閑話休題「たまごやきのルール」
「いらないなら、ちょうだい」
唇が一瞬触れ合っただけで、彼女は目の色を変えてそう言った。
「あんたがそんなこと言えないくらいに奪ってあげる」
「もともとないものに、なにを言っているのかしらね。お馬鹿さん」
両頬を掴む手を力づくで剥がして、額を寄せる。鼻先が触れ合うか触れ合わないかの距離で、視線を交える。
吐息を、絡めた。
「後悔しても、知らないわよ」
「望むところ」
噛み付くようにキスをして、直ぐ様互いに背を向けた。
それが、昨日の放課後。
「いってきます」
なんでもない顔をして、見送りに立つ母に声を投げ捨てる。
田原美恵は、今日も今日とて、『いつも』のために学校に向かっていた。
成熟への一途を辿る美恵の身体は、昨日から体温が少し高く、気分が不安定な状態になっていた。腹痛はないが普段は気にもしない電車の揺れや臭い、ざわめきで酔ってしまう。窓際に立ち、景色を見て過ごしてみるも、学校の最寄駅に着いた頃にはすっかり足下にまで、気分が落ち込んでいた。
それから学校の玄関に着くまで、美恵の目線は地面から離れることはなかった。おはよう、おはよー、はよー。おかげで、靴箱で靴を履き替える頃には、素通りする挨拶に微苦笑で応じられるようにはなったが、気が乗らないのは変わりない。
「おはよ、美恵。薬飲んだ?」
「そういうの、飲まないから……」
背中を支える手が、不躾な問いを押し付ける。
顔を上げると、やはりそこには
彼女は、小学生の頃からの付き合いで、いわゆる幼馴染になる。黒髪美少女あるいはクールビューティーと密かに噂される美恵とは正反対の外見を持つ彼女だが、古い付き合い故に美恵の扱いには一番慣れている。
「昨日も気分悪そうにしてたのは誰だっけー? ほれ」
そう言って歩きながら彼女が差し出した、小さな一錠。
小指の爪ほどしかない大きさのそれを見つめて、美恵は逡巡する。
美恵の母親は薬が効きやすく、花粉症を抑えるための薬を飲んで一日中寝込んでいるような人だ。父は生来病気とは縁のない体質のためわからないが、彼らの遺伝子を受け継いでいる美恵とて、少なからず薬の影響を受けやすいことは考えなくとも分かる。
授業中に眠気に襲われるようなことさえなければ、美恵だって直ぐに薬を飲んだだろうに、自身の薬の効きやすさと副作用を思うとそれを手にすることは憚られた。
しかし、これは友人が美恵のために用意してくれたものである。
「……ありがとう」
折角なので、素直に受け取ることにした。
「どーいたしまして。ちゃんと飲みなよ?」
幼子や妹を宥めるような手つきで頭を撫でられる。ふと、彼女と珍しく朝から話をしていることに気づいた。
常ならば、登校時間の重なるクラスメイト達と話している時間帯だ。
美恵のそんな様子に気づいたのか、鼓実が笑い顔のまま小声で話す。
「うしろで話してる」
後方に耳をそばだてると、いつもは自分に掛けられる声がする。
男女共学だと、同性の小さなグループはそれだけで一つの盾となる。仲間外れではなく、小集団に属することができ、かつ高校生という大きな括りの中に甘んじるだけの自己の不安定さ。それが美恵たちの年頃の持つ儚さであり、強さであり、鮮烈さだ。
「ありがとう」
「お礼はこっちでいーよ」
不自然な沈黙の後に返した礼は鼓実の笑顔に優しく受け止められ、卒なくすり替えられた。
美恵の手に絡むのは彼女の手、指だ。スターティングで指をつくから、指の腹の皮膚が厚い。ピアノもしていたという手だからか、美恵の指と違ってしっかりと身のつまったような力強さがあった。
「……仕方ないわね」
「へへ」
嬉しそうな彼女に絆されて、少しだけ、教室に向かう歩を緩めた。
一方、同時刻。
仲睦まじい二人の様子を靴箱の影から見ていた柏木萌子は、わなわなと手を震わせ怒りににた感情に顔を般若のように変えていた。
(な、なにあれ)
田原美恵とまともな会話をしたのはここ数日のことで、しかしキスまでした仲だ。ツンドラよろしく冷ややかで冷徹でつまらなさそうな顔しかしないのだと思っていたら、これだ。
昨日は女性特有の鼻につく香りをさせていたし、今は友人と楽しげに手をつないで歩いている。
(バカにしてんの? なにが、幻想よ)
『……キスができれば、愛なんだ?』
ただ勢いだけの唇の接触をキスと呼んで、彼女は嘲笑った。下手くそな、けれど普段の彼女を知らない萌子にとっては強烈な笑顔だった。
そう、萌子は美恵のそういう面しか知らない。
知らないけど、彼女がくれるといったから、欲しいと思ったのだ。
(今に見てなさいよ……田原美恵!)
