楽園を堕す
千花鶏
楽園を堕す
「ディアルタ」
濃い緑に囲まれた庭園の奥。清涼な風の吹き抜ける東屋。
中央に設えた籐の椅子に座し、神が跪く男に声を掛ける。
「あなたのおかげでわたくしの
死者は地上の器から解かれて追憶の扉を通過すると、亡骸の平野で魂を純化されながら転生の順番を待つ。受肉させてまで楽園に喚ばれる魂は多くない。ましてやディアルタのように歓待を受ける者は稀だ。
彼にはそう扱われるに足る理由があった。
「マリーメイア」
神は柱の側に控えていたマリーメイアを呼んだ。男を離れへ案内するよう言い置き、虚空に溶けるようにして姿を消す。東屋には男とマリーメイアのふたりだけが残され、男が初対面の者へするように愛想笑いを浮かべる。
そのディアルタの態度がなんだか可笑しい。
白い石畳を蹴って彼に飛びつくと、マリーメイアは花綻ぶように笑った。
「会いたかったです、ディアルタ!」
マリーメイアは〈獣〉だ。神の眷属。神の世話役のひとりである。
ところが地上の時間でいうおおよそ五十年ほど前。不慮の事故で楽園から墜ちてしまった。楽園で生きることを前提に創り出されたマリーメイアは、多くの種族が生存を賭けて争う地上で生きるための術を、まったく持っていなかった。かといって楽園へ帰還する方法もわからない。途方に暮れたマリーメイアを保護した男がこのディアルタだった。
消耗が過ぎてヒトガタをとれずに、マリーメイアは兎の姿をしていた。街道筋を旅していたディアルタに、食糧として捕獲されたわけだが、彼の素性がマリーメイアを救った。ディアルタはとある国の宮廷の禄を食む男で、しかも平の官ではなく、神代魔術の研究を任された、王族と血縁すら持つ魔術師だった。権力闘争を嫌って片田舎に隠遁し、研究報告のため王都に出仕した帰り道、彼は罠にかかったマリーメイアと出逢ったのだ。
当初は腹に収めるつもりだった兎を、彼が実験動物として保護した理由は、マリーメイアの瞳の色にある。マリーメイアの双眸は神の眷属の証として、七色に移ろう銀に輝いていた。
虹銀は魔女の色。その色を有する宝玉は高密度の魔力を湛える幻の品。神代の研究者として、古代魔術に精通するディアルタは、マリーメイアの瞳からその石を連想し、連れ帰ることにしたのだった。
マリーメイアはディアルタから手厚く扱われた。死なれては困ると、彼は思っていたのだろう。やがてマリーメイアがヒトガタはとれずとも人語を操れるまでに回復すると、ふたり――ひとりと一匹の関係は、親しい同居人さながらになった。
そして彼は生涯掛けて、マリーメイアが楽園へ帰還する方法を、探し出してくれたのだ。
「わたしの話を聞いて、主があなたをここへ喚んでくださいました。こうしてまた会えて嬉しいです、ディアルタ……」
マリーメイアはディアルタを力いっぱい抱きしめた。地上ではそうすること叶わなかったのだ。マリーメイアは最後の最後まで、小動物のままであったから。
ありったけの感謝を込め、この男を抱擁したいと、ずっと思っていた。
「マリー……マリーメイア?」
ディアルタがマリーメイアの背を軽く叩いた。
「君は……私の知る、あのマリーなのか?」
「そうですよ?」
「……一度、離れてくれ。足がしびれる」
「あぁ、ごめんなさい」
マリーメイアは急ぎ立ち上がった。ディアルタも一拍遅れて腰を上げる。
彼はマリーメイアの頭の天辺からつま先までを視線でひと撫でした。
「人の形をしている」
「地上では消耗が激しすぎて、ヒトガタになれなかっただけです。言いませんでしたか?」
「そうだったな。だが、本当に……」
ディアルタは渋面だ。マリーメイアは不安を抱いた。
