3
体育館に響くピアノ、歌声。
今日は合唱祭当日で、私たちのクラスの番が迫っていた。
私がいる後ろのほうでは遠くにポツンと見えるだけだし、音が回って綺麗に聞こえないし、全然よくなかった。練習不足でヘタなクラスもあるし、雑談している生徒の声が煩わしかったりするけれど。それでも、皆んなが一生懸命に歌っているのが分かった。
「うー、次の次かあ。キンチョーするぅ」
小声でマミがそう言う。
「次の次の、次だよ」
私がそう訂正すると「それでももうすぐじゃん!」と言って手の平に人を書いて飲み込んでいた。
視線をステージに戻す。皆んな指揮者の方を熱心に見て、指揮者は全体に気を配りながら、それでも伴奏と歩調を合わせることを気遣っているのが分かった。
「私、ちょっとトイレ行ってくる」
「お、キンチョーしてるな?」
マミは自分も緊張しているくせにそう言って、からかってきた。私はそれに曖昧に返す。
「出番の前にはステージ横に並んどかなきゃだから、早く帰って来いよー」
「うん、分かってるって」
私はそう言って、体育館を抜け出した。
廊下まで合唱は響いている。私はその足でトイレを通り過ぎて、階段を上った。
瞬きすると、さっきのクラスの合唱の様子が浮かんだ。指揮者に向けられた熱視線、そして、指揮者と伴奏の関係。
それは、そのまま私とあの二人の関係を示しているようで。
「忘れなきゃ……忘れなきゃ……」
そう一人呟きながら、屋上のドアを開けた。
曇り空に、一羽カラスが侘びしく飛んでいる。
もう終わった恋だから。もうどうしようもないことだから。考えるべきは、これから先の事。そう自分に言い聞かせる。けれど、消したい感情が、温かさが、暗さが、この胸から溢れて仕方なかった。
目頭が熱くなる。
ダメだと思ったけれど、抑えられない。
視界が滲んで、頬を伝う。
小さく聞こえる合唱曲。
さっき体育館で聞いていたクラスではないから、早く涙を止めなくちゃと思った。手の平で涙を何度も何度も拭うけれど、止め処なく溢れるそれは止まらなかった。
あっという間に小さく響く曲は変わっていた。クラスの皆んなはもう並び始めているだろう。けれど、涙は止まらない。
最早、歌いに戻ることは諦めていた。これだけ泣いてしまった後だし、声も出ないだろう。
その時、ドアが開いた。
「あ……」
彼だった。
「探した」
走ってきたのだろう。彼は息を切らしながら、そう言った。私は泣いていることを悟られたくなくて、俯いて、手で顔を隠す。
「ああ、ごめん。ちょっとさ、あのー、あれだから。先戻っといて。私もすぐ戻るから」
明るくそう言ってみるけれど、どうしても声は震えた。
「泣いてる」
「泣いてないから」
彼にそう指摘されるけれど、否定する。
「……そっか」
「そうだから、ほんとに」
俯いているせいで涙がこぼれて、コンクリートを濡らしている。彼にも多分、見えている。それが恥ずかしくて、私は彼に背を向けて、フェンスギリギリから空を見る。
「実は声枯れちゃってさ。……今日はちょっと歌えない」
枯れてない声で私は言い訳がましくそう言う。
彼は黙ったまま、私の隣に立った。
曲は二番サビに入っている。
「ほら、指揮者は戻らないと」
彼にそう促すけれど。
「俺も、喉枯れちゃってさ」
「……関係ないじゃん」
彼はそのまま、腰を降ろした。彼が私にも座れという仕草をするから、その通りにしてしまう。
「伊藤に戻らなかったらやっといてくれって言ったから大丈夫」
「でも、伊藤くんの指揮では練習してないし……」
彼に戻るように促すけれど。
「……そだな」
動く気配のない彼が、私は嬉しかった。
ダメな女だなぁ、私って。そう思うけれど、鼓動の高鳴りは収まらなかった。
「ごめん」
「何が?」
彼の唐突な謝罪の理由が分からなくて、私はそう返す。
「昨日の朝練のこと。七時過ぎくらいに、学校来てたでしょ」
「……知ってたんだ」
「うん、窓から見えた」
また一曲は終わって、次は私のクラスだった。
「俺、遅れた原因だってなんとなく分かってたのに、ああいう反応しちゃった」
涙はいつの間にか止まっている。
「いいよ。なんでああいう反応したのかも、分かってるから」
早く関係を普通に戻そうという、彼なりの気遣い。
分かっている。だって、私は彼のそういうところを好きになったのだから。
そして、うちのクラスの「大切なもの」のイントロが始まる。
「こんなこと言うの、違うのかもしれないけど」
彼は私を見て、続ける。
「俺、お前と仲良くしてたいよ」
その言葉に私は少し考えてから、黙って頷いた。
ああ、好きだなあ。
暗さのない、純粋な好きが心に溢れる。忘れようとして忘れられるわけがない。
その時ふっと無理に忘れる必要なんてないんだと思えた。
”あれから いくつのも季節こえて 時を過ごし
それでも あの 想いを ずっと忘れることはない
大切なものに 気づかないぼくがいた
今 胸の中にある あたたかい この気持ち”
「大切なもの」が聞こえる。
まだ、彼に恋していよう。
一緒になれなくても、それでもまだ、彼に恋していよう。
その先のことはこの恋が終わってから、それからでいい。
〈fin.〉
それから 蟹家 @crabhouse
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