花園の爪

カエデ

花園の爪

「赤い花は珍しいんだよ。知っていたかい?」


 彼はそう言い、ポケットから手帳を出し万年筆で何かを書き記す。

 わたしの手の爪に咲いている赤い花に触れると、彼は顔を近付けてその香りを嗅いだ。


「飼育者の僕も久し振りに見た。君の銀色の髪によく映えるね」


 鋏を手にし、彼はわたしの爪床から顔を出している花をひとつずつ慎重に切ってゆく。

 切り落とされた花を拾い、プラスチックの白い箱へその花を収めていった。


「次の蕾が現れても、自分で勝手に摘んではいけない。大事なものだから。収穫は僕の役目だ」


 指先から切り落とされた赤い花をわたしは見る。

 わたしは食物だ。

 正解に言えば、わたしの手指の爪に咲く花を食用とする為、わたしは育てられている。

 定期的に爪床から出てくる小さな蕾。やがてその蕾は開花し、鮮やかな色で咲く。

 そして目の前の彼はわたしを育てる『飼育者』だ。


「人間と同じ言葉を持ち、感情を持ち、生活する食物か。なぜ『教授』は君達のような生き物を造ろうと思ったのか」

「……『教授』をご存知なんですね」

「ああ。彼の葬儀にも行ったよ。君達の扱い方を一番知る人がいなくなったのは非常に残念だ」

「わたしの姉妹達は、どうしているんですか」

「別の飼育者が育てている。皆、元気にしているから心配しなくていい」

「……」

「そんな顔をしないでくれ。次の蕾に影響する」


 彼は言い、わたしの手を取った。花を全て収穫した後の薄桃色をした爪を眺め、顔を上げる。


「……食事を持ってくるとしようか。肉と魚、どちらがいいかな」

「じゃあ、魚料理を」


 彼は花を詰めた箱の蓋を締め、それを持ち飼育室を出る。

 私が生活している飼育室は白い壁、白い天井に囲まれた白い部屋だ。

 ベッドとテーブルと椅子だけが置かれ、それらの家具もみな白で統一されていた。

 汚れひとつない白い色に囲まれた中で、わたしは自分の爪を軽く噛む。

 爪の花を摘んではいけないと彼は言ったが、次に蕾が現れたら自分で摘み食べてしまおうかとわたしはふと思う。


 わたし達に咲く花は、とても貴重で滋養のある食物らしい。

 けれど誰がそれを食べているのか、わたし達に知らされることはない。どこかの国の王様かもしれないし、そのお妃様かもしれない。

 わたしは王様とお妃様が仲良く花を口にする姿を想像した。

 どんな味がするのだろう。

 わたしから生まれた花の味は、どんな甘さを、どんな苦みを持っているのだろう。


「――また何か考え事をしているね」


 ドアのロックを解除し、食事が乗せられたトレイを手に持った彼が入ってくる。


「コンソメのスープとサーモンパイだよ。パイは好きなんだろう?」

「はい」


 わたしは言い、目の前のテーブルに置かれた黄金色のパイを手づかみで食べはじめる。

 彼はわたしの向かい側に座り、その様子を興味深そうに眺めていた。


「さっきは何を考えていたんだい?」

「……わたしの花は、どんな味がするのかなって」

「赤は命の色だ。人間と切っても切り離せない色。きっと他の花には無い味だろう」

「命の色……」

「僕はきみの花の味は知らないが、きみの一番上の姉さんの花なら食べたことがあるよ。花の色は……艶やかな紫」

「どんな味でした?」


 サーモンパイの屑がついた指を舐めながら、わたしは彼に尋ねた。


「心身の不調を癒す味だ。僕には特に何の効果もなかったけれど、とても品のある穏やかな甘さだった」

「……」

「君の姉さんも、君と同じく美しい人だね。花の色のような紫の瞳をしていた」

「姉妹達には随分と会っていません」

「寂しい?」

「……こういう、掴むことができない気持ちを『寂しい』と言うなら、そうなんでしょうね」