「ディアルタはわたしがこの姿だとお嫌ですか?」
ディアルタは年頃の娘を苦手としていた。今のマリーメイアもちょうど十代後半の姿だ。ディアルタが嫌がるなら外見を調節してもよいが、この姿が本性だからできれば変えずにいたい。
ディアルタが否定に頭を振る。
「きれいだったから、驚いただけだ。……また会えて嬉しいよ、マリーメイア」
彼はここにきて初めて笑った。
地上で共に暮らしていた頃が思い出されて、マリーメイアはうれしさ一杯に微笑んだ。
偏屈で通って他を遠ざけがちだったディアルタは、自称、神の眷属の兎一匹のみを側に置いた。マリーメイアの方も楽園の仲間たちと比べるべくもないほど、うんと親しい関係を地上で彼と築いた。
ふたりは食事を分け合った。マリーメイアは姿こそ兎だったが本性はタダヒトと変わらないので、ディアルタと同じものを食べた。会話しつつの食事は、質素きわまりなくとも美味だった。
ふたりは仕事も分け合った。マリーメイアの助言はディアルタの研究をおおいに進め、小動物の小さな前足は手紙の分類などを手伝った。
ふたりはどこへ行くにも一緒だったし、寝所も早々に共有していた。通年冷える住まいで暖を取るにはそのほうが都合よかった。
ディアルタと再会したマリーメイアは、地上と同じ生活が楽園でも続くと思っていた。
無邪気にも。
「え? こちらで寝てはいけないの?」
「この部屋はひとり部屋だろう? 君はきちんと自分の部屋に戻りなさい」
ディアルタを離れに案内して、楽園で過ごす上の注意や、明日からの予定についてを話し、夜も更けたところで、マリーメイアは自室で眠るように彼から促された。
ヒトガタのいま、ふたりで寝るには寝台も手狭に思えたし、そうするとディアルタの言い分はもっともだった。マリーメイアは自室へと引き下がった。
同室の仲間が、あら、戻ってきたの、と不思議そうに瞬く。うん、と力なく肯定しながら、どうしてこれほど落胆しているのか、マリーメイアは自分でもよくわからなかった。
翌日、マリーメイアはディアルタに楽園を案内した。緑の濃い楽園には季節折々の花が咲き乱れる。ふたりで暮らしていた国は雪深く、短い夏のあいだも花ひらく種は僅かだった。多様な色がそこかしこに溢れる景色を見て、ディアルタが眩しそうに目を細める。
「きれいだな」
「これをあなたに見せることができて嬉しいです。気に入りましたか?」
「あぁ」
ディアルタが頷き、ありがとう、と言って微笑む。この優しい笑みをまた見ることができた。マリーメイアは主人たる神に感謝する。
マリーメイアは続けてディアルタに身を寄せようとした。柔らかな空気を纏う彼は、マリーメイアが近づくと、よく抱き上げて撫でてくれたからだ。けれどディアルタはマリーメイアが触れる直前に距離を置いた。次を案内してくれ、と請う彼は、マリーメイアとの接触を避けたように見えた。
案内の合間に食事を挟む。
神の眷属と死した人の魂であっても、受肉しているかぎりは楽園でも空腹を覚える。瑞々しい果物や野菜といった楽園の恵みをふたりで頂戴する。しかし皿は当然ながら別々で、ヒトガタをとるマリーメイアは、兎だったころのように口周りをべたべた汚すことはもうない。毛についた料理の
マリーメイアが楽園を案内し終えてしまうと、ディアルタはひとりで自由にあちこちを巡るようになった。
ディアルタはマリーメイアとよく話したが、楽園で知り合った他の〈獣〉たちとも同様だった。ディアルタは方々へと出かけて、マリーメイアが彼を訪ねても不在であることが頻繁になった。そういった日々が長く続いた。
同じ楽園にいるのに、ディアルタが遠かった。
彼の魂が喚ばれる時を、いまかと待っていた日々のほうが、うんと彼を近く感じていた。
