第56話 世界を救う代償
まずヘラの目に飛び込んできたのは異様な光景だった。それはもう人とは呼べない何か、生きているのか死んでいるのかもわからない、不気味にうねり蠢く流体が叫喚しているかのように弾けては戻りを繰り返す。
「カルマ…………。」
だがそれが、間違いなくカルマなのだとはすぐにわかった。奴隷として生きた日々から解放され、飛び出した世界で死にぞこなった瞬間から隣に居た彼は、まるで使命に取り憑かれたようにそれに命を費やしてきた。「不死身」という特性を持って魔王の側近である四楼の一人も苦しめ、その四楼ですら喰いとめるのがやっとだった戦士を服従させ、どうしたら目的を果たせるかだけを考え生きてきた彼の魔力を、ずっと隣で見ていた私が見間違えるはずもない。
しかしそれは、もう魔力と呼べる代物ではない。あれ自体が、一つの意思を持った生命体に思えるほど、生命力に満ち溢れている。
ヘラの脳裏に、かつて同じような事をしたカルマに、サディスが言い放った言葉がよぎる。
「魔力が……暴走してるの?」
実際にそうなっている様を見た事はない。また、サディスが言っていたそれとはまた違うようにも思える。それが余計に、この状況をただ事ではないと悟らせる。
辺りに倒れているのはアルス、それと恐らく……魔王だろう。よもや私の時と同じように、あの二人の魔力も吸い取ったのか。
「カルマ……あなたは一体、何を考えてるの?」
その返事は返ってこない。もはやそれを返す事すら、今の彼の頭にはないのだろう。ヘラは無造作にプラズマ・アメジストをカルマに向けた。
「……わからない。私はどうすればいいの?」
彼の考えていることはいつもよくわからないが、今回はいつにも増して度を越えていた。一体なぜ、それだけの魔力をため込んで、何をしようと言うのだろうか。私が今ここに居るのは、間違いなく彼が私をここに呼んだからだというのに、それ以上がまるで感じ取れない。
敵意が、向けられない。銀杖の先端は揺れに揺れていた。
そんな迷う心に付け込むように、腕回り程の太さのある魔力の鞭が真っ直ぐヘラの体目がけて突き進む。残像を追いきれない速さで迫るそれは、回避しようと体を捻ったヘラの脇腹を掠め、過ぎていく。
「……ッ!?」
焼けつくような感触。だがそれだけではない。まるで息を吹きかけられたような生温かさが、赤く腫れだした肌にヒリヒリと染みる。
休む間もなく迫る圧迫感。流されるように横っ飛びしたその頬を、紫の流体が鋭い動線を残して通り過ぎる。受け身も取れず転がるヘラの体、それを一直線に走る魔力の杭がヘラの命を脅かす。
反撃しなければ自分が死ぬ、そんな危機感を募らせながらも、ヘラはあともう一歩のところで魔法を発動できずにいた。
(……ダメ、できないよ。カルマ……。)
唇を噛み締めても苦しみが増すだけ。震える手を奮い立たせなければいけないのはわかっている。それでもヘラの中で積み重なった短くも厚い時間は、そう簡単に捨てられるものではなかった。一つ迷う度に、その隙間を殺意のある一撃が容赦なく埋める。それがカルマの意志であると思えば思うほど、心の底にあった彼への恐怖心が込み上げる。
いっそこのまま死んでしまえば、楽になれるかもしれない。
また、迷いがヘラの体を縛り上げた。
「――ッ……。」
すっと血の気の引いた青い唇を噛み締めながら、固く瞼を喰いしばる。その瞬間は、きっととてつもないほど痛くて、我慢できないと思っていたからだ。
だがそれは、優しく胸の奥を叩くようだった。
「……あっ。」
瞼をそっと開いた。目にも留まらぬ速さで迫っていたはずの殺人杭はぴたりと止まり、軽く胸に触れながらギラギラとその気味の悪い体を輝かせている。
脳裏によぎったのは、短くも長く聞いていない、あの気に入らない太い男の声。
(ヘラ……俺を殺せ。)
「カルマ……何言ってるの?あなた死なないんでしょう?」
(あぁ。……だが見ての通りだ。俺にはもう、生きる事すら叶わない。)
「それが……世界を救う代償なんだね。」
(よくわかっているじゃないか。少しは成長したようだな。)
「してないよ、全然。今だって、あなたが何をしているのかがわからない。」
(わからない?……そんなはずはない。お前は目を逸らしているだけだ。)
「逸らすよ。だって、見つめたら死んじゃうんでしょ?あなたにはまだ死んでほしくない。」
(お前は変わった。そして俺も……この世界も。)
「そんなの、理由にならないよ。」
(なる。少なくとも、世界を救う理由はそれで足りる。)
