彼女たちの場合

 大雨は終わった。季節は夏になった。

 昨日までのどんよりとした中で激しい天候とは打って変わり、青空がまぶしかった。雲も空にべっとり塗り付けたようなものではなく、立体感を伴った形となっていた。いわゆる積乱雲のような、これから暑くなるのを感じさせる雲だった。

 晴天の下ではファムとほかの島を結ぶ船が再開される。ソフミシアが待ちに待った船であるが、待ち望んでいたのは彼女だけではなかったようで、船の座席は満席、席が取れずに立ったままで乗船する人もいる始末だった。

 ライラは窓際の席に座りながらスケッチブックを開いていた。窓の外に広がるよどみのない空と海と、まぶしいほどの太陽に目を奪われてしまっていたのだった。ライラはしかし、ただ風景を描くのではなく、船の中から見える景色として描いていた。船の窓があって、その向こうに船のでっぱりが見えて、さらにその向こうに広がっているのがまばゆい景色だった。

「ライラちゃんは本当に上手だよね、私たちの絵も見せてもらったけれど、風景で見るとまた格別だね」

「そんなに褒められるだなんて、恥ずかしいですよ」

「だって私はライラちゃんみたいな見事な絵は描けないもの」

「もう本当に恥ずかしいですって。照れくさいですよ」

「でもこれでご飯食べるのでしょう? えっへんって胸を張っていいと思うのに」

「それはこれからの話なのです。私はまだ会社を辞めたばかりでして」

「へえ、何の仕事をしていたの」

 エッカはライラにひどく関心を抱いていた。前日はもっぱらソフミシアとばかり話し込んでいたから、エッカとライラとではろくに話をしていなかったのである。いざ船に乗って席に座ってみれば二人は隣同士で、席に着くなりエッカが話に夢中となったのである。ソフミシアは通路側の席だが座ってはいない。ライラたちが席に着くなり、甲板に出ていると言って一人姿を消したのだった。

 突然船内に鈴の音が響き渡った。エッカにしていた仕事の話を切り上げて、鈴音のほうに目を向ければ、乗務員が深くお辞儀をしていた。頭を戻すなり、やや甲高いよく通る声色で告げた。

 当船ウェータン便はリアス島イオに向けて、間もなく出航いたします。

 ライラはソフミシアとともにリアス島へと向かう運びとなった。リアス島の玄関口であるイオに到着してからは首都を目指す。それからのことはついて考える、というのがソフミシアの計画だった。エリエヌに向かうかどうかも首都に入ってから決める。

 何も決まっていないと言えばまさにその通りではあるが、けれども、何も分からないから決めようがないというのもまたその通りだった。一番状況を知っているであろうエッカでさえもよく知らないのである。相手は徹底的に実態を隠し続けているのである。エッカと接触するのは常に代理人で、毎回異なる人物。一方的に用件を伝えてすぐにいなくなる。探ろうとしても一切手掛かりが見つからない。何せ、代理人はただ渡されたメモを伝えるバイトをしているだけだった。だからこそ、相手の本拠地に一番近そうな、それでいて一番情報が集まる首都で探りを入れて、方向性を決めようというのである。

 ライラのしていた仕事の話に耳をそばだてるエッカは、時折コクコクとうなずいてみたり、感心したような相槌を打ったりしていた。ライラにとってソフミシアやエッカの過ごしてきた日々がライラには想像だにできないように、ライラの過ごしてきた日々がエッカにとっては新鮮なものであるらしかった。

「それが普通の『働く』ってことなのだろうねえ」

「これが普通だと思いますよ。ただ、これはこれで辛いです。ひどい仕打ちに合うと、ほかの人がしがみついている普通についていけなくて置いていかれてしまうと思ってしまいます。事実、そう思って見切りをつけたわけですから」