意を決して、マリーメイアは彼に尋ねた。
「ディアルタはわたしのことを嫌いになったのですか?」
「まさか。どうしてそう思う?」
「だって、一緒にいてくれませんし、撫でてくれませんし、触ってすら、くれません」
「女性に軽々しく触れてはならないだろう?」
「地上では違いました」
「君はいまのような姿ではなかった」
「……ヒトガタでなければいいのですか?」
本性の姿が彼を遠ざけるなら、自分はいくらでも兎でも猫でも鼠でも、彼が好んでくれるかたちを取ろう。
ディアルタはマリーメイアの質問に答えなかった。
代わりの話を切り出した。
「わたしはそろそろ、暇を告げようと思う」
何を言われたのか、理解が追いつかず、マリーメイアは瞬いた。喉が張り付き、声が、うまく出ない。
「ディアルタは……楽園にいたくないの?」
「そうではない。わたしは元より客分だ。転生を待つのに、あの白い砂の平原ではなく、こちらに滞在することを許されただけだ。……まもなく、順が巡ってくるそうだ」
魂が純化されると、前世の記憶は消える。
まっさらなタダヒトになる。
ディアルタはいなくなる。
「ディアルタ……。主にお願いします。あなたをわたしたちと同じにしてくれるように。楽園にずっといられるように」
「やめなさい、マリーメイア」
「どうして?」
「地上生まれの魂はこの純粋な楽園に相応しくない。たとえ主神がわたしを眷属に変えても、いずれわたしの心は変質して、よくない影響を君の楽園に及ぼすだろう。……ここは人の身に――魂にとって、平穏が過ぎるのだ」
マリーメイア、と、ディアルタがやさしく呼ぶ。
彼の温かな指がマリーメイアの頬に触れた。
「無事に君がこちらに帰れたことを、知ることができてよかった。タダヒトのわたしに、それが叶うとは、思っていなかったから。……君にまた会えて、本当に、嬉しかったよ」
ふっと頬のぬくもりが消える。
ディアルタはマリーメイアから一歩退いた。
「わたしのことは忘れなさい、マリーメイア。君は神の眷属。神のものなのだから」
――わたしの、マリー。
ひ弱な獣を形取って側にいたとき。
ディアルタはそう言って、マリーメイアを抱き上げた。大きな手のひらで、マリーメイアの毛並みを撫でた。
わたしの、と、言って、自分を慈しんだ男のことが、マリーメイアはいっとう好きだった。
あの頃には戻れないのだと、マリーメイアは初めて知った。
戻れない。二度と。だから忘れろと、ディアルタは言うのだ。悲喜こもごも変化に彩られたあの日々の記憶は、いまは宝でもいずれ腐敗して、悠久の時をこれからも楽園で生きるマリーメイアを、ただ苦しめるばかりになろうから。
それでももう、忘れられはしない、と、感じていた。
いまですら、あの男の手が自分を撫でる優しい感触、共に毛布に包まったときの匂い、胸に抱き上げられたときの温かさを欲して、マリーメイアの気は狂いかけている。
ディアルタが楽園を去る前の晩。マリーメイアは彼の離れを訪れて、彼の前に両膝を突いた。当惑に退く彼の手を引き寄せて、己の首筋に触れさせた。
なにを、と、呻くディアルタに、マリーメイアは懇願する。
「わたしに触れて欲しいのです。ディアルタ」
「マリーメイア――それは、してはならない、と、言われた」
タダヒトは神の眷属に手を出してはならない。少々の接触であれば問題はないが、度を超すと〈獣〉たちの魔力にタダヒトの魔力が癒着する。
易しく言うなれば、忘却できなくなる。
マリーメイアが、ディアルタのことを。
「君にはわたしのことを忘れて欲しいのだ」
「わたしはあなたのことを忘れたくありません」
