体育館に響くピアノ、歌声。

 今日は合唱祭当日で、私たちのクラスの番が迫っていた。


 私がいる後ろのほうでは遠くにポツンと見えるだけだし、音が回って綺麗に聞こえないし、全然よくなかった。練習不足でヘタなクラスもあるし、雑談している生徒の声が煩わしかったりするけれど。それでも、皆んなが一生懸命に歌っているのが分かった。



「うー、次の次かあ。キンチョーするぅ」


 小声でマミがそう言う。


「次の次の、次だよ」


 私がそう訂正すると「それでももうすぐじゃん!」と言って手の平に人を書いて飲み込んでいた。


 視線をステージに戻す。皆んな指揮者の方を熱心に見て、指揮者は全体に気を配りながら、それでも伴奏と歩調を合わせることを気遣っているのが分かった。


「私、ちょっとトイレ行ってくる」


「お、キンチョーしてるな?」


 マミは自分も緊張しているくせにそう言って、からかってきた。私はそれに曖昧に返す。


「出番の前にはステージ横に並んどかなきゃだから、早く帰って来いよー」


「うん、分かってるって」


 私はそう言って、体育館を抜け出した。

 廊下まで合唱は響いている。私はその足でトイレを通り過ぎて、階段を上った。


 瞬きすると、さっきのクラスの合唱の様子が浮かんだ。指揮者に向けられた熱視線、そして、指揮者と伴奏の関係。

 それは、そのまま私とあの二人の関係を示しているようで。


「忘れなきゃ……忘れなきゃ……」


 そう一人呟きながら、屋上のドアを開けた。

 曇り空に、一羽カラスが侘びしく飛んでいる。


 もう終わった恋だから。もうどうしようもないことだから。考えるべきは、これから先の事。そう自分に言い聞かせる。けれど、消したい感情が、温かさが、暗さが、この胸から溢れて仕方なかった。


 目頭が熱くなる。

 ダメだと思ったけれど、抑えられない。

 視界が滲んで、頬を伝う。


 小さく聞こえる合唱曲。

 さっき体育館で聞いていたクラスではないから、早く涙を止めなくちゃと思った。手の平で涙を何度も何度も拭うけれど、止め処なく溢れるそれは止まらなかった。


 あっという間に小さく響く曲は変わっていた。クラスの皆んなはもう並び始めているだろう。けれど、涙は止まらない。

 最早、歌いに戻ることは諦めていた。これだけ泣いてしまった後だし、声も出ないだろう。


 その時、ドアが開いた。


「あ……」


 彼だった。


「探した」


 走ってきたのだろう。彼は息を切らしながら、そう言った。私は泣いていることを悟られたくなくて、俯いて、手で顔を隠す。


「ああ、ごめん。ちょっとさ、あのー、あれだから。先戻っといて。私もすぐ戻るから」


 明るくそう言ってみるけれど、どうしても声は震えた。


「泣いてる」


「泣いてないから」


 彼にそう指摘されるけれど、否定する。


「……そっか」


「そうだから、ほんとに」


 俯いているせいで涙がこぼれて、コンクリートを濡らしている。彼にも多分、見えている。それが恥ずかしくて、私は彼に背を向けて、フェンスギリギリから空を見る。


「実は声枯れちゃってさ。……今日はちょっと歌えない」


 枯れてない声で私は言い訳がましくそう言う。

 彼は黙ったまま、私の隣に立った。


 曲は二番サビに入っている。


「ほら、指揮者は戻らないと」


 彼にそう促すけれど。


「俺も、喉枯れちゃってさ」


「……関係ないじゃん」


 彼はそのまま、腰を降ろした。彼が私にも座れという仕草をするから、その通りにしてしまう。


「伊藤に戻らなかったらやっといてくれって言ったから大丈夫」


「でも、伊藤くんの指揮では練習してないし……」


 彼に戻るように促すけれど。


「……そだな」


 動く気配のない彼が、私は嬉しかった。

 ダメな女だなぁ、私って。そう思うけれど、鼓動の高鳴りは収まらなかった。


「ごめん」


「何が?」


 彼の唐突な謝罪の理由が分からなくて、私はそう返す。


「昨日の朝練のこと。七時過ぎくらいに、学校来てたでしょ」


「……知ってたんだ」


「うん、窓から見えた」


 また一曲は終わって、次は私のクラスだった。


「俺、遅れた原因だってなんとなく分かってたのに、ああいう反応しちゃった」


 涙はいつの間にか止まっている。


「いいよ。なんでああいう反応したのかも、分かってるから」


 早く関係を普通に戻そうという、彼なりの気遣い。

 分かっている。だって、私は彼のそういうところを好きになったのだから。


 そして、うちのクラスの「大切なもの」のイントロが始まる。


「こんなこと言うの、違うのかもしれないけど」


 彼は私を見て、続ける。


「俺、お前と仲良くしてたいよ」


 その言葉に私は少し考えてから、黙って頷いた。


 ああ、好きだなあ。

 暗さのない、純粋な好きが心に溢れる。忘れようとして忘れられるわけがない。

 その時ふっと無理に忘れる必要なんてないんだと思えた。


 ”あれから いくつのも季節こえて 時を過ごし

 それでも あの 想いを ずっと忘れることはない

 大切なものに 気づかないぼくがいた

 今 胸の中にある あたたかい この気持ち”


 「大切なもの」が聞こえる。


 まだ、彼に恋していよう。

 一緒になれなくても、それでもまだ、彼に恋していよう。

 その先のことはこの恋が終わってから、それからでいい。


〈fin.〉

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それから 蟹家 @crabhouse

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