「……嘘だ。全然足りないよ。」
ヘラはカルマの鼓動を感じ取っていた。かつて彼がタマを閉じ込めた時のように、その暴走した魔力体の中から彼の体を探し出しているのだ。
しかし、カルマの体は完全に魔力と同化していた。むやみに切り離せばそれこそ魔力が暴走し、手がつけられなくなるだろう。それはつまり、カルマの自我だけを取り戻すことは不可能に近いということ。カルマはそれをわかっていてやっているのだ。
(嘘でも屁理屈でもいい。それが理由になるのなら、それで全て事足りる。)
相変わらず、彼の頭には世界を救う事しかない。本当に醜いほどしつこくて、狂信的で、素敵だ。その愚直さには憧れすら覚える。
(俺がお前に殺される過程で、俺の魔力が消えた世界を取り戻す。世界の全てを取り戻した時が、俺が死ぬ時だ。)
彼はずっと口癖のように言っていた。「俺は世界を救うまでは死ねない」と。
それはつまり、世界が救われた時、カルマは死ぬということ。
そして私は、そのためにここにいるのだと。
その為だけに、彼にこの瞬間まで生かされてきたのだと、残酷な世界は私に告げる。
「……そんなの、あんまりだよ。」
彼なら簡単に受け入れてしまうような運命も、私には耐えがたい苦痛だ。それは言葉にしたところで和らぐはずもなく、締め上げられた鎖の感触が冷たく染み渡る。
ヘラが迷っているうちにも、無の領域の侵食は進んでいく。カルマとヘラが呑み込まれてしまう前に事を進めなくてはならない。彼らとて、それに飲み込まれてしまえば存在ごと消されてしまうことに変わりはない。ヘラの迷いはそのまま、カルマの焦りに変わる。
震える手には、いっそ痛みを。
「ウ”ウ”ウ”ウ”ア”ア”ッ”!!」
声にならない檄が飛んだ。真っ直ぐヘラへと迫る六本の魔力の鞭。気の抜けていたヘラの体は簡単に押し倒され、手首足首を掴まれ身動きが取れなくされてしまう。無抵抗のまま横たわる体に迫る、人ならざる苦痛と戦い続けるカルマの体。
のそり、と覗き込んだヘラの目元には涙が溜まり、それが目じりを優しく撫でるように大地へと還っていく。
「ねぇ……もっと別の方法を探そうよ。私とカルマならできるよ。そしたらこんな……こんな悲しい終わり方じゃなくたって」
「―お前は、本当にバカな女だ。」
運命を受け入れようとしないヘラに向けた罵倒。だがそれは、いつものように呆れや蔑むような、そういうものではなかった。
目じりに伝った涙を、ドロドロに溶けかかった親指を当てそっと拭う。表情こそないが、いつものような嫌悪感のある嫌味なそれではない。
諦めにも似た優しさが、このまま何も変わらずに終わってしまえたらいいと思うヘラの心に突き刺さる。その歪な優しさが、この残酷な状況のせいで余計に物悲しくなって、歯を喰いしばらなければ今にも泣いてしまいそうになる。
「お前は……死ねないという苦痛を味わったことがあるか?死にたくて死ぬやつはいくらでもいる。彼らは勇敢だ。苦しみから逃れる方法を知っている。だが俺のように……罪悪感に囚われ、使命感に縛られ、身体も心もボロボロになりながら、それでも前を向いて足を踏み出さなければならないやつは、一体どうすれば苦しみから解放される?答えは無、だ。苦しみから逃れる方法はない。ひたすら辛苦を飲み込み、己に言い聞かせ、逃れる方法を探して路頭に迷う。時に他人に理由を預け、時に時代に理由を預け、どうしようもなくまとわりつくその呪いを少しでも忘れようと、愚行を繰り返し、正義を主張し、また苦しみを積み重ねるだけの時間を過ごす。」
いつものように、偏屈なことばかり言いながら、あたかも自分がそれと戦ってきたような苦しさを吐露する。弱音には聞こえないかもしれないが、私は知っている。カルマは、そんな悲しみと向き合えるような強い人ではないのだと。
「それで少しでも世界の為になるのなら、俺は喜んで自分の半生を捧げる。なに、簡単な事だ。そうしていれば、自分は死んでよかったのだと赦された気分になれるのだ。未練がないとはいい事だ。何も呪わなくて済む。」
嘘だ。カルマは本当は、死ぬのが怖くてたまらないんだ。あんなに死にたがっていたくせに、いざ死ぬとなれば怯えている。死なない体を持ったって、死なないから大丈夫なんて事はない。
カルマはいつも、他人の恐怖や怨念に背を向ける。それは、本当は自分がそうなってしまうのが怖いからなんだ。
「俺を殺せ、ヘラ。お前が世界を救うんだ。」
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