「その感情が『悲しい』に移行しては困るな。花の味に影響する」

「なら、何でわたし達を離れ離れにするんです?」

「……」

「寂しいも、悲しいも、似てるものなんじゃないですか。寂しいは良くて、悲しいは駄目なんですね」


 目を伏せるわたしを彼はじっと見る。

 その視線がひどく気になり、わたしは心がざわめくのを感じていた。


「……そんなに見ないでください」

「なぜ?」

「落ち着かないんです」

「君を見ていたいだけだよ」

「……」

「なぜ落ち着かないのかな。どうしてだと思う?」


 彼は表情を変えずに呟き、そのままわたしに視線を向け続けた。

 わたしは彼の問いに答えを見つけられず、顔を背ける。


「……花の秘密をひとつ、きみに教えてあげようか」

「……」

「恋をすることで、花は最上の味になる」


 彼は椅子から立ち上がり、わたしの隣へと立つ。

 腰まで伸びているわたしの髪に触れ、指先でそっと撫でた。

 繰り返し、繰り返し。

 髪を撫でる指のリズムが、無性に胸を掻き乱す。

 彼は掌でわたしの顎をゆっくりと掴み、彼の正面へと顔を向かせた。


「恋が何なのか定義することは、簡単ではないけどね」

「……」

「例えばこうした後で、花がどう変化して咲くのか」


 わたしの唇に彼の唇が重なる。

 黒い彼の髪がわたしの頬にさらりと落ちた。

 柔らかく押し当てられる唇。

 心臓が早鐘を打つ。

 手が、小刻みに震える。


 唇を離した彼は、わたしの顔をしばらく見つめていた。

 そしてわたしの手首を握り、目を覗きこんで言う。


「……今の脈拍、呼吸、瞳の揺らぎ。どれも普段の君と違う」

「……」

「どんな気持ちだい?」

「どんなって……」

「口付けをしたのは初めてだろう?それとも、最初の相手じゃないのかな。僕は」


 最初の相手。

 ――そうだ、わたしの初めての口付けは、あのひとだった。


『君達の花はとても美しい。君達は、存在そのものが美しいんだ』

『……わたしを造ったのは、あなたですか』

『そうだよ』

『わたし達を造ったのは、あなたですか』

『そうだよ』

『わたし達が、恋をしているのはあなたですか』

『――そうだよ』

『……教授』


 教授。

 教授の顔が思い出せない。

 彼はどんな目をしていただろう。どんな髪の色を、どんな唇をしていただろう。

 どんな唇を……。


「……頬が紅潮している。蕾ができる兆候だ」


 彼がわたしの頬に触れて言う。

 その薄く、赤い唇で。

 遠く、どこかで見たことのある唇で。


「あなた……誰」

「……」

「誰……?」

「僕は、教授の甥だよ」

「……甥」

「教授は僕の伯父だ」


 覚えのある懐かしい唇。けれど、目の前の彼は教授ではない。

 目の色も、髪の色も、顔立ちも、わたしが恋をした教授のそれとは違っている。

 ただひとつ唇を除いては。

 彼の唇が触れた自分の唇が焼けるように熱い。

 わたしは座っていた白い椅子から立ち、彼に問いかけた。


「なぜ……こんなことをするの」


 教授とは違う彼の群青色の瞳。

 混乱する一方で、それを綺麗だと思う自分がいる。

 彼のその瞳にわたしが映っていた。


「君がそろそろ恋に落ちる時期かと思ってね」

「……え?」

「……寂しさを覚える時、人は恋に落ちやすい傾向がある。それが君達に当てはまるかどうかわからないけれど」

「……」

「恋をすることで花が最上の味になると言っただろう?」

「最上の味……」

「君達の花は、もともと希少価値のある食物だ。けれど、恋をした時の花は更に珍しいものとなる。心を幸福感で満たす甘美な味だそうだ。……食べた人間はその味を忘れられなくなる」

