。

(今日はさっさと寝よう)

 寄り道しようなんて考えは、もうどこにもなかった。





 一方、置いてきぼりにされた萌子は、美恵の背中が見えなくなるまで呆然としていただけだった。

「……なにあれ」

 あんな表情をするなんて、思いもしなかった。

 クールビューティなんて評価は伊達ではなく、彼女は本当に、普段はもとより体育の試合中ですら表情をほとんど変えない。

 それなのに、萌子が振り返った時、顔を引き寄せたあの時、彼女は確かに驚いていた。

 白い頬は滑らかで、柔らかかった。睫毛で隠されてばかりの黒い目が、あんなに大きいなんて知らなかった。

(あつかった、気がする)

 自分の手よりも、体温が高いなんて。萌子の平均体温は三十六度前後だ。リスクを背負っている以上、安全日の確認は欠かせない。毎日ちゃんと測っているから、間違いない。

 見た目は低体温気質のくせに、全部ぜんぶ偽り、クラスメイトを騙すための演技だったのか。それとも風邪でも引いていたのか、……なんにせよ、萌子は面白いものを見た。

(化けの皮、剥がしてやろーじゃん)

 今朝見た澄まし顔を思い出す。

 どれだけ違って見えても、つまるところ彼女も、自分と同じ女子高生には変わりないのだ。

 実感が指先まで伝わって、自然と力がこもる。

 片手に握り締めていた携帯が音を立てて、萌子は忘れていた現実を思い出した。

「やっばあ……今日、どこに泊まろう……」

 膝が近くに生えていた植物の葉に当たる。

「もー……」

 土や虫でもついたらどうしてくれるのかと、手で膝を適当にはたいて、萌子は学校に戻ったのだった。

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