ぐ、と握り拳に誓いを立てたところで、ようやっと動き出す。
そういえば、まだ靴を履いたままだった。付き合っている先輩と知人の男子学生くらいしかまともに声をかけてこないので、萌子が靴を履き替えず靴箱にへばりついていても、皆素知らぬふりなのだ。
美恵の周りにはいつも、数人の女子生徒がいるというのに。
チャイムが鳴り始め、萌子は慌てて自分の教室に向かった。
好機は、思うよりも早くやってきた。
四限目が終了すると同時に、萌子は机の上を片付けるより早く財布を取り出し、彼女の席の隣に立った。
「田原さん、お昼ご飯、一緒に行こ?」
途端、教室内の空気が変わった。男子は気にせず騒ぎながら出ていくが、女子のうち何人かは萌子と美恵の様子をチラチラと気にしながらグループで集まり始める。
いつも美恵と食事を取っていた女子達は、美恵がなんと答えるのかを待っているようだった。
(うわ、こっわ……)
しかし、その仲の一人。今朝美恵と手を繋いで歩いていた少女だけは、睨み殺すような視線を萌子にむけてきた。ちくちくと刺さるそれに気づかないふりをしたまま、美恵の返答を待つ。
彼女は教科書を片付ける動作を止め、じっと萌子を見上げていた。
目は少しだけ見開かれ、萌子の申し出が彼女の予想の範疇を超えていたことを物語る。それだけで、萌子の気分は上昇した。
「……柏木さんは、いつもどこで食べてるの?」
クラスメイトの前だからか、外見からイメージされるお淑やかな笑みを浮かべて、彼女は首を傾ける。教科書を片付け、カバンの中から取り出したのは可愛らしいお弁当包みだった。スミレ色とモモ色の散らばる、品の良い布袋だ。
立ち上がると、綺麗な黒髪が細やかに踊る。
「食堂。お弁当持ってきてないから」
「そう。……じゃあ、そういうことだから」
意外にも、あっさりと美恵は友人達に別れを告げた。
萌子が一瞬でも気を抜いて吐息しようとしたところで、その瞳が奇妙に眇められる。
『つまらないやり方ね』
そう言われたような気がして、萌子の浮いた気分が怒りに転じる。
「ありがと! 行こ」
「ちょっと……」
美恵の細く白い指先を取って、乱暴に引っ張る。あっさりと萌子に引きずられる身体が頼りなく思えて、萌子の怒りはころりと熱を沈めてしまった。
高校の食堂は、給食に慣れた萌子にとっては小さな開放感と寂しさを感じさせる場所だ。
ついてくるだけだった美恵が、廃れた券売機の前で立ちすくむ。
「動くの?」
「動いてるよ。じゃないとご飯買えないでしょ」
「それもそうね……」
物珍しそうにまじまじとボタンを見る姿は、どこか大人びているというか世間知らずのお嬢様という感じだ。駅では同じくらい古い券売機があるはずだが、定期券で通っているとまあ、確かに、珍しいのかもしれない。
(んなわけないっしょ)
自分で自分にツッコミを入れながら三百円を入れうどん券を出す。
「席、取っといて。並んでくる」
「……わかったわ」
食堂は、昼休みに入って五分も経つと混み始める。わいわいがやがやとした空間に少し引き気味の顔で、美恵はそれでも頷いて、空席を求めて歩き出した。 うろうろきょろきょろ。その覚束ない動作がどこか幼くて、萌子は横目にほくそ笑みながら列に並んだ。
男子学生のために安くて量の多い食堂のメニューだが、昼食くらいしかまともな量を食べない萌子にとっては唯一の栄養供給源だ。朝晩は母親か自分の買ってきた菓子パンか惣菜が主で、一年も同じ購入先だと味に飽きてしまう。炊飯器すらまともに機能させない家庭だ、萌子が家族の食卓に淡い願望を抱くのも仕方ないというものだ。
お盆と箸を取って、券を渡す。
「なあなあ、君ってもしかして、一年の柏木?」
「えー?」