「だから、わたし達に恋をさせるの?」

「恋は『させる』ものではないよ。君が恋をするかどうか試すことはできるけれど」

「……」

「僕がここにいる意味はわかるね?」

「でも……あなたは教授じゃない」

「そう。けれど君の瞳はとても正直だ」


 彼は言い、私の目元を指先で撫でる。


「僕は君達それぞれのところに一定期間、飼育者として滞在する。それが仕事」

「……」

「僕に対して特別な感情を抱く子もいれば、全く興味を示さない子もいる。ひとりひとり反応が違う」

「姉は……」

「君の一番上の姉さんは、僕に興味を示さなかった」

「姉さんにも、口付けをしたの」

「したよ」


 彼の言葉に、喉の奥で得体の知れない何かが詰まるのを感じた。

 苦しい。

 息がとても、苦しい。


「口付けも、それ以外のことも」

「……」

「でも彼女は結局、恋をした花を咲かせることはなかった。君は違う。とても反応が顕著だ」


 彼がわたしの手に視線を落とす。

 両手の人差し指の爪床から小さな赤い蕾が幾つも現れていた。


「……なんて赤だ。まるで血のような」


 さっき摘んだばかりの指先から再び顔を出すわたしの蕾。

 こんなにも早い周期で現れることは、普段は絶対に無い。


「僕がこの仕事をしているのは無駄ではないんだな」


 わたしの手を取り、彼は呟いた。わたしは自分の中に渦巻く感情の捌け口を探す。


 これは恋なのだろうか。

 でも、このひとは教授じゃない。

 同じ唇を持っているけれど、彼ではない。

 なのになぜ、わたしはこんなに心を乱しているのか。


 彼が手の甲に口付ける。

 滑らかな彼の黒い髪が揺れ、わたしの手に落ちた。

 やがて他の指からも蕾が現れ、わたしの指先は赤い色で染まっていった。

 唇が震え、膝が震える。

 彼はわたしを強く抱き締めた。


「解放するといい。君の『恋』を。教授の前で閉じ込めていたものを」

「あ……」


 掠れた声が漏れ、息苦しさに喉が音を鳴らす。


 ……あなたは教授じゃない。

 あなたはわたしに恋していない。

 あなたはわたしを……。


「僕は愛しているよ。君達を」


 彼は静かに耳元で囁く。


 わたし達を。

 わたしを。

 いいえ、わたし達を。

 ……そうだ。

 そうやってあなた達は、わたしの心を摘んでゆく。


「わたしを……」

「なんだい?」

「わたしだけを、好きでいてほしいの」

「……」

「わたしだけを……」

「君達みんなを、愛しているよ」


『君達をみんな、わたしは愛しているんだよ』


 頭の中で赤い火が燃える音がする。

 教授も『愛している』とわたしに言った。


「あなたも同じことを言うの?」


 爪の先の蕾が次々と花開く。

 赤く。赤く。

 それは濃厚な香りを放ち、部屋を花の匂いで満たした。


 やがてわたしは口内に柔らかい何かが溢れてくるのを感じ、唇を開く。

 口の中から現れたのは赤い花々だった。

 喉が詰まる苦しさに咳をすると、幾つもの花がぽろぽろと唇からこぼれ落ちた。

 彼はその様子を黙って眺めていた。


 わたしの体を支配し、次々と吐き出されていく花々。

 朦朧とする意識にがくんと床へ膝をつき、わたしは彼の腕を離れ体を横たえる。

 花は限りなく唇と爪から現れ、わたしの周囲を赤い花びらで埋めていった。

 彼はわたしの側にひざまずき、呟く。


 ……辛いかい?

 ああ、本当に君は美しいな。

 恋の苦しさが、君に至上の花を与える。

 誰かに焦がれる恋の苦しさが。

 教授は自殺したんだよ。

 君達みんなに恋をして、そして愛したから。

 君達を自由にしてあげられないのを知っていたから。

 君達を造ったのは、彼自身だから。


 わたしは大きな咳をひとつして、喉から種を吐き出した。白い光を放つ、真珠のような種。

 花びらの中から彼はそれを拾い上げ、いとおしげに見入っていた。


「……新しい種だ。この子からは、どんな色の花が咲くかな」


 床に流れるわたしの銀色の髪を、彼が繰り返し撫でる。


「大丈夫。僕が見ていてあげるから。もっともっと、咲かせるといい」


 それがわたしが最後に聞いた彼の言葉だった。

 わたしは白い部屋に横たわったまま、赤い花を咲かせ続けた。

 三日三晩、夜も朝も昼も。


 口の中に溢れる花びらをわたしは噛み締める。

 それは砂糖よりも蜂蜜よりも甘く、花の汁はわたしの唇を赤く濡らした。


 ……これが、わたしの花の味。


 芳醇で幸福な甘さに心を満たされ、目を閉じる。

 そしてわたしの体から、二度と花は現れることはなかった。

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