「マリーメイア……わたしが何のために、君から距離を置いたと思っている」
気づいていただろう、と、ディアルタから問われて、やはりそうだったのかと、マリーメイアは得心した。
同時に、悟る。
ディアルタはマリーメイアに触れたくないわけではなかったのだ。握りしめる彼の手から伝わる熱さがそれを知らしめ、マリーメイアを喜ばせた。
「君を愛しているよ、マリーメイア。君はわたしの人生の救いだった。獣であった君をそう見るわたしを、周りは嗤ったけれども。その君が美しい人の姿をして現れて、触れたくないはずはないだろう。けれどここまで堪えたんだ。その意図を、わかってくれ」
「わたしもあなたのことが好きなのです。あなたから離れたくないのです。幾星霜、どんな苦しみが待っていても、あなたのことを忘れずにいたい。覚えていれば……またあなたに出会えます。あなたがディアルタでなくなってしまっても」
魂は薄れても魔力は変わらないから、彼のそれがこの身に刻まれれば再び出逢える。
マリーメイアはディアルタの首に腕を回した。
しかと。離れまいと。
ディアルタはとうとう陥落して白い躰を抱き返した。
震える兎を慰撫するように。
マリーメイアはひとつだけ嘘を吐いた。
魔力にタダヒトの魔力が癒着するとどうなるか。
忘却しないだけでは、ないのだ。
神の御前にマリーメイアは控えていた。
永らく仕えた主は疲れた吐息を漏らした。
「……あなたは二度と楽園へは戻れない。承知の上だったのね、マリーメイア」
「はい。わたくしがディアルタを説き伏せて契ったのです。彼は何も悪くありません」
マリーメイアは鏡面のように磨かれた床に視線を落とす。そこに映る瞳に、もはや銀はない。マリーメイアはこれから、転生を待つべく亡骸の平野へと向かうのだ。
〈獣〉がタダヒトと契ると、構成する魔力が変じて、神の眷属ではなくなる。マリーメイアがディアルタに強要したことは、〈獣〉にとって禁忌であり罪だった。罪を犯した以上、地上に墜ちても平凡な生は望めない。マリーメイアであった何者かは、罪状を知らぬまま、その罪が雪がれるときまで、波乱の生を繰り返すことになるだろう。
マリーメイアだった者が赦されることはただひとつ。
ディアルタだった者と出逢い続けることだけだ。
そのとき、マリーメイアがディアルタを愛しても、愛し返されるかはわからない。
それでも、と、願ったのだ。
ディアルタを忘却して楽園で生きる未来に、マリーメイアは耐えられなかった。
神は自嘲めいた微笑をくちびるに刷く。
「ひとたび楽園より出た者は、誰もが地にこそ愛しき者があると言う」
「……主さま」
「いきなさい、我がいとしき仔よ。幸い在れ」
神はマリーメイアの前途を祝福して去った。
静まり返った東屋にふいに靴音が響く。
マリーメイアは音源を探って背後を振り返った。
男の青白い影が白い床に差していた。
「……すべてを聞いた」
と、ディアルタは言った。
彼の静かな目にマリーメイアは震えた。
「ごめんなさい」
「謝る必要がどこにある?」
ディアルタがマリーメイアを抱きしめる。
「わたしのマリー。……これからも、ずっと一緒だ」
マリーメイアはディアルタを抱き返した。
視界の端で楽園の緑が揺らいで融け出す。
燐光が美酒の気泡のように足許より立ちのぼる。
光に包まれて互いの輪郭がひとつとなっていく。
繰り返し出逢いながら、またこのひとを愛そう。
そう誓って、マリーメイアは目を閉じる。
――これよりふたりは、楽園を
楽園を堕す 千花鶏 @baroqueperle
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