購買担当のふくよかなお姉様方が麺を湯がき始めたところで、後ろに並んでいた男子学生が声をかけてくる。彼自身はそこそこ目と鼻の整った細身の学生だったが、後ろに引き連れているのは柔道部かラグビー部らしい、縦にも横にも身体が大きい男子だった。
「こいつがさー、君のこと気になるって」
「ごめんなさーい、私、友達待たせてるんでえ」
汁が注がれ、お椀を差し出されたタイミングで笑って流し、萌子は美恵の見つけた空席に向かって遠回りをした。
(だーれが、あんな醜男相手にするかっての)
入学して数ヶ月にして彼氏が三人目である萌子とて、誰にでもころころ媚びるわけではない。好みはちゃんとあるし、その上で落としやすい相手を選んでいるだけのことだ。
「おっまたせー」
つい癖で媚びた笑顔を浮かべてしまい、冷めた視線を浴びせられて、萌子ははっと我に返った。
「どういうつもりかしら」
「どういうって? 私があんたに聞きたいセリフね」
「……まさか、昨日の事?」
律儀に箸をつけるのを待っていた彼女は、萌子が食べ始めるのを見て手を合わせた。弁当箱はご飯の敷き詰められた一段と、色とりどりのおかずが並べられた一段とでできていた。
和柄に合わせた朱色の弁当箱。顔だけはいいから、確かに似合うだろうと萌子は胸中でうんと頷く。
「それ以外に何があるってんの。あんたがくれるって言ったじゃん」
「つまり、食事を一緒に摂ってほしいのね?」
「私、先輩がいなかったら食堂でも一人だからさ。いいでしょ、減るもんじゃないし」
「……そう」
萌子の言葉に諌める気が削がれたか、美恵が弁当に向き直る。
もくもく、もくもく。周囲は男女の学生が思い思いに話して騒いでいるから、余計にこの空間が埋もれていく気がした。
「……なんか喋れば?」
「食事中に?」
「は? じゃああんた、いつも何話して食べてんの?」
「食事の合間に少し話すだけ」
「う、うわあ……」
「なによ……」
集団の力というものは、怖い。
萌子は一人で食事を摂ることが多いから、一人でも一緒に食べる相手がいると何か話したくて仕方なくなる。
実際、先輩とご飯を食べているときは昼休みの半分以上を費やして語って食べているわけだが、あろうことか美恵は、普段から一緒に食べる相手がいるにも関わらずこうして黙って食事をしているという。
これが、飽食した側の人間の行動か。どこかの偉人が叫んでいそうな気分で、萌子はまじまじと美恵を見つめた。
顔は嫌いじゃないのだ。萌子が化粧でやっと身につけるような綺麗さを彼女は素で持ち合わせている。鼻筋もはっきりしていて睫毛も長い。
「……欲しいの?」
「へ?」
「さっきからじろじろ見ているから。卵焼き」
弁当箱の蓋を裏返して、はい、と美恵が卵焼きを乗せる。
お店のより見栄えは劣るが、白身と黄身が綺麗に混ざった卵焼き。
「ありがと……。あんたが作ったの?」
「まさか。お母さん」
「そう」
母親が食事を作る姿を見たことがないから、その卵焼きが未知な物に思われた。
うどんを食べていた箸を止めて、卵焼きを縦に割る。
「だし巻き。砂糖は入ってないから、甘くない」
「うん。平気。いただきます」
ぱくんと口に入れて、しっかりとした弾力のあるそれに萌子は興奮した。ところどころ焦げたのか、しっかり焼かれた部分もあるが、長年かけて作り続けたお袋の味に通じるようななにかが、そこにはあった。
「やば、これめっちゃおいしい! え、これほんとにもらっていいの?」
「……二個あったから、どうぞ」
「やったー。いいなー、こういうの毎日食べてんでしょ。贅沢ー」
「そう」
萌子の明るいテンションとは正反対に、美恵のテンションは暗くなる。
「……まあ、そうね。卵焼きは、嫌いじゃないわ」
「素直じゃないなあ。思春期?」
「それを言うなら、あなたもでしょ」
食堂に来る前とは違う意味で、軽口が続く。やっと萌子の理想的な食事風景が近づいてきた。
