第72話 別に私が語り手でも世界・物語は作れるもの
おれとハチバン、それにブラノワちゃんは、遊歩道では痛すぎるから、ということで観客を引き連れて砂浜におり、柔道の投げ技の見本みたいなことをいくつかやった。実は投げ技というのは、投げられる側がうまいことやれば、そんなに痛くないし、場所を選べばそんなに危険でもない。関節技や絞め技のほうが痛いし危険である。おれは黒澤明の映画『姿三四郎』で修道館の矢野正五郎が闇討ちを仕掛けた相手を次々に川に投げ飛ばしたみたいな感じで投げ飛ばされた。男子としてのおれの体は、女子だったときと比べるとだいぶ大きさが違うので、はじめの何度かはうまくいかなかったが、すぐにコツはつかめた。
おれの姉貴は、口上を述べながら親父の電子書籍を売っている。
親父の本は英語を含む世界各国の言語に翻訳されており、ブラノワちゃんみたいな美少女探偵が活躍するシリーズもあることはあるのだが、オリジナルは20世紀末の日本各地を舞台にしたローカルなものだったので、英語圏に売られた際には勝手に、というか適当に第二次大戦後のアメリカ各地を舞台にした話に変えられている。そんなのは親父もおれも、読者のほうも気にしないから特に問題はない。
*
しばらくすると観客も散って、空はどんどん雲が厚く黒くなり、風も冷たい感じで強くなってきた。
「だいたい、ナオがなんで女子設定なのか、どうも納得できないんだよね」と、おれの向かい側に座り位置を変えたハチバンは言った。まだ話が終わってないのに反省会かよ。
おれの隣では、姉貴がにこにこしながら話を聞いている。正確には、にやにや、かな。
「えー? だって一緒に露天風呂入るとか、おれが男子だったらできないやん。水玉模様のビキニだって着たし」と、おれは言った。
「でもビキニは過剰な、というよりむしろ無駄な読者サービスだったと思うなあ。ハチバンの水着とか、ブラノワちゃんの十字架はりつけとか、そういうのは見たいかもしれないけど」と、姉貴も口を挟んだ。
「読者サービス過剰なのは、私のほうだと思いますわ。もしこの世界が誰かの物語で、私が登場人物のひとりだとしたら」と、ブラノワちゃんは言った。
「おれのほうが絶対ひどい目に会ってるって!」と、おれは力説した。それはともかく、この世界、この物語の主人公はおれの一人称で語られてるはずだ。
「そんなことはないわ。別に私が語り手でも世界・物語は作れるもの」と、私は言った。風で飛びそうな帽子をいったん膝の上に置いて、背筋を伸ばした私を、ナオは驚いたような顔で見た。いや、実際におれは驚いた。
「まあ、物語の語り手の力なんてそんなもんだよ」と、あたしは言って、ブラノワちゃんの帽子とあたしの日傘とを交換した。
「さて、とにかく戦う時は来たようだな」と、わたしは言って、左手の握りこぶしを右の手のひらにぶつけた。右手にはルビーの指輪をしているので、うまく左の手のひらにはぶつけられないのだ。
「みんなもう、勝手に一人称で言うのやめてよ! …ところで、姉貴が戦うのって…おれ?」と、おれは聞いた。日本語の一人称はたくさんあるので、誰が何を言ってるのかわかるんだけど、これが英語だったら大混乱である。
しかし、正直なところほぼ幼女体型、さらに姉という相手には勝てそうな気がしない。
「いや、あなたが戦う相手はわたしではなくて神。わたしは応援するだけ」と、姉貴は言った。
それはひどい。
「大丈夫だよ、あたしたちも応援するからさ」と、ハチバンは言った。
応援するだけじゃなくて、一緒に戦ってくれよ。しかし、神様は倒せない気がするなあ。
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