「ひどいことをした人に対して仕返ししようとか、考えなかった? 私の場合はすぐに仕返しをしていたけれど」

「考える気にもなりません。何をやっても無駄なのが分かっていますから。やったところで状況は変わらないので」

「だから辞めるって仕組みがあるわけだね。私の世界だと辞めるって考えがないからね」

「どうしてですか。仕事を受けなければ辞めたことになるでしょうに」

「仕事をすればするほど、私たちは機密の塊になっていくの。それが仕事をもうしないとなれば、私たちの抱えている機密はどう処分する? という話になるわけさ。答えは簡単でしょ? よっぽどの自信か覚悟がないとできないことだよ」

 エッカが指で首を掻っ切るしぐさをしたところで船室に耳障りな音がとどろいた。たちあまちエッカは閉じて外を注視した。体に響く重低音が一層強くなった瞬間に景色が横に滑り始める。桟橋ではスタッフが手を振って船を見送る姿があった。船はあっという間に速度を増して、スタッフの姿はあっという間に見えなくなってしまった。

 ついに出発したね、とエッカが半ば感心したようなそぶりで口を開いた。顔から零れ落ちる笑みには喜びにあふれていた。ソフミシアを殺すという仕事から逃げ切った喜び、ソフミシアと行動をともにできる喜び、新しい旅の連れができた喜び、といったところか。

「そういえばミアちゃんが言っていたよ」

「何をですか」

「これほどまでに心穏やかな船出はなかった、って。ほら、こういう仕事で船に乗るっていうと、相手の領地に飛び込むか追っ手から逃げるか、ぐらいしかないのよ。ただでさえ狭い場所に詰め込まれるから、その分、敵にも追い込まれやすい。だからミアちゃんはすぐに逃げられるようにしているの」

「じゃあここにいないで甲板にいるのは飛び込んで逃げられるように、ということですか」

「今までだったらそういうことだね。でも、今は違う。ミアちゃんはしっくりくる言葉が分からなくて戸惑っているようだったけれども、自身の中で何か変わったことと船出を重ねているみたいだったよ」

「変わってくれてうれしいです。だって初めて会ったころは」

「うん、聞いた。あの出来事はミアちゃんを徹底的に追い込んだのね。一瞬じゃなくて、じわりじわりと長い時間をかけて。その時にライラちゃんがいてくれたよかったよ。もしかしたら、って考えるとさ」

 話しているそばから言葉が震えだした。涙だまりからはとめどなくあふれていた。ついさっきまで普通に話していたとは思えないほどの変わりようだった。

「ありがとうね、ミアちゃんを救ってくれて、ありがとうね。ミアちゃんは私の心のよりどころなの。ミアちゃんがこの世にいないって知ったら、私も生きてはいられないから。ありがとう、本当にありがとう」

「急にどうしたのですか、ええと、その、とにかく落ち着いてください。周りに人がいるのですから」

「なんだか、緊張の糸が切れたっていうか、なんて言ったらいいのだろう、よく分からないのだけれども涙が止まらないの。うれしくてたまらないのだけれど、涙が止まらないの」

 エッカが落ち着くような兆しはどこにもなくて、目をいくらこすっても涙が乾くことはなかった。スポイトあるいは注射器で水をかけられているかのような濡れぐらい、そして震える声と嗚咽はまさに号泣であった。その一方で、エッカが口にしているように、悲しみのどん底にいる表情をしていない、笑顔と分かるだけの顔をしていた。涙と笑顔でぐちゃぐちゃだった。

 エッカの豹変ぶりは、しかしライラを狼狽させてしまうほどではなかった。ライラはエッカを抱きしめると背中を優しくさすって、時たまぽんと叩いた。あえて言葉をかけないで、ただひたすらに抱きしめた。柔らかな手つきでさすった。母親が子にするような、全てを包み込んでしまうほどの抱擁を、エッカが落ち着くまで続けるのである。

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ソフミシア・フィルンと嵐の場合 衣谷一 @ITANIhajime

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