食事に来る学生よりも、食事を終える学生の方が多くなる頃には、萌子は美恵についてある程度の情報を得ることができていた。
好きな物は卵焼きとお茶、甘くない物。肉より魚、魚より果物派。
家族は父母と姉が一人。四つ年が離れていて、姉は県内の大学に通っている。仲は良くはないが、悪くもない。
父親は市役所勤めの公務員、母親はパート時々専業主婦。
聞けば聞くほど一般的と評される家庭だ。
「あなたはどうなの。見るからに、親子関係は良くなさそうだけど」
「だいたい予想通りだと思う」
萌子の家は、離婚こそしていないが父母はすでに別居状態にある。
互いに仕事人間で、萌子が父親に似たこともあり、母親との仲はいつも綱渡りだ。養育費だのなんだのの都合で、萌子が高校を卒業するまで離婚しないらしいが、それもどうなることやら。たまに電話している姿を見れば怒鳴りあっているか、母親が泣いているかのどちらかで、おかげで萌子が家に居てくつろげた時間は両手の指を折るにも至らない。
「帰らない?」
「帰りたくないときは、漫喫に行くの」
「未成年は難しいんじゃ?」
「ところがどっこい、ここに親の保険証がありまして」
「……何事もないうちに返した方がいいと思うけど」
憐憫すら通り越し、呆れたように美恵が頬杖をつく。弁当はとうに片付けてしまっていた。
不思議だ。あまり乗り気でない様子だったのに、萌子の話にはおとなしく耳を傾けるし、否定もしない。小言は大抵親や先生の目線に近く、心配されたことの少ない萌子には甘く蜂蜜のように思われた。
萌子の気が緩むのも、当然だった。
「最悪、彼氏の部屋に匿ってもらうとかできるから」
「……そう」
今度こそ軽蔑の目線を向けられて、頬の緩みを戻す。
「べ、別に、あんたには関係ないでしょ」
取ってつけたような文句を返し、立ち上がる。
「付き合ってくれてどーも。帰りたかったら帰れば? お友達が待ってるんでしょ」
言い返す暇も与えず背を向け、食器返却口に向かう。粗雑に食器を片付け、ジュースでも買って帰るかと振り返り、後ろに立っていた彼女に驚かされた。
「うわ」
「貴方、時々無自覚に失礼よね。直した方がいいんじゃない?」
「あんたに言われたくない」
どこまでも冷ややかな声に不機嫌になって言い返し、素通りする。
自動販売機の前まで並んで、百円玉を入れた。横から伸びてきた手が、カフェオレを勝手に選ぶ。
「は?」
「昼休みを付き合ったお礼くらい、あってもいいわよね」
「ふざけないでよ! 私のお小遣い、一週間経たないともらえないのに!」
「冗談」
ガコン、と重たい音を立てて転がり落ちてきたカフェオレのパックを取って、彼女が薄く笑う。
「作ってきてあげましょうか」
「なにを?」
飲めなくはないが、収まりきらない苛立ちが、萌子の手を素直にさせない。差し出されたカフェオレは、彼女の手の色と同じくらい、薄い茶色のカバーで覆われていた。
「貴方のお昼ご飯。もちろん、それ相応に材料費はもらうわ」
「……あんた、ご飯作れるの?」
「訊くってことは、了承したのと一緒よね?」
食えない笑みだ。萌子が不利になるほど、彼女の笑みは深くなり、萌子に無言の圧力を与える。
「はい。貴方の分」
丁寧な言葉遣いにしては乱暴にカフェオレのパックを投げられる。
来たときと同じように、しかし今度は彼女から、萌子と手をつないで食堂を後にする。
人気の多い渡り廊下を歩く。
「なんなの、急に。きもい」
「貴方が欲しいと言ったんでしょう?」
来たときと、立場が逆転していた。萌子の手を引く美恵の姿は、小一時間前に感じた頼りなさを微塵も現さない。
「言ったけど……そんなんじゃなくても」
虚勢を張っていただけの皮が、ぺりぺりと簡単に剥がされていく。
「まるで、恋人みたい?」
「は、違……そういうんじゃなくて!」
「じゃあ、どういうのが欲しいというの? 何も知らない貴方が、何をもって愛情が与えられたと思うのかしら? ねえ?」
ふふ、と密やかに彼女が笑う。それは、慈愛とは程遠い。蔑むように冷たくて、残虐というには優しい。
無関心ではないのに、それ以上も以下もない、一直線の関わり。
それなのに、萌子の胸は不思議な温もりで満たされていた。
絶対に見放されない、絶対に、見逃してもらえない。そんな自信が美恵の言葉からは溢れていた。
きっと彼女は、この先もずっと、目的が果たされるまで萌子から離れたりしない。そんな風に萌子が期待するくらいに、美恵の声が、言葉は力強く、魅力的だった。
「……なら、今、ちょうだい」
「わがままね。さっきあげたじゃない」
「今欲しいの。ねえ、昨日みたいに、ねえ!」
《それ》は確かに、萌子が求めていたものなのだ。
(馬鹿な子)
その気にさせた途端、欲しいと喚き始めた萌子の姿に、美恵は冷めた心で向き合っていた。
何も考えず、愛情なんて幻想が、あると信じさせられてきた哀れな子供。彼女だけのせいではないとはいえ、こうも馬鹿のひとつ覚えのように求め、強請るしか手段を持たないのは、本当にかわいそうだ。
だからこそ、現実を叩きつける甲斐がある。
家族? 友達? そんな瑣末の関係があるだけで満たされる程度の欲なんて、無いも同然だ。
躍起になるまでもない。彼女は、美恵がいるだけで勝手に満たされた気になるのだろう。美恵が話したことが嘘か真実かも考えないで、鵜呑みにするのだろう。
楽しい、と美恵は珍しくも昂揚感を覚えていた。
自分の言葉ひとつで騙される目の前の少女を、どのようにして裏切ってやろうか。
その時を待つだけでもとてもとても楽しくて、仕方ない。
愛情なんて、くだらない幻想だ。宗教だ。それを使って、新たにひとつ流し込んでやろう。愛なんて幻想で、つまらなくて、どうしようもないほどに信用ならないものだということを。
「昨日みたいに、ねえ!」
待てのできない犬のように腕にすがりついてきた彼女に微笑み、美恵は微笑む。
廊下はダメだ。学生が多く行き交うし、美恵の楽しみが奪われては意味が無い。
「放課後まで待てるでしょう? 貴方には彼氏さんがいるんだから」
当たり前のような言葉で、彼女に現実を思い出させる。
欲しいものを必ずくれる同性と、自分の理想のために食い散らかした異性と、果たして彼女はどちらを選ぶか。どちらも、選ぶのか。
さっと青白くなった顔にあくまで笑いかけながら、美恵は彼女の手を少しだけ強く握りしめた。
「私達はまだ、友達じゃないわ。分かるわよね、柏木さん?」
手を、離す。
そうして、無垢な子供の顔をした少女を、置き去りにした。
「なにしてるのかな、あの子達」
保健室の換気をしようと窓を開けて、目ざとく見つけた黒髪少女の姿に、如月花葉は静かに見惚れていた。
悔しい。十と少し年が違うだけで、ああもぴちぴちういういしい白い肌を持てるのだ。今自分にそれがあれば、彼氏と別れることもなかったというのに。
校内全面禁煙、という張り紙の前に煙草を並べる。吸いはしない。仕事を失いたくは無いから、吸いはしないが見るくらいは許して欲しい。
(……あ)
茶髪の女子学生が、黒髪にすがりつく。鼻先が後少しで掠るくらいの近距離に、遊んでいた右手がぐしゃりと煙草を押しつぶした。
「あっ、あー……もう」
誰も居ない空間なのに、なんでもないふうを装ってしまうのは、花葉自身が一番よく知っている。
(あの子、なんて言ったっけ。柏餅みたいな名前だった気がする)
人が嫉妬と呼ぶそれに近い感情を持て余して、花葉は全校生徒の名簿を開き、まだ話もしない学生の名前を探し始めた。
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